「うー、さみっ」
肩をすくませ、ひえてつんとした鼻先をマフラーに埋める。冬の乾いた空気は触れるか触れないかの距離も分からないままにすっと肌を透かしている。ブルーとグレーのラインの入ったマフラーから漏れ出た吐息がそれにあてられて、薄靄の花になった。人肌と同じ温かさは、すぐにしぼんだように消え入る。
「あ、赤葦それちょうだい」
尻から伝わる金属の冷たさに少しそわそわするように身体を揺らして、黒尾は目の前に座る青年を見た。自分と似たようなコートにマフラー、デニムというラフな格好。ね、と目配せして手を伸ばしたテーブルの上には、フタの小さな飲み口から細い湯気を立てるホットコーヒーのカップが置いてある。返事を待たずに手に取ろうとしたそのとき、小さくもない身体を縮こめてデニムのポケットに手を突っ込み、不機嫌と間違われる顔で寒さを耐え忍んでいた赤葦がすっと反応よくカップをさらっていった。
「いやです」
「ケチ」
下げたマフラーからのぞいた唇が飲み口に軽く口付けてあたたかな液体をゆっくり、静かに含んでいく。ふわ、とこぼれる吐息が咲いて散るなかで、その口元はいたずらが成功したときの柔らかさできれいに歪んでいた。ケチ、ともういっかい黒尾は繰り返して自分も戯れに笑った。 ビル郡に囲まれて夕焼けの色さえよく見えない寒空の下、黒尾と赤葦のいるコーヒーショップの路面席には自分たち以外誰もいない。さっきまで隅の席で熱心にスマートフォンをいじっていた女の子も待ち合わせの相手が現れいなくなってしまった。黒尾と赤葦も同じだ。一応忘年会と銘打った飲み会の待ち合わせに遅れてくる、大学のリーグで知り合った友人を待っている。
ここ数日でぐっと冷え込んだこの寒さのせいもあるけれど、歩道をゆく人々の忙しない雰囲気に飲み込まれそうなこの席はきっと落ち着かないせいもあって人気がない。暖かい店内は混み合って店員がこちらの席に目を配っている気配もないし、年末の気忙しさに足を急がせる人々も窮屈そうにコートを着込みマフラーの端をはためかせ周りを見る余裕もなさそうだ。
「……遅い」
「もうちょっとじゃないの」
少し尖った唇が不平をもらす。スマートフォンを取り出しもせずに、黒尾は道路を背に座る赤葦の向こう側へぼんやりと視線を投げて答えた。行き交う人の波の先に、テールランプの赤が鮮やかに感じられてくる陽の傾きの中、渋滞といういったほどではないゆるやかな車の流れを見る。遠くの小さなクラクションの音、エンジンの駆動して噴出すマフラーの音、作られた風の走る音。捉えどころのない人々のさざめきと相まって、街の喧騒は誰かや何かを急き立てるように思えてくる。急ぎようもない自分たちは、しょうもない置いてけぼりをくらったような微妙な心持だ。
「なんつーか、悪びれもせずにあの調子で軽く謝ってきそうなのが目に浮んで腹が立ちますよね」
あいだに挟んだ深緑色のテーブルに飲みさしのカップが置かれてこちらへ押しやられる。受け取った手のひらがじんわりとあたたかくなった。今からかよ、と茶化すようにしてから口をつける。少しは冷めたコーヒーが喉を熱くして滑り落ちていく。飲み終わって、ふう、と無意識に吐き出した吐息はまろやかな熱っぽさがある。
「まあ、ごめんごめんって謝ってくるならいいほうだろ」
「あーそうっすね」
「いちばんは笑顔全開でやってきてからの、」
「『お待たせ、みんなの及川さんだよ』」
「そう、そういうやつ」
重たいまなこをじっとり細めて、あのテンションを伴わずに棒読みした赤葦の台詞に黒尾は歯切れよく笑った。確かに腹立つわ、と付け加えれば、でしょ、と赤葦が冬色のため息をつく。
