「ありがとうございましたー」
重なった同じ言葉に見送られて、二人は店を出る。一杯のアルコールではほろ酔いにもなれないけれど、じんわりと身体は温まっている。中との気温差に一瞬すくんで吐いた呼気は熱い。食事もしたからなおのこと体温が上がっているんだろう。凪いだ風のなかで、白息が宵闇にゆっくりと瞬くあいだだけ残って溶け消える。
ふと、うなじのあたりでとりあえずと巻いたマフラーがもそもそと動くのを感じる。背中に垂れ下がったままだった端っこを結んでくれてるのをすぐに理解して、はいよ、と背後で声がしたのを聞いてから赤葦は振り返った。
「ごちそうさまでした」
「はい、ごちそうさまでした。いや、ワリカンだけどね」
厳密に言えば、黒尾が小銭のなかった赤葦の端数を出してくれたのだが、そうですね、とおかしそうに言う黒尾に赤葦も口の端をちらりと上げた。
「さ、帰るか」
店先のガラス戸から煌々と落ちる明かりを背景にした、黒尾の顔が影の中でほんのりと甘く切なくみえた。返事をし、連れ立ってまだネオンの明るい駅前の夜の小さな喧騒を後にして、坂を下っていく。
裏道に入る曲がり角にはコンビニがある。ちょっと寄っていいですか、と赤葦は指差した。黒尾が頷くのを見て一緒に中へ入り、数分もしないで出る。表通りから角を曲がって、裏の道に入った。
電車の発着時間とずれたのか、この時間帯ならぽつぽつといるはずの帰路をゆく背中は遠くの方に一人しか見えなかった。その背中も、今度はゆるやかな上り坂となる頂上の向こう側へ吸い込まれるようにいなくなる。ネオンと喧騒のない、電灯の明かりがところどころに小さく落ちる住宅街の道だ。
手に提げていた買ったばかりの小さなレジ袋から、赤葦はほかほかの紙包みをひとつ取り出した。隣を歩く黒尾に、どーぞ、とそれを手渡す。
「奢りです」
「もしかして誕生日プレゼント?」
はは、と笑いながらも、礼を言って黒尾はそれを受け取った。
「あったけー」
中身は肉まんだ。赤葦も袋から取り出して包みを開ける。腹のふくれ具合は六分目といったところだろうか。家に帰って何かまだ腹に入れたい気もするけれど、とりあえずこれを食べ終わってから考るか、と赤葦は思う。一口かぶりつく。柔らかで少ししっとりした生地と、濃い目の味付けの餡。はふはふと口の中が熱くなる。
横を見ると、あち、と自分と同じように熱を逃がしたくて白い息を躍らせている黒尾がいた。
「黒尾さん猫舌なんだから気をつけないと」
「や、うん、めっちゃあっついわこれ」
でもおいし、とアルコールのせいもあって上機嫌に目を細めて笑う黒尾に、赤葦はほんの少しだけ、二人のあいだを詰める。
「俺、ここのがいちばん好きです」
空になったレジ袋をひゅっと振り上げる。暗い夜空にわずかなあいだ、くしゃっとなったそれがおばけみたいにふらふらと漂った。
「俺も肉まんはセブンがいちばん」
「今日の焼き鳥は?」
「ああ、うまかったね〜、今まで食べた中でいちばんかも」
うん、と赤葦も頷く。焼き鳥がおすすめと謳うだけあって、注文したもの全部美味しかった。一口もらったひなも。
「締めのそぼろごはんも美味しかったです」
「お茶漬けはね、いつ食べても美味いんだよねえ」
やけにしみじみ言ってみせるのに、赤葦は小さく笑いを漏らす。まるで残業ばかり、飲み会続きのサラリーマンみたいな台詞だ。大きくかぶりついて、咀嚼する。さっきまであんなに熱々だったのに、この気温だと冷めていくのもあっという間だ。
「から揚げはあのラーメン屋のがいちばんっすね」
「あ、あそこな!俺も思った。あっちのがもうちょっとカリッとしてジューシーだよね」
いつも行くラーメン屋で注文するサイドメニュー。家だとわざわざ出しもしないのに、そこではちょこんとお皿に盛られているマヨネーズをつけて食べるのが二人とも好きだ。ラーメン食いたくなんな、とぼやいた黒尾に、まるで同じことを考えていた赤葦は、そうっすねえ、と喉を鳴らす。足元にあった、小さな小さな小石をつま先で蹴り上げた。
「肉そばですかねやっぱ」
「それな、俺めっちゃ好き」
「みそバターコーンは」
「太ちぢれ麺のね、サイコー」
「ネギ大盛り背脂たっぷり豚骨ラーメン」
「あー、それも捨てがたいわ」
喉を仰け反らせて吐きつけた黒尾の吐息がすうっと夜空へ舞い散っていくのを見る。坂を上りきって右手に誰もいない公園が見えた。ぽつんと佇む電灯のしたで、やっぱりこちらもひとりぼっちの小さなジャングルジムがある。それを横目に見送って、今度は長い長い坂を下っていく。
