拝啓 まだ出会ったことのない君へ
元気ですか、なんてはじめて訊くから変な気分だ。あのころはそんなことは尋ねる必要もなかったね。お互いがそこに立って、前を向いていることが全部で、答えだった。きっと、今もそうだ。だから大丈夫、俺は今、こうして前を向いてるから。
思い返せば勘違いばかりだったね。まあ、普通は身体が入れ替わってるなんて思いもしない。東京に住んでる俺の心がお前の心とつながっているなんてそんな夢みたいな話、いや、夢だったんだっけ。うん、あれが、夢だったなんて、消えてなくなるようなものだなんて俺にはちっとも思えない。
今でもお前はあの小さな町に住んでるの。大きな湖のある町。びっくりしたな、いちばん最初にあの景色を目にしたときはさ。大きな湖を山の上から見下ろして、内側へゆっくり蛇行する坂を下っていく朝の時間。朝陽に大きなレンズみたいな水面が鏡のようにきらきらと瞬いてて、湖の周りから見渡せる限りを覆う木々の緑に模型みたいな青や赤っぽい屋根が埋もれていて、ビルも車の音も大きな看板も何もない風景にほんとうに空が広いと思った。風が吹いて、水面があっちからこっちにさざめいて、周りの緑もそっちに揺れるだろ。風の通り道がさざなみみたいに俺の目の前の世界を横切っていく、世界はこんなふうに動いているんだって、おおげさでなくはじめて知った気分だった。
お前の住んでるとこの悪口を書いたよね俺。あのとき、お前だっておんなじこと思ってるくせにって返したまま、謝ってなかった。ずっと引っかかってたんだ。ごめん。
思い出すよ、いろんなこと。お隣さんからもらったつるつるで真っ赤なトマト。噛むとじゅわっと甘いのに瑞々しさに喉が潤った。だだっぴろい校庭でやる野球は楽しかったな。外野が広くて球拾いに行くのは大変だけどね。帰り道にあった大きな鳥居、結局一度も行かなかったけど、夕暮れにあの前を通るのはちょっと気味が悪かった。森に囲まれた急な石段の続く上に何があるのかぜんぜん見えなくてさ、何か飛び出してきそうで。
俺は、日の沈むころにあの坂を上るのが好きだったよ。
長い長い坂を毎日行き来するのはけっこう苦労するんだろうな。そんなことを考えながら俺は一歩ずつ歩いた。太陽がゆっくり下ってきて山に近づくと、それこそとろけたトマトみたいな色になる。眩しくて目を細めるとさ、空を焦がしてる幾筋もの光が方々に伸びてるのがよく分かるんだ。夕暮れの空に残る、厚くてずっしりした夏雲の形をほんのりと淡い橙が浮かび上がらせて、小さな光の粒子の帯がまっすぐにうっすらとどこまでも続いてる。その行く先を振り返ったら、俺の後ろにはもう夜が来てるんだ。青ざめていく空の縁はもう光の届かない藍色に沈んでるのが山の反対側に見える。夕暮れに落ちる影はとっぷりと輪郭が柔らかくて少しやさしくて、溶けてしまいそうでさみしいね。でも、まだこっち側は昼と夜のあいだなんだ。坂の上から湖まで、木々も水面も、全部が夕暮れの太陽に照らされている。みんな少しずつ、夕暮れの色を分けてもらったみたいに。水
面は、空を映したように水色と橙色にじんでいる。触れ合ったところは菫色に揺れて、混ざり合ったところはピンク色に変わって、風に光るのが目に染みるようにまぶしいんだ。
そんな景色を、お前の家の前の石段から眺めてた。気づけばどこの家にも小さなろうそくのような明かりが灯っている。少しすると、夕飯のいい匂いがしてきた。家に帰らなくちゃって、俺の家じゃないのにね、そう思ったよ。
柵もない玄関前の道はちょっと怖かったけど、俺は、あそこからの眺めが一等好きだった。
なんにもないって言ってごめん。ほんとうに何もないのなら、こんなふうに俺は覚えていたりしない。懐かしいと思って何度も思い出したり、また会いたいと願ったりしない。思い描くたびに、胸が苦しくなったりしない。ここにはないものがあるとか、それぞれのいいところがあるとか、そういう曖昧なことじゃなくて、もし、変わらないことができるなら、変わらないでいいことがある
なら、それでいいってことだと思う。
