20秒の永遠
 本当にそんなことを? と私が笑いの混じった声で目を見開くと、そうだ、というふうに奴は手を広げて得意げにしてみせた。まるで、どうだ会心の一言だったろ、と言ってみせるかのように。どうだか。ほろ酔いでゆるくなった口元を、持ち上げたジョッキの縁に押し付けて残りを一気に呷る。男ふたりには少々窮屈である簡素なテーブルの上には食べかけのフィッシュ&チップス。ここのハンバーガーはすすめられたもんじゃないがこれは格別だ。揚げ油の温度が違うのかなあ、とほんのりと酔いの回った様子で奴がポテトをひょいと口に運ぶ。
「あ、もう一杯」
 掲げられた奴のジョッキは気づけば空っぽだ。おいおい、と私がたしなめる前に、奴と目が合ったらしい店のマスターがカウンターから冗談半分に返事をする。その通り、真昼間からジョッキのおかわりとはいいご身分だ。
「いいだろ。付き合えよ」
 すい、と小さな黒目が動いて私を捉える。その顔も声音も、夜のカウンターで見るのと少々違った。奴はほんとうは饒舌などではなかった。仲間と楽しい夜にしようと決めた日は、私を含めどんな男たちとも変わりない馬鹿騒ぎをし楽しんでもいるのだけれども、合わせている、そのことを誰にも覚らせずに気を遣うのが何より上手い男だ。二人きりになった隙にほとんど当てずっぽうのようなもので尋ねてみたことがある。奴は瞬いた目で私を見て、アルコールで少し腫れぼったくなった喉を小さく鳴らして笑った。楽しいよ、それはほんと、とグラスの底をやさしく見つめるようなまなこで酒を舐めたのに、私は、たぶんこの男は実は仲間とでも独りでものんびりと静かに夜を味わうほうが向いているのだろうと思ったものだ。
 今日の奴の顔は随分と穏やかだ。酒が入っているのだけれどもその力だけで上機嫌になっているのではないような、翳りがない、そんなふうに思って、いやどうだ、ないのは当たり前だ、と歩道に面したこの席に降り注ぐ午後の陽気に思い直す。私の返事を今かと待つその眼差しに肩をすくめてから黙って頷くと、奴は二2センチほど温い液体の残る私のジョッキをテーブルの端に押しやり、二つ! と、通る声を張り上げて言った。
「それで、さっきのプロポーズはどこで?」
「え、ああ。それは初めて会ったときだって。プロポーズは別」
 先ほどの話題をまた振って返した私に、奴は相変わらず機嫌よく答えた。長身の彼はいつだってどこだってたいてい足の収まりが悪い。背もたれに身体を預けるように座り直してこちらを見る。
「えーとあそこだよ、あの十字路の角にある」
 度忘れした、と不用意に女たちを怖がらせるその顔をしかめた。
「トマトサンドの美味い?」
「違う」
「じゃチョコパイの美味い店だ」
「うん」
「ロキシーダイナー」
「そこだ」
 でもまさかお前がチョコパイのこと知ってるとはね、と奴が楽しそうに付け加えたのをゆるく首を振って受け流す。奴が知らないはずはない。そんなに酒の強くない私が夜のカウンターでときどき甘いものこっそりつまんでいるのを見てないわけがないのだから。
 ひとりで窓際の席に座ってたんだよ、と奴は言った。
「いつもなら今日はレジに人が並んでるかいないか、そんなことを眺めて通り過ぎるんだけど、でもあいつが、そう、ちょうどこんな感じの席に座って何かを書いてたんだ」
 随分と遅くなった昼休みでランチを買いに出た道すがらだったという。何気なく目をやった店内に、テーブルで手帳を広げ紙ナプキンに書いたメモを写す姿と、まだ温かそうなコーヒー、そして歯型の付いたチョコパイがあった。
「二度見したね」
「チョコパイを?」
 私が少々意地悪く思うのも構わず奴は声をこぼして笑う。失敗した。からかいの合いの手に奴の機嫌は悪くなるどころか色よくなるばかりだ。
「どっちも」
 あんな甘いやつを好む男もいるもんだって思ってさ、と含みのある目で私を見る。上機嫌だ。
