前祝いしましょう、と赤葦がその背中で言った。ひらひらと、チェックのマフラーの結び目が揺れている。大股でどことなく急いているように見えるのはきっと、とっぷりと日の暮れた木枯らし吹く帰り道が寒いからだ。駅近くの通りは車が多くなんだか忙しない。駆け抜けていくその速度と、排気ガスの素っ気なさに黒尾も思わずマフラーに口元をうずめた。
「まあ週半ばだからね……って、週明けすぐってどうよ」
前を歩いていた赤足が足を止めた。それに倣って、黒尾もぴたりとつま先を揃えて止まる。やってきたのは白熱電灯のあたたかいランプの光が満ちた前面ガラス窓の店だ。一見、おしゃれなカフェのようにも見える。そのガラス戸に赤葦が手をかけて振り返る。
「いいでしょ、だって木曜時間ないんだから」
ほんの少し尖らせた唇から白い吐息がこぼれて、それは開け放たれていく引き戸の気圧に押し戻されて散っていった。吐息の暖かさでなく、暖房の温い風がふわ、と美味しそうな匂いを引き連れて鼻の前を通り過ぎていく。香ばしくてほんのり甘い、醤油の匂い。
「奢ります、とは言えませんが」
「言えないのかよ」
ちょっと笑った。別に期待していたわけじゃないのだけれども、お互いまだ贅沢できる環境じゃないのは分かっている。定期的なアルバイトを入れるのもなかなか難しい。かつかつですもん、と言って同じように笑う赤葦の瞳は夜の色を吸い込んで、光を艶やかに受け流す。
「でも、ちょっとゴウカに乾杯したいんで」
ほら、と肘を掴まれて中へ誘いこまれる。はいはい、と返事をして、黒尾も足を踏み入れた。
二人が入ったのは焼き鳥がメインの飲み屋だ。居酒屋というほど雑多で賑やかな雰囲気はなく、バーというほどかしこまった雰囲気もない。開店してから約半年が経つと思うが、いつも前を通り過ぎるだけだった。中をのぞき見ると会社帰りのサラリーマンが一杯楽しんでいるかと思えば若い女性客もいたり、土日には家族連れが座っているのも見て、入りやすそうな雰囲気にいつか行ってみようと思っていたお店だ。
何名様ですかと、気づいた女性店員が小走りに出てきた。ホールスタッフ全員、揃いのシンプルなTシャツにカフェエプロンを巻いている。
「二人です」
赤葦が答えると、すぐに空いている席に通された。小ぶりな六角形のテーブルに細い黒の鉄パイプを使った木のイス。内装の雰囲気は本当にカフェレストランだ。ほんの少し煙る肉の焼かれる匂いと、漂うアルコールの香りを除けば。
脱いだコートとマフラーを近くにあったコートかけに置いて、大きな身体を二人、窮屈にテーブルに収めておしぼりもらう。
「ファーストドリンクは何にされますか」
そう言われて差し出されたのは、B5サイズくらいのタブレット。発色鮮やかな液晶にアルコールの写真と名前がずらりと並ぶ。ほいよ、と黒尾が赤葦のほうへそれを向けると、赤葦が首を傾けて、うーん、と小さく呟く。伏せがちのゆるやかなカーブに留まるまつげの影にいつもこの瞬間、目がいく。人が無防備になる瞬間だ。面を上げるまでの短いあいだの。
「じゃ、ゆず蜜ソーダ」
まぶたを持ち上げた瞳が黒尾を捉える。無意識に唇の端を緩めると、赤葦は少しだけ不思議そうに目を瞬いた。
「俺、塩レモンで」
おすすめと目に付いたものを注文すると、では以降の注文はこちらで、とタブレットを示されて店員が引き上げていく。
使ったおしぼりをくるくると丸めながら赤葦が言う。
「やっぱりまだ人少ないですね」
「まあねえ、月曜だしね」
