ひっそりと、あくびをかみ殺す。空気が膨らんで広がっていくゆくみたいにそれが頭の中で低くわなないて、薄く開けた唇からパンクした自転車のタイヤのように息を漏らす。ばれないようにそっとだ。目つきが悪いと評判の眼差しが見つめる数メートル先には、こつこつと黒板をチョークで叩く教師の姿がある。
眠たくても授業中は居眠りしない、と黒尾鉄朗は決めている。一応推薦を狙っている身としては内申書も大事だし、何よりテストで赤点を取るほどに成績を下げると部活に参加すら出来なくなる。成績を下げないために勉強の時間を確保するということの効率を考えると結局、授業をしっかり受けることがいちばん確実だ。もちろん不可抗力が働くときもあるし、寝ていなくても右から左へ教師の話が流れていくときもたまにはある。今日はそんな日に近い。
温い風がとどまっている。なかなか寝癖の取れない髪のてっぺんが、少しばかり静電気を帯びて漂っているのがわかる。きっと目つきはいつもより険悪だ。重く感じるまぶたを押し上げながら、黒尾は前を見つめた。ねみー、と教師の声が響く教室で誰にも聞こえない声で呟いた。
眠気を誘う風は春のものではなかった。ぴしゃりと一分の隙もなく閉じられた教室の外は、見やれば裸の銀杏並木の枝がそわそわと寒風に震えている。天と地の差だなあと、何の感慨もなく黒尾は思う。冬の教室は、暖かさだけで言うなら春だ。
それにしたって、どうして女子はこんなにも寒がりなんだろうか。エアコンの適正温度は、夏場冬場と毎回もめる事案だが、いつも冷え性だのレディファースト云々を理由に女子の意見が通る。今日も男子の意見は既読無視よろしく素通りだ。部活もやって新陳代謝のいい自分としては、今の室温は暑い方なのだけれども、夏場も冬場も、一定以上は脱げないのだから勘弁してくれという男子の意見は今後もきっと聞き入れられない。この問題は男子と女子が一生分かり合えない案件なんだろう。
こっくり、こっくりと、舟を漕ぐ後頭部が目に入る。反対側では片肘をついて目を伏せる横顔が見える。たいてい黒尾の席は背の高さを理由にいちばん後ろか端っこだ。自分の後ろに座るクラスメートのことを考えると申し訳ないと思うから、そうしてもらえるほうが黒尾自身もありがたい。幸い視力も悪くない。背の高さもあって、いちばん後ろは教室が見渡せて気分は良い。
「それじゃ、次」
教師のその一言でいくつかの頭が顔を上げた。前から三番目に座っている夜久の姿が目に入る。冴えた目で板書をノートに書き写しているのが窺える。やっくんは真面目よね、と忙しなく顎を上げ下げするチームメイトを見て黒尾はなんとなく口元を緩めた。
背を向けて長い数式を教師が書き始める。シャーペンが紙の上を走り、引っかく細かな音がさざめく。黒尾は、ノートに転がしていたペンを緩慢な動作で手にとって指で挟み、逡巡してから、やっぱりペンを置いた。あまりに頭がぼんやりして書く気にならない、というのはまことに自分勝手だけれども、ノートは後でチームメイトに頼み込もうと言い訳しつつ、黒尾はこっそりとポケットからスマートフォンを取り出した。さっと教科書の陰に潜ませて、前の席に座るクラスメートの背中に隠れるように自分もわずかばかり身を縮める。とはいっても、身長一八七センチ、隠れる背中は男子高校生の標準的な体格で自分が収まれるはずはないのだけれど、こういうのは心持の問題だ。目立たないように、というそれだけの。
ボタンを押して液晶つけ、ロック画面を小さくめくる。すぐに表示されたホーム画面に並ぶアイコンの、緑色の四角いアイコンをタップした。“LINE”のタイトル画面がついてほどなくして消える。
新しいメッセージは何もない。けれど、中指でふらふらとなぞるように弄んでいたスクロール画面から“赤葦京治”の名前を選んでタップした。最後に送ったメッセージは三日前。今回の春高出場を逃した音駒は今月にある合同合宿には参加できなくなった。都大会でベスト4を争うのはだいたいいつも同じ顔ぶれで、梟谷も音駒もそれに含まれているから試合結果など傍から見ていてすぐに知ることができるのだけれど、なんとなく話したくて、今回は行けねーわ、と送ってみたのだった。
正直話題はどんなのだって良くて、構いたいとか構われたいとか、ちょっと気を引きたいとか、ほんの少しこっちを見て欲しいとか、そんな小さな欲だから、返信の、そうですね、の後に続いた、黒尾さんがいなくて寂しいです、の恋人の一言で黒尾は十分満足だった。ほんの少しの不甲斐なさももちろん胸に湧いたけれど、そのあと少ししてやってきたメッセージがこれだ。
『来年は待ってますからね! 落ち込んでる暇はないですよ』
