ココキス
 「ねえ、」
 ちょーだい、と袖の端を引っ張って囁いてみれば、す、と横に滑った視線が自分を捉えて半身で振り返る。瞬きもみせない隙のなさに何をと訪ねる勘の悪さはなく、黒尾は目を細めて薄く唇を開いた。粘膜の離れて鳴る、小さな水音。その口元をじっと見つめてから、赤葦がまつ毛をほんの少し持ち上げて黒尾を瞳を捉えた。
 色濃く生い茂る夏燃ゆる草木の緑、体育館の白い壁に落ちるじりじりと焦げつきそうな日差しと寄せ集めてこぼれる影、内緒話のようにさざめく風の匂いに、遠くに聞こえるきゅきゅきゅと床の鳴る音と反響して踊るような掛け声たち。休憩時間に水飲み場へ行くのにわざわざ遠回りした体育館の裏手には、もちろん自分と赤葦の姿しかない。
 そうですね、ともったいぶるような口ぶりが黒尾を窺い、唇が空を泳ぐ。そうしてすぐに楽しげな色を瞳にのせると、
「じゃあしてください」
と汗が骨のかたちに沿って流れていく少し上気した顔に不釣合いな軽やかさで言った。目元はいつものとおりほんのり夜更けの雰囲気を漂わせたままだ。
「あ?」
 思わず、半開きになっていた黒尾の唇から少々間抜けな疑問符が漏れる。
「……後出しズルイ」
「細かいこと言わない」
 つ、と伸ばされた指先にゆるく下顎を撫ぜられながら、俺がお前に甘いの知ってるくせに、と結局もう負ける気分でいる自分に黒尾は小さくため息をつく。半分以上は形だけで、こぼした吐息をそのまま引き連れて赤葦の顎に手を添える。触れられた指先も自分の手もじんわりと熱を閉じ込めたように火照っているけれど、かすめた耳朶の柔らかさだけが、ひたり、としていた。これだけという分、首をすくめるようにほんの少し背丈を調節するのにももう慣れた。首を傾けたのを察して、赤葦の伏せがちのまぶたが下りる。小さく、ふ、とかたちになった熱量がさっき体育館で一口潤してきただけの黒尾の唇に生温かに届いて、黒尾は、こじ開ける必要のない赤葦のに舌をぬるりと滑らせ、口づける。くちゅ、と絡んだ舌と濡らしてやった唇をゆっくりと吸い上げた。熟れた吐息を含んだ口のなかはとろり、と溶けて、一瞬くらりとよろめきそうになる。夏だ。わんわんと引かない波のように押し寄せ続ける蝉の鳴き声に、目を閉じた世界が上下左右の平衡感覚をたやすく失いそうになる。こめかみからじとりと流れる汗の違和感をいつのまにか忘れて、汗の味を舌に覚える。
 赤葦の指先がTシャツの胸元を摘んだのを感じて、離れていく唇を黒尾は薄目で見下ろしながらその時間さえ惜しむように、汗で湿って吸い付くようになる頬を指先で撫ぜて味わった。相手の顔に焦点が合う程度に、吐息の熱さも分からない距離がふたりのあいだに訪れて、ぴたり、と視線が合う。
「なんですその顔」
「ん」
 言われて黒尾は自分の顔に手を当てて、ああ、と小さく苦笑いした。
「ちぇ、って顔」
 せっかくおねだりしてみたのに、と別段そこまで恨みがましく思っていたわけではないのだけれどおおげさに肩をすくめてみせると、赤葦が手にしていたタオルで首筋を拭いながら、ふふ、と唇をこすらせまつ毛をこぼして笑う。
「かわいいですね黒尾さん」
「ええ?」
「そういうとこ、好きだな」
 呟くと、両端を持ったタオルでくるっと宙に半円を描き黒尾の首にひっかけ、ぐい、と自分のほうへ引き寄せた。う、とぶつかるように合わさった唇をいささか強引に暴いて赤葦の舌が、ずる、と這入りこむ。舌の付け根のあたりまでさらわれて、ん、と呻きに近い息のかすれが黒尾の鼻からもれる。角度を変えてもう一度同じような激しさで求められて、黒尾も唇をさらにほどいて赤葦を受け入れる。深いと息苦しい、そう思って息継ぎするように目の前のを貪ると、その深さと熱にまた、ずぶり、と濡れた感覚が沈む。堪えきれず黒尾が喉奥を震わせるとそれが合図だったかのように、赤葦が舌を絡ませるのをやめ黒尾の下唇をゆるゆると食んだ。
「……よくできました」
 ご褒美です、と遠ざかる唇と形よい笑みとは逆に、近づいてきた赤葦の手が濡れた黒尾の髪にためらいなく伸ばされ差し入れられて、あやすようなやわらかさで撫ぜていく。触れられた心地よさに浸るひまもなく、ぱち、と瞬きする小さな黒目に見送られて離れる赤葦の、爪の短く切りそろえられた指先。
「早くしないと休憩終わっちゃいますね」
 もう背を向けようとしている赤葦の声音に夏のすべてが降り注ぐ。きらきらと、その端々を楽しげな色で滲ませて、踊ったくせっ毛の先が、するん、と光る。黒尾は自分の首に残されたタオルをしゅるんと引き抜いて握り直した。
 なーんかくやしい。
 ほんの少し本気で、後はやっぱりほろほろと心がほどけてゆくのにだいたいを任せて、唇をとがらせてみる。聞こえないふりをしてくれても別に構わない。でもきっと赤葦はそうはしないで、これから追いついて隣に並ぶ自分の言を思わせぶりに繰り返すに違いない。さざめく木陰の影が背中を彩り、柔らかな日陰の土が足音をやさしくあやめる。
 その襟足に手を伸ばしたら。からかうように笑ってみせるんだろう。



fin.(2015.6.7)
とある診断メーカーで出てきた結果がウチのクロ赤にぴったりで、よくできました、って笑う赤葦の得意げな顔が容易に想像できてしまったので書いてみました。夏の合同合宿の休憩中。高3と高2。ウチのクロ赤は高2高1の冬には付き合い始めているので、もう半年は確実に過ぎたころです。
原作に沿ったふたりを書いたのはこれがはじめてなんじゃないかと思います。長めの話は申し訳ないくらいパロディとパラレルばっかりだし、ちょっとした小話はあまり細かな設定を考えずに書いてしまうので、短めな話ではありますが、合宿中のふたりにしよう、とちゃんと意識して書いたのははじめてです。いつか、原作に沿ってのふたりを書いたとき、このシーンは自分のなかではここの時間軸に入るんだろうな〜なんて思うときがあるんじゃないかな。
赤葦は甘やかされるのがもちろん好きなんだけれども、黒尾に頼りにされる、甘えられるふうにされるのも好きなんじゃないかなと思います。いつもしっかりしてる黒尾がそんなふうになるってことは、随分と自分が信頼されているということでもあるから。してもらうことに慣れているけれど、自分がしたことで相手が喜ぶ、というのも十分に自信を持っていて、赤葦はけっこう自分でするのも好き。好きなひとに好きなことをするのが好きなのだ、と思います。俺が好きだからうれしいでしょう、ってなんにも疑わずに。
タイトルは単純に、ここでキスして、の略みたいなイメージで。
This fanfiction is written by chiaki.