「う、」
音量をしぼったスマートフォンのアラームをスワイプで黙らせて、うつ伏せに枕へ埋めていた顔をむくりとあげる。朝だ。何気なく見やった自分の右にはいつもどおり赤葦の姿。くったりしたTシャツに包まれた大きな背中は、肩甲骨の形がなだらかに浮き上がって、きゅ、といささか縮こまっている。
たいてい、自分のほうがちょっとだけ目が覚めるのは早い。次の日が休みだとなおさらで、深夜のほろ酔い気分でキスすればなし崩しにもなるし、木曜日あたりから手を出すと互いに決めていることもある。自分の熱を受け止める分、赤葦の疲労は大きくて、声をかけるまで規則的な小さな寝息を立てて身動きもしないなんてときはよくあるけれども、なんのせいでもない熟睡の夜だってちゃんとあって、それでも赤葦の朝が自分より遅いのは、別に朝が苦手というわけではなさそうだと俺は少し見破った気分でいる。
目深にもぐった布団からのぞく微動だにしない鼻筋とまぶた。よくは窺えない横顔を見下ろしながら身体を起こし、襟足をかいた手を伸ばそうとして結局やめる。抜け出した自分の空洞を埋める分だけ、布団を引っ張りあげた。ぽんと背中をひと撫ですることなく、これが俺の、朝のはじめの仕事だ。
ルーティーンなんてほどではないけれど、誰でも起きてすることといえばだいたい決まっている。まずはトイレで用を足す。鏡なんか見ずに洗面台で顔を洗って、ぶらさがったタオルで顔を拭いてるあいだ、あまり声になってない独り言が漏れる。あー、とか、ふー、とか、身体が自然と力の抜ける息の吐き方を選ぶ。目が覚めるっていうのはこういう瞬間のことだ。
なぜかいつのまにか二種類ある歯磨き粉を適当に選んで、歯ブラシをくわえた自分を一瞬、鏡で認める。直すのは後、髪をかきあげて、振り返ったら今そこにある洗濯機。今日は晴れてる。
ん?
ときどき、洗濯機のふたに忘れものが置かれていることはままある。おもに風呂に入るときにポケットから見つかったようなもので、小銭やレシート、腕時計にスマートフォンといったものなんだけれど、今日は違った。
電源ボタンの近くにちょこんと居座った小さくて四角いやつ。
チロルチョコ?
つまみあげなくったって分かったけど、読むために人差し指と親指で持ち上げる。もちろん、そうでなくても読めたけど、包み紙の上面にぴったりちょうどの紙が貼られていて、そこに書かれていた一文字をぽつり呟いてみる。歯ブラシでふさがっているから呻き声みたいなもぞもぞしたそれだ。
(『で』)
バレンタインデーね、こどもみたいにもったいぶった気持ちでどきどきする年齢ではなくなったけれど、こどもみたいなやり口に俺はちょっと笑った。こんなことをするのはもちろん赤葦しかいない。手に握りこんだまま、さあ“で”ってなんだ、洗濯物を投げ入れ、ぴ、ぴ、ぴ、と操作して洗剤も入れて、あとはこいつにぜんぶおまかせだ。
少々行儀悪く歯ブラシくわえたままキッチンへ行く。急いでいる朝もゆっくりの朝もとりあえず飲むコーヒーのため、電気ケトルでお湯を沸かす。
と、ここにもチョコ。ケトルの上で俺を待っていた。
(『す』)
どうも置いた犯人は自分の朝の行動を把握しているらしい。ケトルに水を注いでぱちんとスイッチを入れる。やるなあ、思わず声にこぼして、やっべ、口の端から垂れてきた歯磨き粉の泡を慌てて拭った。
洗面台の前に戻って歯を磨き終える。鏡の中の自分を見つめてから、パタン、と開けてみた戸棚、髭剃りをしまっているところにチョコはなかった。まあ、休みの日は出かけないかぎり使わない。そうか、そういうことか。
「……分かってんな」
探偵みたいな顎に指を添えるポーズなんてしてしまって、俺は戸棚の扉を閉める。ブラシで髪を梳かし寝癖をすっかり取るのは諦めて、もう確認するところもないバスルームを後にした。
