――緑深しその山には、いつからか山神として里の民に畏れられる、物静かな鬼の怪がいるという。
「そっちじゃ!」
「逃がすな!」
いくつかの茂みの向こうで響く怒声と何人かの足音、それがまだ遠ざからぬあいだ、自分の身体をいっぱいに埋め尽くすのは浅い呼吸と、とく、とく、とく、といささか早鐘を打つ心の臓の音だ。
身を隠した茂みの陰の中でそばだてるは黄金色の狐の耳。人間よりも利く耳は聡く、慎重だ。葉と枝を擦らぬように少しずつ後ずさる。なかなか撒けずにいる苛立ちに、朱をいれた目元が険しくなる。彼らには土地勘というものがある。それに引き換え、自分はふらりと立ち寄っただけの流れ者。面倒なことになったな、自分でまいた種とわかった上で呟き、辺りを見回した。
こんな山はどこにでもある。密に生い茂る木々の枝葉に、昼の高い太陽の光が幾重にも濾過されほのかに青白い光になり、湿った土の水気をしっとりと吸い込んだ空気とともにあたりに、しん、と満ちている。そう、どこにでもこんな山はある。それが問題だ。ため息をつき、肩に引っ掛けた着物を羽織り直す。草木の色の中で、艶やかな花の柄をしたこの布地はよく目立った。撒けずにいる理由をそこに求めることも出来るが、これは気に入りのものだ。捨ててゆく気はない。着物の端が腰の辺りのわだかまりに引っかかる。ふさりと、毛並みのいい狐の尻尾が覗いた。
山里に住む足音たちが追っているもの、それは狐の怪だ。
軽やかに着物の裾を翻し、朽ちた葉を含む柔らかな土を踏み、瑞々しい苔のむす倒木を蹴り、艶やかに芽吹く草花をなじり、狐は足音も静かに山を駆ける。名を、赤葦という。人間との差異は頭に生えた獣の耳と尾っぽくらいで、それさえ隠せばまず疑われない。生まれはこれより南の方になるが、近頃悪戯が過ぎて転々と住処を移してきた。季節は移ろい、春になる。南より遅い春の兆し。まだ花の色のないつぼみ、枝を伸ばす草木の緑の濃さ、とろりと澄みはじめる池の水、よく利く鼻が匂い立つ春のかぐわしさを上手につかまえる。
悪戯といってもたいしたものじゃない、とは狐の言い分だ。人間をちょいと惑わして道を迷わせたり田んぼのぬかるみに落としてみたり、変化の術で騙くらかしてご相伴に与ったり楽しい酒の相手になったりその程度だ。と、赤葦は思うのだが、はて、あの酒がいけなかったか、と、ひょいと着物の端を捲くりあげ、行く先を遮る大きな枝を飛び越える。裾にまとわりついていた葉っぱが振り払われて舞った。
先日、赤葦がいつものように山里の人間を騙し、一杯やったその中にはお神酒があったらしい。そういうのは除けておいてくれないとなあ、と自分のことを棚に上げて物を考えるのは、言い訳を求める相手がいないからだ。もう長いこと、赤葦は独りでいる。
山裾の道、山の入り口、隣山と交わるところ、そういった要は山里の人間が先回りしていると踏む。こんなふうに緑深い山は、多くの山と同じように土地に住む人間たちに畏れられ大事にされているものだ。住むところ、分けてもらうところ、侵してはならぬところ、山のことを彼らは自分よりもよく知っている。深いところに立ち入るべきではない、それくらいは赤葦も分かってはいても、どこから抜け出たものかと迷う足が影の深いほうへと向かう。
このあたりにはきっと朝がない。夜は訪れても、すべてを目覚めさせるお天道さまの神々しい眩さはきっと届かない。足を止め、赤葦は顎を持ち上げた。高く高くそびえる檜林の、縮れた枝葉が幾重にもこのこんもりとした大地へ覆いかぶって、山自体が柔らかな緑の厚ぼったい繭のようだ。とっくりと包まれて、まるで胎のなかに戻った気分になる。居心地が良いようで落ち着かない。頬にいれた朱のひと刷けを少々歪ませ、のそりと重たげなまなこを細める。
「……まいったな」