今、車が通り過ぎていった。眩しいヘッドライトが脇へ流れ去っていくのを顔をしかめてやり過ごしたら、また二人の静かな靴音が戻ってくる。坂を上ってくる人影は遠くにも見当たらなかった。坂の下を横に走る道は赤い光を点して車が列を成している。大きな道路へ出る道なのだ。
最後の一口を放り込んで、赤葦は包み紙を四つ折りにしてレジ袋へ投げ入れる。はい、と赤葦が手を出すと、黒尾がくしゃくしゃに丸めて持っいていた包み紙を渡してきた。
「俺ね」
と黒尾が言った。はい、と思わず返事をしてしまうのは自分の癖でもある。レジ袋にごみを放り込んで、顔を上げた。
「ここから見る夕暮れが好きなのよ」
夜に、透き通る横顔。寒さに青ざめはしない、けれど夜の淵の色と時間に浸されてそれは大人しい。促されるように、赤葦もその視線の先を見る。
急な坂だから、焦る必要のない今は歩調がゆっくりとなる。駐車場や戸建が脇並ぶこの道は視界が左右にも開けていて、空と下方に広がる住宅街の頭がよく見渡せた。夜空には今日も星がある。冬の空は張りつめるほどに深く、星の瞬く音の聞こえてきそうなほどに澄んでいる。その下に、ぽつぽつと灯りのともる街並みの向こう側に、今はない太陽の沈んでいく景色がある。
「……俺もです」
思い出しながら赤葦も呟いた。何度も、こうして一緒の帰り道で見た風景だ。一日の終わりを知る焦がれて焼けていく空と太陽の、必ず毎日訪れる数分間の奇跡。きれいだね、と言うのは聞いたことがあるけれど、好きだと聞いたのははじめてだ。でも、好きなんだろうということは、聞かなくてもたぶん知っていた。赤葦が好きだってことも、黒尾はきっと知っている。
「うん」
だから、これはそういう返事だ。あとさ、と黒尾は口の端を上げて目元くしゃっとさせて笑った。
「これくらいの、遅くない夜の帰り道もいいな」
「さみしくない?」
「まーね」
そう言って肩をすくめた。こんなでかい図体で何言うんすか、と肘で小突くと、だってあんまり遅い時間に歩いてるとすれ違った人にびくってされんのよ、とため息をつく。自分にも思い当たる節はあって、赤葦は曖昧な相槌しか打てなかった。
それとねえ、とやはりアルコールで気分の良くなっているらしい黒尾が数えるように話し出す。
春の夜道、寒くも暑くもない温い空気の中をたゆたう不思議。朝方の、静けさだけはまだ夜で覚めるように白じんでいく忘れもののような時間。夏の訪れるのが遅い夜はどこか人も車も騒々しくて、じとりと汗ばむのになかなか明けない感じが寂しくない。冬の夜はみんなどこか大人しくて、口数少なく、帰り道までのひとりぼっちを少しだけ楽しんでいる。
「そういうのがさ、」
と、そこで言葉を切った黒尾を見やると、とろんとまぶたを閉じてしまった。急に眠気がやってきたのだろうか、赤葦はぱちぱちと目を瞬いて、黒尾さん、と呼びかけて腕を引っ張った。こくと頷いてから、黒尾が酔ってないよ、とちらりまぶたを持ち上げる。
「ほんとですか」
いたずらな小さな黒目を息をはいて見やる。笑ったその顔は、確かにいつもの黒尾だ。大丈夫大丈夫、と黒尾がぽんぽんと赤葦の頭を撫でた。やっぱり変に酒が回っているのかもしれない。なんつーか、と言った声音には酔いはちっとも感じないのだけれども。
「好きって、思うよりたくさんあるね」
頭に置かれた手を取りどかしながら、やさしいその声と言葉を赤葦はゆっくり心に含む。その通りだと赤葦も思う。知らないうちに数えないうちに、好きなものは増えていくんだろう。こうやって、二人で過ごすうちに。
夜桜に寄り道した春の宵も、終電を逃した朝帰りも、部活でくたくたのはずの夏の夜も、好きな人の顔を思い浮かべてマフラーの中で微笑む冬空の帰り道も、黒尾の好きなものは赤葦の好きなものだ。指折って数える、好きなものの向こうにあるもの。
まだ手の中にある黒尾の大きな手を、そのまま赤葦はふたりのあいだでぎゅっと握った。約束より確かに強く、願いよりもっと欲張りに。目の合った黒尾が、誰か見てるかもよ、とからかった。はい、と返事する自分は何かを分かって、何かをちっとも分かりたくないのだと思う。
「俺もぜーんぶ好きですよ」
好きなものを数えて、きっと実は好きなあなたを覚えている。
夜空に突き抜けるように託した言葉で手をつないだ先にいる人が笑ってくれたら、きっと笑ったなら、もう一度好きだと告げて、黒尾の笑顔をくしゃくしゃにさせてやろうと赤葦は思った。
fin.(2016.11.17)