こんな夢を見た。
もう少しで梅雨も終わるのじゃないかという日に、赤葦が除湿機を買ってきた。網戸越しの外はまだ蝉は鳴いていないけれどからりとした夏の気配で、雨の匂いはちっともしない。
「というか、小さいね」
ローテーブルの上に置かれた箱。両手のひらで持てる大きさの白の立方体は、紙のようになめらかで軽かった。
「安かったので」
と何の気もなしに言う赤葦の顔はいつだって涼しげだ。ところで、その箱にはコンセントも水の落ちるタンクが収まっている場所がない。
「これどうやって動くの」
そっと持ち上げて尋ねる。
「電気じゃないんですよ」
「じゃあ何?」
「ほら、あの、かわいいやつ」
俺の近くであぐらをかいた赤葦が、人差し指同士と親指同士をくっつけて丸の形を作ってみせた。穴の向こうで、重たいまなこがちらと瞬きする。
ああ、と返事をして頷いた。あのかわいいやつだ。白くて、丸くて、ふさふさして、こうやって鳴く。
「“なー”」
「そうそれ」
当たり、と赤葦が笑った。だったら丁寧に扱わなくちゃいけない。持っていた箱をそっとテーブルに下ろす。水分はどこに行くんだろう。そう呟いたら、さあ? と赤葦は首を傾げた。同じふうにしたら、世界が少し斜めに見えた。
さてこの除湿機、電気は食わないが餌は与えなければならないらしい。
「おしろいって、なんですかね」
「……さあ」
ふたりしてぺらぺらの説明書を覗き込んで眉間に皺を寄せた。化粧品だということは分かったが、買いに行く勇気が出ないので、代用品として書いてあったベビーパウダーを買ってきた。
箱の上には小さな穴が開いている。そこから1日1回、スプーン1杯のベビーパウダーを落とし入れる。ふわ、と細かな粉が舞って思わずくしゃみをする。2センチほどの穴から中が覗けそうだが、真っ暗で何も見えないし音もしないからちゃんと食事しているのか分からない。
「ちゃんと動いてんのかな」
少しだけ、横に振ってみる。うんともすんとも言わない。どうでしょうね、と安く買ってきたという赤葦は最初から半信半疑だ。
「あ、おしろいは必ず穴の中に入れてくださいね」
と赤葦が言う。
「穴の横に置いたり、こぼしたままにしておかないように」
「なんで?」
尋ねながら、赤葦の言葉に従って、穴の横に少しだけ散らばっていた粉をかき集めて落とす。
「逃げちゃうんですって」
丁寧に説明書を折りたたんで、赤葦は除湿機の箱を持ち上げた。逃げるってどうやって、とは尋ねない。
除湿機は浴室に置かれている。窓はないし洗面台に洗濯機もあって湿気がたまりやすいからだ。どうみてもあれは真っ白なケーキの箱にしか見えないが、浴室の空気が前よりも多少はいい気がする。湿度計もいつもよりし少し下を指している、と赤葦も鼻が高そうだ。
毎日の餌やりはかかさない。とんとん、と穴の縁でスプーンを傾けてベビーパウダーを落とす。ほんのりと甘い香りが漂うのは悪くない。そして餌をやった後で必ず耳を澄ましてみるが、いまだにあのふわふわした毛並みが這う音も、控えめに人懐こく鳴く声も聞いたことがない。効き目がある、ということは生きているのだろうけれども、どうにも不思議だ。
「除湿機っていつまで使うの」
梅雨はもうすぐ終わるけれど、日本の夏は湿気があるのがふつうだ。赤葦は少しだけ沈黙を使って考えた。
「1年中じゃないですか」
「ずっと?」
「だって浴室はじめじめしてるものでしょ」
そう言われたらそうか、と半分納得して、やっぱり何も言わない白い箱を見つめた。
「黒尾さんでしょ」
ある日赤葦が言った。
「だってさ」
顔色を窺うが、どうやらあまり怒っているわけじゃないらしい。けれど買ったのは赤葦だから理由はきちんと言うべきだし、最初に尋ねたほうが良かったに違いない。ごめん、と頭を下げて謝った。
「なんかかわいそうになって」
ずっと狭い箱に閉じ込められたまま、じめじめしたところにいるのだと思うと急に申し訳ない気持ちになった。だから昨日、穴の横にベビーパウダーをそっと盛っておいたのだ。あのかわいいのだって、自由にその辺をふわふわしているほうがいいに決まってる。
「まったくもう」
買ってきた本人はちょっぴり唇を尖らせていたが、黒尾さんらしいですけど、と最後には笑った。その手にはあの白い箱がある。小さな穴は、中から何かに押されたみたいにちょっぴり縁が破けて広がっていた。渡してもらったそれを遠慮なく振ってみたけれど、あいかわらず音はしないし、重さもたいして変わらない。でも、逃げたのだろう。中からふわりと舞った香りだけが梅雨のしっとりした部屋に残る。
今度はふつうのを買ってきますね、と赤葦が言う。はじめからそうしてよ、と俺は思った。
fin.(2016.7.15)