何故って、胎の中にいるのはどうにも自分だけじゃない。姿かたちもあやふやな小さな何かが風と同じささやかさで蠢いている。自分と同じようで同じでない、狭間に生きるものたちがただ在るだけを示すように息づく。この身が慣れていないとは言わない。互いに干渉しなければただすれ違う間柄なのを赤葦はすでに知っているのだけれど、小さいものがいる、ということは、大きなものもいる、ということで、それは主や神として山のすべてを統べる。小さなものたちの脈づきに埋もれることはなく、しかし目立つこともなくそれは大きな同じ胎の中で呼応する。
ど、ど、ど、ど、どく、どく、どく、ど、くん、ど、くん。
山の大地に足を踏みしめて立つ赤葦の、中心から聞こえては弾け収縮する心臓の脈打つ音に重なり追い越し半歩ずれ、どどう、とときに赤葦の心の音を飲み込み、ど、ど、ど、と遠ざかる。ぐるりとあたりを見回してから、見られている、そう確信を得たときには遅かった。
ひゅ、と、背中を射抜くふたつの目。ぴしりと刺さり、赤葦は飛び跳ねるように振り返る。
……これはこれは。
赤葦の見上げる先、岩肌のあらわになった低い崖の上に、冬枯れの山を思うような鈍色の鱗紋の着物を身にまとった男が一人、立っていった。
話には聞いていた。いくつかの山を越えた向こうの緑深い山にいるという山鬼の話。人々の語るところ、骨のような小さな角を額に生やし、狐の白面の下に睨みのきき裂けた口元の強面を隠しているという。伝え聞いたとおりの姿がそこにある。
去ね。
微動だにしない山鬼が放ったその一言は怒声でないのに、まるで湖面を、たん、と叩いたかのように言霊は鬼の声音を通し淀みなく隅々に広がり響き渡る。その静けさに気圧されて、獣の毛が逆立った。
けれども狐が身構えたのと同時に、なんだ、と先手を取ったのは鬼のほうだ。あっけなく彫像のように思えた出で立ちが解かれ、構えた面が下ろされた。一見、人の姿に見紛うのは自分と同じだ。
けれどもその姿をまだ誰も知らないのだろう。
「お前、狐か」
明らかに人間のものではない翡翠の色をして、長身の鬼はその小さな瞳で赤葦を見つめた。
――葦、おい、赤葦。
呼ばれていることにようやく気づき、狐の耳に小川のせせらぎが蘇る。すっぱりと表面の削がれた、腰掛けるのにちょうどいい四角い白岩の上に片足をぶら下げて座り、ちろちろと流れるその水面へと釣りの見立てよろしく爪先をつけてみようかみまいか、そんなことを考えあぐねてみたりそうでないような、ようは手持ち無沙汰だった。
声の主は分かっているから急ぐことなく、相変わらず羽織った着物の肩を片方だけはだけたまま、頭のてっぺんを糸で引っ張られるように顎を反らして背後を見やると、小さな川の早瀬を遡り、急な勾配より落ちる水音の忙しいところよりも上、あの日のように小高い岩場に逆さまの声の主は立っていた。
「今日はつけてないんですね」
思ったよりも鬼の角は無骨でなかった。光の加減で、水底まで透き通った川面や、時を吸い込んだように深く沈んだ木陰の色合いになる翡翠の目、細い眉の下に収まる無愛想な三白眼に、口数の多くないその唇の造作はどことなく不機嫌そうにみえるがそうでもない。今も赤葦の軽口に少々眉根を寄せながら、あれは人間の前だけだ、と面を持っていない手を横に振り答えている。そうでしたっけ、と赤葦は小さく笑った。
あの日、追われる狐を助けてくれた山鬼の名を黒尾といった。それは、赤葦だけが知る名だ。人間はまだこの名を知らない。
不意に仰向け気味に反った上体が平衡を失いそうになり、おっと、と赤葦はとっさに己の脚を掴み引き寄せるようにして立て直す。その反動を使って立ち上がり、くるりと岩の上で半回転した。
「で、何か用です」
「この前も言ったはずだ。ここまで出てくるのは止せよ」
そう言うと、黒尾は赤葦に背を向けた。一度で満足するのか、一度だけと決めているのか、必ず忠告には来るけれども日に二度三度も繰り返すことを黒尾はしない。たぶん、赤葦がこのまま川べりに居続けたとしても再びやってくることはない。赤葦が追われている理由をあのとき聞きはしたが、そういうことはほどほどの加減にしろ、といささか困った顔を作ってそれ以上は何も言わなかった。匿われているというより、追い出されることもなく邪魔者にもされないから出て行く理由が見当たらないといった状況で、ほとぼりも冷めた今、里の者の怒りをすり抜けてうまく山を下りることも出来そうだが、なんとなく赤葦は世話になったままでいる。今も、ついてこいと言われたわけではないのに、どちらかというとここに残る理由が思い浮かばずに、はいはい、と呟いて足元の石を蹴った。