もうお前もあの年のオリンピックのことは知ってるかな。おかしかったね、ちぐはぐの掛け違いの会話が成り立っていたのは奇跡みたいだ。吉田沙保里は四連覇できなかったけど、東京オリンピックを目指すつもりだって。そうだよ、次は東京。ごめん、もうひとつ謝るよ。お前のバレーノート、見ちゃったんだ。お前ってほんとバレーが好きなんだな。戦術とか相手の情報とかいろんなことをよく見てる。そのはしっこに、いつか、って書いてただろ。
もしお前がその夢を叶えて晴れ舞台に立ったとき、東京で、その姿を見たとき、俺はお前だって分かるだろうか。どうしたって名前を思い出すことのできないお前のことを、呼び止めることが、求めることができるだろうか。
……できるはずだと、信じ続けたい。今は。
白状ついでにもうひとつ。怒ってなんかないけどさ、お前も俺のノート見たろ。俺の走り書き、見たでしょ。責めてるわけじゃない。その横に書いたこと覚えてる? 俺は、ほんとうにどうしようもなく苦しくてやるせなくて、自分がちっぽけに思えるときその言葉を読み返すんだ。できる、って、俺にもきっとできるはずだって、まだ出会ってないお前に何度も励まされてる。
だからもし、もし、この手紙がお前に届くなら。
いや、もし、お前がそこにいるなら。
幾千もの夢の向こうにお前がいるなら、俺のように名前を思い出せなくても俺のことを雨つぶのかけらだけでも覚えてくれているなら、できる、と信じていてほしい。あのときと同じ気持ちで、一文字ずつ、想いをこめて綴ってくれたときと同じ心で。
今、俺、どこにいると思う。
たぶんお前が最後にいた場所に来ている。俺が、お前の夢を見た最後の場所。お前はここで、千年ぶりの彗星の尾っぽを見送った。成層圏で砕けて燃えた彗星の、ながいながい夢のかけらみたいなきらめきを星々を宿した夜空に見上げただろう。
俺は、ここにいるよ。
お前に会いに来たんだ。夢になんか飛び乗らずに自分の足で歩いて探して、俺は自分の目で確かめたかった。
俺たちはすれ違ったままなんだろうかって思ったこともある。
でも、思い違いじゃないね。お前は、ここにいる。
走ってきたお前の、小さな息遣いがする。ここで、今、吐息が小さく霞んでいる。俺を、見てるだろう。あの眠たそうな目を見開いて、もうひとりの自分を見るように、はじめて会った気がしないのを変な感じだと心臓がとくとく脈打つのをその耳が聞いている。
ここに、いるんだろ。俺の隣に。
手の伸ばす先にきっとお前がいる。ほら、今、てのひらが触れた。汗がひいたから少し冷たい。震えてる指先は見逃して。緊張してるのはお互いさまだ。だって俺たち、はじめて出会うんだ。ゆっくり握り締めるから、びっくりしないでよ。
できることならこうやって、いつまでもお前のことを繋ぎ止めていたい。
少しずつ俺のなかから水滴がひとつぶひとつぶ零れ落ちていくみたいなんだ。きらきらと光る夢みたいなすべてが、あの彗星のように夜のかなたへ消えようとしてる。千年ぶりの想いをぜんぶのっけて、あっという間に。
忘れたくない。
忘れたくなかった人を、忘れちゃだめな人を、俺はまだ、一分一秒でも永く忘れたくない。星があの山の向こうに帰っても、俺はずっと忘れないでいたい。
ねえ、なんで、なんで俺は、忘れてしまったんだろう。
お前にあったら言おうと思ってたことがあったんだ。こうして、お前の隣に立ったら、言わなくちゃいけないことがあった。とてもかんたんなこと、でも、今の俺にはひどく難しいこと。
もう少したら、朝陽が上るだろう。
それまでこうしていたい。握った手を、お前の横顔を、くせっ毛の髪を、あの山の向こうから顔をのぞかせた太陽が眩い光ですべてを見透かすようにするんだろう。透明な、目に見えない形さえあらわにして、片方の頬には静かな影が落ちて、なあ、泣くなよ、泣かないでって口にしたら、俺のほうが泣きそうだから。
どうか、できるって、永遠のように笑って。
そうしたら俺は。
俺は、ただ、君の名を呼びたかったんだ。
fin.(2016.9.15)