ふと拾ってしまった、わあきれい、の声に意識が引っ張られる。首を伸ばしてそちらを見れば、歩道の端っこで腕を組んだカップルが足を止め指差しながら見上げていた。ああ、と黒尾は納得する。この真っ直ぐな並木道は、月の初めあたりからイルミネーションに彩られていた。電球色のLEDライトが街路樹に巻きつけられて、派手な色や点滅があるわけではないのだけれど、日の落ちて眩さの際立つ夜にでもなれば距離の長さもあって光の道はなかなかに華やかだ。
どこかのビルの陰からほんのりと覗いて射す夕焼けの名残を受けながら、まだ頼りなげに光るイルミネーションをバックにして、白の可愛らしいコートに身を包んだ女の子が控えめにピースサインを作り恋人の構えるレンズに向かって笑いかける。一瞬の間があってから、女の子が小走りで駆け寄りまた腕を取ってふたりは雑踏に飲み込まれていった。
「黒尾さん?」
「んー」
呼びかけに半分は意識を向けて、黒尾は手にしたままだったカップを置き、コートのポケットからスマートフォンを取り出す。片隅でちらと光るランプを目にして強張りのなくなった指を液晶に滑らせると、LINEの通知が入っていた。タッチして、人物像が透けるどころでなくそのまま表れたようなスタンプを赤葦にも見せてやった。
「……及川さんの奢りで決まりっすね」
「だな」
心からの同意を示して黒尾は深く頷いた。
そのままスマートフォーンを目線の高さに持ち上げて、黒尾は起動させたカメラを構えてみた。ライトアップが始まってから何回かこの並木道は来たことがあったけれど、今年はまだ一度も写真を撮っていない。
本体を横に倒して、冬枯れの枝をきらめかせる並木をフレームに収める。下方に、流れてゆく人々の頭のてっぺんが入り込んでいる。シャッター音が響くと、イルミネーションですか、とフレーム外から興味のなさそうな赤葦の声がした。
「うん」
カメラを下ろしかけて、黒尾はほんの少しレンズを向ける先をずらしてみる。どこかに投げかけられた、目の前にいる赤葦の横顔。肉眼ではとらえるのとは違う、陰影と明暗の分かりやすい光加減に、ちらついて一呼吸遅れた滑らかでない緩慢なまばたきのさま。いつのまにか、返したコーヒーを手にしている。吐く息の頼りなさはこのレンズには映らなかった。
「なんスか」
黒尾の視線に気づいた赤葦がこちらを向いた。なんとなく照れくさくなって黒尾は頭をかく。
「いや、うん、なんでもないっつーか、そのままで」
「はあ」
意味わかんないっすね、とわずかに眉根を寄せるその眼差しを黒尾はレンズ越しに受け止める。でもそれはほんの短いあいだのことで、赤葦はそっけなく視線を外し首を巡らせ、歩道の先を見やるようにした。駅の方向だ。まだかな、と一度大きく身体を震わせて呟いた赤葦の瞳にタイミングよく待ち人の姿映った気配は見られない。乾燥した空気にいつもより落ち着いたくせっ毛の黒がイルミネーションの小さな光たちにするりときらめき、冷えた頬の血色の薄さがレンズ越しでは輪郭を少し曖昧にする白になる。
カメラを縦に構え直した。いくつもの星の粒をまとった街路樹が枝を伸ばす下に、先ほどより密度の増したように感じるとめどない人と車の行き交い、それに飲み込まれず黒尾の瞳に浮かび上がる彼の横顔。
「……赤葦、こっち向いて」
不思議そうな顔で振り向いた赤葦に、黒尾はもう一度呼びかけた。
「わらって」
「なんすか」
いきなり、と戸惑った顔をしてごちるとため息のようなものをついて、すとん、と座り直した。伏せたまつ毛が見上げられるままに持ち上がって、ずっと見つめられてるのなんかお見通しだというふうにレンズを挟んで真っ直ぐ黒尾を見つめ返す。
不意に、もう、と仕方なしに呟いた口元がほろりと崩れた。柔らかく小さく細められた目が薄く張った水のように潤んで光る。
希いをこめて、シャッターを、切った。
「ねえ、黒尾さん」
「なんだよ」
「今、俺に見惚れたでしょ」
「…………」
ああ、やっぱり、お前がすきだ。
fin.(2016.1.5)