首を巡らせて店内の様子をちらりと窺った。店内は二つのフロアに分かれていて、黒尾たちがいる道路に面した横に細長いエリアと、ガラス戸に区切られたキッチンを含む奥のエリアだ。出入り口のガラス戸も店内のガラス戸もどちらも全部開けることができそうな仕様で、夏の暑い時期にどちらも開放してビアガーデンのようにしたら気持ちがよさそうだ。二人のいる場所に席は6つほど、半分は埋まっていて、中のカウンター席はまばらに、テーブル席は三つとも埋まっている。角っこの奥まったところにも席はあるらしいがここからは見えない。客はほとんどがスーツ姿のサラリーマンで比較的年齢層は若い。笑い声や楽しげな話し声が時折わくけれど、耳を傾けていなければ気にならない大きさでひっきりなしというほどでもない。皆のんびりマイペースを味わっているふうだ。開店してまだ一時間しか経ってないから、もっと夜も更けるころのほうが席は埋まりそうな気
配はある。
「お、女の子二人連れだ」
カウンターの、ここから見えづらい位置に柔らかそうなニットの華奢な背中が見えた。思わず口に出た以外、特に他意はなかったのだがすぐに遮られてしまった視界に反射的に顎を引く。どん、と目の前に並ぶ焼き鳥のメニューが眩く光る。その背後にじろりとはりつくような視線があった。
「ご注文は」
「あい」
タブレット越しに軽く頭を下げて、そんなんじゃないって、と笑う黒尾に赤葦がふん、と軽く鼻を鳴らす。こういうところも赤葦は自分に対して素直だ。テーブルの真ん中にタブレットを置いて、額を寄せ合うように覗き込む。
「予算はどうすっか」
と言いながら、黒尾はページを繰ってみる。メインの焼き鳥は一本二百円前後。四本は食べたいっすよね、と赤葦も値段に目を光らせつつ答える。
「……千二百円」
「締めも食べたい」
ラーメンやらお茶漬けやらが載るページを見つけて黒尾がぼそりと呟く。そうっすね、と赤葦が深く頷いた。
「じゃあ千五百円」
「よっしそうしよ」
それならと赤葦がページを戻しつつ、あと千円分くらいか、と真剣な顔でメニューを見つめる。
スポーツをやっている身もあって、黒尾も赤葦もよく食べる方だ。外食で、満腹になるまで好きなように食べてしまうと普通の人と同じ量にも金額にも収まらない。だから二人でいるときはこうやって予算を決めて注文する。それでも足りなかったら家でご飯なりカップラーメンを食べる。好きなだけ食べられるのも幸せだけれど、これはこれでゲームみたいで黒尾は好きだ。ときどき、どっちが予算金額に一円でも近いかなんてことを競ったりもする。ジュース一本、アイス一個を奢るか奢られるかで、大学の勉強よりもお互い必死になるのだから面白い。
「黒尾さん、焼き鳥何にします」
「んー」
どうしよっかな、と腕を組み身体を乗り出す。室内の気温はコートを脱ぐと肌寒かなと感じる程度。きっとアルコールを摂取したらちょうどよくなるあんばいなんだろう。おでこのあたりにふわ、と赤葦の髪が触れたのをそのまま、ぴったりと額をくっつけてみる。なんすか、とのんびりした声音は嫌がるふうも特に気に留めたふうもない。大男二人にこのタブレットは正直小さいのだ。
「ひなの塩」
「はい」
ぽち、ぽち、と注文のボタンをタッチする赤葦が、黒尾の考えているあいだに自分の注文も入力する。ももに、つくね、そしてハツ。
「俺もそれ」
「塩?」
「うん」
香ばしく焼けた焼き鳥の画像にお腹がぐーっとへこんだ。店内に入ったときからずっと匂いが充満しているから余計だ。うまそ、と無意識にこぼれる。
「あ、あと一品これにしよ」
入力し終わったのを見計らって、黒尾が先へページをめくった。サラダとおつまみのページを飛ばして現れた、からっとジューシーにあがったから揚げの写真。