対岸に飛び越えて、とん、とん、とごろごろと堆積した大きな川岸の石を足がかりに小川を上る。磨かれたものが軽やかに転がるようなせせらぎに、空気をはらむ女の着物がそよ風のように翻る。先を行く黒尾が、川伝いでなく横手の茂みに消えるのを見る。ならって、赤葦も川岸を離れた。
三尺ほどの距離を空け、その背中に追いついた。羊歯を掻き分ける衣擦れ、草を踏む柔らかな足音をして、黒尾は振り返らない。そして歩を緩めることもしない。
「裾が濡れてる」
しかし、まるで見ていたかのように話す。遊女からのもらいものだっけか、と低く柔らかな声が付け足した。それは赤葦自身が黒尾に教えたことだ。
「ほんとだ」
小さな雫を今落とさんとしていた、たいして水の含んでいない右裾の隅っこ引っ張り上げ、赤葦はぎゅっと手で握って絞る。これぐらいの重みの変化では赤葦もさすがに気づかない。
「まあ、お前によく似合ってる」
ちらりと肩越しに振り返った黒尾と目が合う。翡翠の目が朝露を含んだ若葉のように光る。遊女がそんなふうに目をくれたのを赤葦はふと思い出した。人間のしてみせる流し目というやつだ。
「……神様らしからないなあ」
気づけば、口に出ていた。すると、主はあっちだよ、と黒尾が左の向こうを指差した。さっきの小川の本流が流れ込む池がそのほうにはある。黒尾やこの山に棲む生き物でさえもあまり寄りつかない、山の中でも静寂に切り取られたような大きくて深いその池に浮石のごとく頭を覗かせた岩があった。赤葦も見たのは1度だけだ。
「今日もご機嫌よく甲羅干ししてるよ」
その様を赤葦も想像する。首をのろりと伸ばし、開いているのか分からない目で宙空を見つめるたくましい四本の足の持ち主。池の真ん中の特等席に鎮座する、深い深い苔色の小柄な背中。
「お亀様も春が好きなんですかね」
「嬉しくないやつなんていないだろ」
そう話す黒尾の背中は少しだけ、猫背だ。いつものことだけれども、人間たちより一寸も大きな背丈はそんなのじゃちっとも誤魔化せないしこんな山奥でもどこにも隠れない。もっとしゃんとすればいいのに。赤葦はそういってみたことがあるのだが、そのときも、神さまじゃないんだよ、と黒尾は答えた気がする。確かに、黒尾を山神だと勝手に畏れているのは人間たちだけだ。
「黒尾さんは」
「うん」
「いつ頃からここへ」
道なき道が続いている。山に根を張り幹を伸ばし枝葉の屋根を作る木々は、我のない群れだ。互いの居場所をそこそこに守り、無作為というほどでないまばらさであちらにもこちらにも屹立している。どこを見やってもたいして変わりない景色の中で方向を見失いそうになることはよくある。目印を求めるのは無駄だ。かといって、山に棲む者が木に印を刻む必要はない。たとえば赤葦にはよく気のつく耳と鼻がある。どうしようもなくなったときは勘頼みだ。黒尾は、どうだろう。鬼には自分にない角と、あの目がある。
しばらくの沈黙を守ってから、そうだなあ、と黒尾が諦めのように小さく笑った。
「彼らに畏れられるのには随分な時間が要ったな」
なるほど。ここへ棲みついた鬼が山の神になり崇められ、まして幾つもの山を越えた向こうでその噂の届くところとなるには相応の時間がかかる。幾百の朝を迎え幾千の夜を見送って、それでもまだ足りないだろうか。たとえば毎日一本ずつ、この山の幹に目印を刻んだとして、どこにも傷のない木がなくなってしまうほどだとしたら。
長いですね、と狐は呟いた。少しだけ同情を込めたのはこれが独り言にならないからだ。この緑深い山で、孤独の二文字を知っているのはきっとふたりしかいない。