ほんとうに、よく分かっている恋人だと思う。
ぽちぽちと教師の様子に気を配りながらメッセージを打つ。気の利いた言葉を探す時間はない。ねむい、とどうでもいい一言を紙飛行機に乗せて飛ばす。こんなのは後で既読だけでもつけてくれれば満足するもので、ま、すぐに返事が来るわけないもんな、と期待を裏切られた気分にもならず、吹き出しに表示された自分のメッセージをしばらく見つめていた。すると、ぱっと“既読”の文字がついた。お、と思わず口の中で呟いて、黒尾は慌てて小さく咳払いをした。びっくりした。つい先ほどまで感じていた眠気はどこへやら、ぱちりと目が覚める。そっと目線を上げたが、誰もこちらを気にしている者はいない。まずいまずい、と胸をなでおろしつつ、画面を見直した。テスト期間なんて話も聞いていないし、自分と同じく授業中だと思うのだけれど、それだったら余計にメッセージを送り続けるのも憚られる。どうしたもんかなと考えあぐねているあいだに、画面が瞬いて表示されたスタンプに黒尾は目をまあるくして瞬いた。舞い踊る赤やピンクのハート、可愛らしい梟のイラストに、“大好き”の文字。
「……ぶっ、」
思わず噴き出して、黒尾ははっとした。手元を見ないまま教科書の下へスマートフォンを隠し、恐る恐る面を上げる。案の定、板書していた教師も手を止め、数人のクラスメートもこちらを振り返ったところだった。
「黒尾、どうした」
のんびりとした教師の言葉の後ろで、くすくすと小さく笑うクラスメートのさざめきが聞こえる。きっと居眠りして寝ぼけたのだとでも思われているんだろう。とはいえ、スマホを見てました、などと正直に言えはしないので、あー、と声の調子を整えるふうを装いながら、黒尾は頭をかいた。
「なんか、あの、教室の空気が乾燥して喉の調子が」
ごほんごほん、と口元に手を当てて咳払いをしてみせると、ゆっくりと瞬きした教師は黒尾の様子に納得したのか、言葉なく頷いた。
「確かに少し暖まりすぎてるね。一回止めようか」
君、とエアコンの操作パネルに近い生徒に指示して、ピッ、という電子音とともに頭上を漂っていた温風の気配がすーっと引いていく。送風口を見上げていた教師が、黒尾たちのほうを見て小さく笑った。
「このままだと皆寝てしまいそうだしね」
眠そうな顔をしていたのは見られていたのかもしれない。苦笑いして、黒尾は再び黒板に向かった教師の後姿にひょこっと頭を下げながら、眠気なんて吹き飛んだっつの、こっそりため息をつき心の中で呟いた。
『びっくりした!』
授業が終わり、まず黒尾は一言メッセージを送る。
夜久が教室後ろのロッカーへ行く途中、黒尾の机の横を通り過ぎる際に、お前寝てたんだろ、と一言からかってきたが、寝ちゃいないって、と返しながらぱぱっと次の授業の準備をして席を立つ。
「便所行ってくる」
「別に言わなくていいって」
飽きれたような声音を背中にぶつけられながら、黒尾はポケットに突っ込んだスマートフォンを手で掴み教室を出た。人気のない場所、と思いついたのは屋上へと続く階段だ。駆け上って、下の階からは見えない死角にたどり着いたところでポケットからスマートフォンを取り出した。幸いなことに先客は誰もいない。階段に腰掛けて、液晶を覗くと通知ランプが光っていた。返事だ。
『してやったり』
目を細めて、小さくにやりと笑っている姿が向こう側に想像できた。くっそ、と自然と漏れた言葉とは裏腹に、自分の声音は柔らかに笑っている。急いで返信を打ち込んだ。休み時間は十分しかない。
『そっちも授業中だったろ?』
『そうですよ』
今は休み時間です、とすぐに返ってくる。教室にいるんだろうか、それとも自分みたいにどこか人気のないところにでもいるんだろうか。あれこれ聞きたいことはすぐに浮かぶのに時間がどうにも足りない。どこか焦る気持ちを抑えて、大きな手でちまちまと操作する。
『返事返ってくると思わなかったから』
『偶然です』
『なんとなくスマホ見てたら黒尾さんから来たんで』
『俺もびっくりしました』
俺がびっくりだっつーの、と黒尾は一人笑った。あの赤葦でも授業中にスマートフォンを見るとがあるらしい。
『あのスタンプどしたの』
そう送ると、しばらくして、似たような可愛らしいスタンプがぽんと送られてきた。頬を赤らめて梟が照れているイラストだ。表情の出にくい、あの眠たそうな顔で送信ボタンを押しているのだろうなあと思ったら、それはそれでおかしかった。
『いつか黒尾さんに使おうと思って買いました』