「いいっすね」
「じゃこれの四個セットね」
食いたい盛りの男二人、何よりも肉だ。注文内容を確認して確定ボタンを押したところでちょうど、斜め上のほうからリズムに乗ったような高い声が降ってきた。
「お待たせしましたー」
あ、はい、と呟きながらそそくさと額を離し座り直すと、目の前の赤葦は相変わらずしれっとしていた。思っていても顔に出ない、というのもあるが、わりといつでも堂々としているのが赤葦だ。そういうところに赤葦の気の強さとちょっとしたわがままと、誰に対してではない自分自身に対しての意地みたいなのを見る。そこを黒尾は健気だと思いもするのだけれど、とこっそり笑みをこぼしてる場合じゃなかった、中央に置きっぱなしのタブレットをさっと避ける。
その空いた場所に、にっこりと笑顔を作った女性店員がアルコールのなみなみ注がれたグラスをふたつ、置いていく。
「こちらお通しの塩キャベツになります」
鉢皿にひとつかみ分盛られたざく切りのキャベツ。似たようなものはどこの飲み屋にもあるが、ゴマ油と塩のシンプルな味付けは飽きがこないからつまみにはもってこいだ。おかわりできるって、と店員の説明を受けて、赤葦がにっと笑う。お気軽にお申し付けください、の一言を残して、店員は席が離れていった。
ストローがついているほうを赤葦のほうへ押しやって、黒尾は輪切りのレモンと氷がぎゅっと閉じ込められたグラスを手に取る。さわやかな香りと、炭酸の小さな音が持ち上げた鼻先で弾ける。赤葦はというと、手にしたグラスの底をストローでかき混ぜるようにしていた。
「赤葦」
呼びかけて、グラスを差し出し傾ける。
はい、と行儀よく返事をして、赤葦もグラスを持った。氷がすずやかな音をさせて、ささったままの緑色のストローがゆらりと半回転する。
「かんぱーい」
かちん、とグラスの縁が触れて響き合う。グラスを口に運んだ。甘くない柑橘の味に、これまた塩のしょっぱさがちょっとだけ舌に残ってすっきりとした後味だ。脂したたる焼き鳥に合うだろうなあ、と思ったら待ち遠しくなる。ごくごく、と喉を鳴らして三分の一ほど減らして一息つくと、目の前の恋人はそんな自分をほんの少し楽しそうに眺めていた。
どしたの、と尋ねると、別に、と答えて小さく微笑む。
「あんまり美味そうに飲むから」
「そう?」
あと、前祝いって言ったの忘れてたでしょ、と言って、赤葦が自分のグラスをカラカラと振った。
「フライングだけど、ま、いいですよね」
と、ほんの少しあの眠たげな目をうっとりと細めるようにする赤葦は、当日も言いますよ、と付け加えるのを忘れない。
黒尾の目の前で、まだ口のつけられていないグラスが冷気にくぐもって、その肌をしとりと濡らしている。積み重なる氷の下にゆず蜜のジャムがまだ溶けきらずに沈んで、とろけた琥珀色がたゆたう。ビーズのような小さな気泡が生まれてはストローを伝っていく。おそるおそる上るそのひとつが、ぷつんと、上へ吸い込まれていった。音もなく、水面で弾ける。その向こう側に、赤葦がいる。
「黒尾さん、誕生日おめでとう」
今度は、微かな音がして小さな泡が弾けた。
「……ありがと」
何回言われてもほんの少しの照れ臭さがなくならない。控えめになった礼の言葉に、赤葦は、愛おしいものを見つめる甘さで肩を小さく揺らした。グラスの水面がきらきらとテーブルランプの光に瞬いて輝いている。それはこの胸にわく気持ちと似ている。しゅわしゅわと弾けて心をくすぐって、いっぱいに満たしていく。
きらめきの向こう側で、好きという向こう側で、赤葦は小さくはにかむように笑った。
fin.(2016.11.15)