迷いなく山の奥へと導く黒尾の背をじっと見つめてから、赤葦はその遠くを見るようなのっそりとしたまなこを若草色の影を落とす、天蓋のごとく頭上を覆った木々の緑に向けた。緑の繭の中にいるような感覚にもだいぶ慣れた。あの日聞こえた大きなものの脈動は、以来赤葦を脅かすことはない。けれども、小さなものたちよりも巧みに影を潜めながらすぐそばにずっと在る。嫌な気はしなかった。そんな気分になるのも狐にとっては忘れがたく久しい。
ふと、先を行く黒尾が足を止めた。半身に振り返った横顔が下りの方角に目を放つ。やがてゆっくりと閉じられたまぶたに、翡翠の瞳は隠されてしまった。内側に光を抱いた、繭のような淡いみどりのめ。
「黒尾さんの目、きれいだ」
食べたいくらい。思ったままを赤葦は口にする。なめらかなとろみが舌の上を這うのを想像した。春の味に似て、それは青々しいほのかな苦みを残すだろう。
「食えたもんじゃないさ」
冗談ととったふうでもない硬くない声音が、風はなく、けれどどこかで生きものたちが小さく啼き、羊歯の葉に身をかすめ、落ちた枝を踏み、幹を小突き、木陰に羽ばたき、山というひとつの生命になったざわめきに深々と染み渡る。
まぶたを持ち上げた目がいまだ何かを捉えている。赤葦には見えず、聞こえず、嗅ぎつけられないものだ。
「結構奥のほうまで来てるな」
赤葦に語りかけたつもりのない黒尾の言葉はもちろん、自身のことでも赤葦のことでもない。冬には閉ざされていた山も春には道が開かれ、禁じられていた山深い場所へも人間たちが山菜や獣をもとめ狩りへやってくる。とはいえ、人間も本当に踏み込んではならない場所は心得ているはずだ。注視していた視線が、ふ、と緩んだ。気がかりは遠ざかったのだろうか。
「どうした」
自分を見つめ続けてきた視線を今さら受け止めて、黒尾が口元を崩す。大丈夫だよ、と何にも隠さずにやさしく笑いかけるのは鬼にはほど遠く、神の仕草とも違う。時折黒尾が漂わせる雰囲気は、愚かで気安い、言うなら狐がからかってきた者たちにとても近い。
こんな話を聞いたことがある。この山に伝わるような、既にどこかの山にも伝え聞かされているような話だ。ここから幾つもの山を越えた狐がやってきた南のほうに残る、鬼ではなかった鬼の話。
「……黒尾さんは、どこから来たんです」
今は誰も知らないその名前も、いつしかは誰かが情を込めて呼ぶ名前だったのだろうか。小さく首を傾けてみせた赤葦に、黒尾はその目をぱちぱちと瞬いた。そんなのはさ、と目線を落として首を振る黒尾は自分のことをほとんど話さなかった。そんな黒尾がひと呼吸の後で、欲しがるものじゃないよ、と触れられそうなほどに艶やかに光る瞳に赤葦を映して言った。
「全部、自分に返ってくるもんだ。これはそういう代償だから」
これ以外ならお前にやってもいいんだけどな、と一度伏せたまぶたは静かだった。答えになっていない答えを得て、赤葦はもう一度黒尾の名を呼ぶ。これは、鬼の名ではない。神の名でもない。
「赤葦」
言霊となった黒尾の声が狐の心をしかと打つ。これ以上はなしだ、と細めた目が赤葦を押しとどめる。
「誰が聞いてるか分からないだろ」
この深い山奥に自分たちを除いて憂える者がいるだろうか。そう思ったけれども我を通したかったわけではない赤葦は、思いつきもしない言葉に開きかけた口をつぐむ。それでもいささか不満の色が滲んでいたのかもしれない。黒尾が、息を揺らし、声を小さくこぼして笑った。赤葦に向き直りその手を伸ばす。眼前でぴたりと止まる、人差し指と中指の先。
「人を呪わばなんとやらだ」
不意をつかれた気分になって、赤葦はずらした焦点の先に囚われる。吸い込まれそうなほどに深く、ぽっかりと開いた穴のように透き通ったみどりの目がふたつ、こちらを見ていた。
――鬼の棲む緑深い山よりさらに南、幾つかの山を越えた向こうに、人間を恨み憎んだ哀れな鬼がいたという。いわれのない罪を負わされ、鬼に姿を変えたその男は、自分を追い詰めた者たちに恨みを晴らし姿を消した。
その鬼を見た者曰く、どす黒く汚れた鬼の形相に翡翠の目だけがこの世のものとは思えぬほどに美しく、光っていたという。
fin.(2016.4.15)