キッチンではもう電気ケトルが白い湯気を立てているところだった。寄り道気分で冷蔵庫の中、インスタントコーヒーやマグカップのしまってある戸棚も見たけれど、文字付きのチョコは見つからない。うん、まあ、そうなんだ、どれも次にすることじゃあないんだけれども。
ちら、と寝室をのぞくと、やっぱり赤葦はさっき見たままベッドの上でまあるくなっている。クローゼットを開け、かごに放り込んである部屋着に手を伸ばすと、あった。たたんだ覚えのないスウェットの上で一晩明かした小さなチョコ。
(『き』)
これが揃えば考えていた予想はほとんど当たったも同然で、ぱぱっと俺は着替えると起きる気配のない赤葦の傍らに腰を下ろした。手のひらに包んでいたチョコをみっつ、シーツの上に人差し指で丁寧に横一列に並べて。
「赤葦、起きて」
そう言ったら、少し遅れて赤葦がもぞもぞ身動きした。おいおいさらに深く埋まってどうする。起きてよ、と今度こそ頭を撫でたら布団の中から、かすれ気味のテノールがくぐもった声が出す。
「なー、最後のいっこ見つけらんなかった」
訪れる沈黙。たっぷり三秒はあって、その間に俺は、あれ怒ったかな、でも心当たりは全部見たしな、家ん中大捜索してたらさすがにお前も何やってんすかと据わった目でして起きてくるだろ、そんな言い訳まで考えて、ほんとは全部自分で見つけたかったんだけどって、これいつ考えたのって早く言いたくて、隠れ蓑をそうっとめくろうとした。
そのとき、ふくらんだ布団の下からにゅっと手が出てきた。結んだ手が俺の視線を縫いとめて、ぱっとシーツの上で開き、また、すすすす、と布団の中へ帰っていく。なんだこの生きもの。おかしくて噴出しそうになった俺の目に留まったのは、その小さな小さな置きみやげ。
拾い上げて、並べたチョコのいちばん右端によっつめを加える。バレンタインだ、そうは知っていてどんなメッセージかなんて予想もついていても、うれしくないはずなんてない。
「ねえ、これどこに隠してた」
そう話しかけると、いつのまにか布団から重たげなまなこをのぞかせて、赤葦がこちらを見つめていた。
「まくらのした」
ゆっくりと、まばたきが答える。他のとこ探したって見つからないですよ、と眠気のない声音が口元を隠したまま笑う。あ、こいつ、けっこう前から起きてたな。
「最後はいつも、俺のこと起こしにくるでしょ」
ふふ、と息をこぼして目を細める。まったくさあ、とちょっと照れくさくなってわしゃわしゃっと赤葦の髪をかき混ぜるようにした。うう、と赤葦は一瞬頭を亀みたいに引っ込めたけれども、包まった布団から二本の腕がするっと這い出てきて、何かを求めて宙に伸びた。うん。それを俺は身体を近づけて受け止める。首に絡んだ腕に、からだを引き寄せられるその重み、頬に当たるくせっ毛と朝のほんのり艶かしい吐息が少しくすぐったい。
頬が鳴る。ちゅっ、と食まれるようなキスをされて順当に俺は口元をほころばせた。だって、告白されるんじゃないかって、この状況なら順番としてそう誰でも期待する。
そしたらさ、なんて囁いたと思う。
「……おなかすいた」
腹の虫こそ引き連れてこなかったけれど、きゅっとしがみつく力強さに嘘はなく、まあ、そういうことだ。ったく、とまた髪に指を差し込んで撫でると、はい、と満足気な声がして腕の力が強くなった。離し難くさせるのって、赤葦、それなんだか矛盾してるよ。
好きだよ、って代わりにじゃないけど、仕方ないからでもなく呟いた。
「俺もです」
ちゃんと目の覚めた、いつもの赤葦の声が鼓膜をくすぐるように震わせる。
俺の、朝の最後の仕事が赤葦を起こすことなら、赤葦の朝は、そういうことなんだろう。やっぱり朝が苦手でも何でもないのかもしれない。
どちらからともなく低い腹の虫が鳴った。俺も笑ったし、赤葦も笑った。この流れで今日はどっちだっけなんて確認してみせるのはきっと野暮だ。
「さて」
チョコは後でいただくとして、俺の番ばっかりのような気がしないでもないけれど、いいよ、バレンタインの朝ごはんは何にしようか。
fin.(2016.2.15)