と言うけれど、そもそも今まで黒尾にスタンプが送られてきたことは少ない。ああでも、と黒尾は思い出す。合宿のときの話だ。合宿の同級生メンバーでLINEのグループを作ったときに、各校の男子バレー部のLINE事情の話になった。すぐに既読にはなるけど返信のない奴、既読すらなかなかつかない奴、返信のまめな奴、いろいろと話題に上がって、そのときに木兎が自分のグループの画面を見せながら、こう言った。
「赤葦は基本、分かりましたの一言だし、スタンプは最初にもらえるやつの数種類だけで対応してくるんだぜ」
それを聞いたときは赤葦らしいと黒尾は思ったものだ。連絡は必要最低限、自分の幼馴染と似て、ちまちまとしたやりとりはあまり好きそうじゃないというのが第一印象だったのだけれど、こうして二人で連絡を取り合うようになってからその印象は変わった。他愛もないやりとりにも赤葦は応えてくれるほうだし、適当なスタンプで会話を切り上げることもないし、赤葦からこれといった用がなくても連絡をくれることだってある。
ぱっと画面に次のメッセージが浮かんで、黒尾は目を落とす。
『普通に使ったら面白くないんで』
『いつ使おうかタイミング見計らってました』
『おかげで授業中なのに噴き出した』
『まじすか』
『まじです』
数秒間の沈黙のあとで、またしても梟のスタンプが送られてきた。ウィンクして片手を高々と上げている。何が“やったね!”だ。謝るのかと思いきや、予想を反する返事に黒尾はくつくつと喉を鳴らした。こいつ、ほんと、こういうとこあるなと身体を揺らしながらスマートフォンを持つ手の親指を滑らせる。時計に目をやる。あと三分。
『お前な〜 そんなことのためにこのスタンプ買ったのかよ!』
『ですよ』
『楽しいでしょ』
分かる。黒尾もウケ狙いでスタンプを買うことは多々あるし、箸が転がっても可笑しいお年頃、どうしたってろくに使えなさそうなスタンプを見て延々と友人と笑っていられるところはある。けれど、それを赤葦が、と思うと、部活仲間にはこんなことをしようともしない赤葦が自分にはと思うと、くすぐったくて、胸がそわそわした。
『今度は授業中じゃないとき送って』
しばらく考えたような間があって、考えときます、と返ってきた。あくまでいたずら用ってことなんだろうか。もったいぶるなあと笑みをこぼしたところで、時計が残り一分になっていることに気づく。ざわめいていた階下の気配がいつのまにか静けさを取り戻しつつあって、冬の廊下に染み渡る、しん、とした冷たさに黒尾は思わず身震いした。すっかり尻が冷えている。
『じゃあまたな』
と手早く送って、それから、当分会えないけど、と付け加えた。合宿も春高も行けない自分が次に赤葦と会えるのは、三月あたりの合宿になる。それまでに一度くらいは顔が見たいけれども、次期主将を任される身となってはどう忙しくなるかまだ予想がつかない。新しいチーム作りはまだ、ようやく始まったばかりだ。
『はい』
短く簡潔な、赤葦らしい返事が届く。それをじっと見つめて、最後にあのスタンプが送られてくるだろうか、そう思ったけれど名残惜しいまま、黒尾は立ち上がる。石のように冷たくなった尻がごわごわした。チャイムの音がどこからともなく響き始める。
「やっべ」
階段を駆け下りながら、ポケットにスマートフォンを押しやろうとして、ちらりと見えた液晶に黒尾は慌ててそれを引き抜いた。駆け下りる足元を止めずに、でも手元が危うくなって、手の中でスマートフォンを躍らせながらやっと画面をつける。
『早く会いたい』
赤葦ももう授業が始まるのかもしれない、急いで打ち込んだのかもしれない、そう分かるのに、あのスタンプはなく、一文字ずつ打ち込んだ言葉がそこにある。
この階段を駆け下りて駆け下りて、勢いよく外へ飛び出していったら、今、自分のことを想っている相手の元へあっという間に飛んでいけたらいいのに、そう足の動くまま階段を下って踊り場へ軽くジャンプした黒尾は夢みたいなことを考える。遠距離というほど離れてはいなくても、時間と距離と空間がときどき気持ちの邪魔をする。だからこうやって自分たちは恋をするんだろう。君にだけ、というものを持ち寄って。
たす、と踊り場に着地して、黒尾は短く返事を送信した。恋人の真似をして、まじめに、簡潔に。
会いに行く、とは送らなかった。けれど、会いに行こう。そう黒尾は思う。帰り道の短い時間を使って、顔だけ見れたらそれでよくて、少し話が出来たら最高で、手を握れたらきっと笑う。疲れてても眠くても、君にだけ会いたくて使う時間は悪くない。もう少しで会えると車窓から見える景色を気にして待つのはそれはそれで小さな幸せだ。
すぐに既読がついた。それをにっと笑って見届けると、黒尾はスマートフォンと小さな決意をポケットにしまいこんで、誰もない廊下を駆け足で教室へ向かった。
fin.(2017.1.5)