「俺が足を止めて見てるのをあっちはまったく気づいてなかった。触れたらどんなもんだろうって思ったくせっ毛や、俯く顎の線、下を向くまつ毛の影、少し眠たそうに見える目元、骨ばった長い指が何かを書き付けるしぐさや、コーヒーを飲もうか迷ってやめた指先を、ずっと続くみたいに俺は眺めてたよ」
 まあ、好みだったってわけだ。そう言った奴は目を細めて窓の外に視線を外した。私はその先を追いかけることをしなかった。奴の瞳にはきっと向こう側にかの日の自分の姿が映っている。
「すぐに声はかけなかったのかい」
「迷ったよ。少しね」
 どう声をかけようかぐらいは誰でも迷うものだ。よっぽど手慣れた男でない限りは。長身でそこそこ顔も悪くない男でもそんなことはあるらしい。けれども誘い文句を既に聞いている私は、あれを言えるならなんだって恥ずかしくないさ、とからかってやったが、小首を傾げた奴はあまりに気にしたふうでもない。
「そうかな。最初が肝心、だろ」
 そこへタイミングよく新しいジョッキが二つ運ばれてきた。グラスの汗で湿ったロゴ付きの紙コースターの上に、どすん、とマスターの太い腕が景気よく白い泡を揺らしてビールを置く。ジョッキの持ち手を人差し指で引っ掛けて、くるり、と回すとさっそく奴は一口美味そうにすすった。念のために言っておくと彼は既に三杯めで私はまだ一杯めだ。
 そういえばいつものお連れさんは。もう少ししたら来るよ。そんな短いやりとりを奴はマスターと交わす。飲みすぎるなよお二人さん、と言い残していったマスターの背中を私は手を上げて見送った。
「兄貴が小さいころ俺によく言ったんだよ」
 呟きにゆっくりと振り返る。泡の少し減ったジョッキの縁をくるくると奴はなぞっていた。
「“二十秒間でいいから勇気を出せ”」
「二十秒?」
「そう」
 恥ずかしいのは最初だけだと幼いとき奴の兄が躊躇う弟を励ました。何でも最初だけ勇気がいる。けれど、最初の二十秒間勇気が出せればその後はけして悪くないことが待っている。そう肩を叩かれてずいぶん気が楽になってさ、と奴は小さく息を吐く。二十秒間の勇気、私はなかなかにそれを気に入った。自分が思うほど他人は人の失敗や恥を気に留めないものだ。末代まで覚えられているのじゃないだろうか、なんてものは杞憂であり自意識過剰でもある。たいていの場合はくすりと小さな笑いを誘ってただ消えるだけ。三秒のうちに風に乗って散るだろう。
「だから“二十秒間勇気を出せ”、俺は兄貴の言ったことを思い出して何度も念じた」
 心を決めて俺は店の中に入ったんだ。そう奴は言った。歩道を足早に窓の前を行き過ぎてぐるりと出入り口に回り、小さなドアベルを引き連れ、もう夕暮れの色をほんのりと滲ませた陽の差し込む店内に立つ。ここまでで、五秒。
「振り返ったらどうしようかって思ったけどあいつは書くのに集中してて」
 手を伸ばせば肩に触れる、そんな距離で奴は二の足を踏んだ。行き先を迷った手を空で彷徨わせて結局ジーンズのポケットに突っ込むと落ち着きなくあたりを一度見回した。その場であちこちを向くつま先。もう十秒は確実に過ぎてる、と私が言うと、大丈夫だってまだ半分残ってる、と奴は笑った。
「そのときだよ。あいつのペンを持つ手が一瞬止まったんだ」
 こんなふうに、と奴はもう半分飲み干したジョッキを脇へやり、軽く握った手をテーブルに置き、その手元に目線を落とした。少し、首を傾げるようにしたという。オレンジ色に焦げつきはじめた光のなかで、奴の惚れた影の差し掛かる横顔だけが静謐だった。やたらとゆっくりにみえた瞬きの、まつ毛の揺れるその先の繊細さを奴はきっと覚えている。唇から薄くこぼれた吐息の震えるような密やかさを、奴の耳はそっと拾っただろう。最初にして最後の、絶好のチャンスだ。もう五秒しかない。なあ黒尾そこで言ったんだろ、と私が先を促そうとしたとき、横にすっと人影の立つ気配がした。
 書き真似をしていた手元から、奴が気づいて顔をあげた。きっと、あの日の彼と同じように。

「……“どうして世界一美しいきみがおれなんかと口を利くの?”」

 春の宵に染み入るような低い声の端っこは空気を含んだようにやわらかで、楽しげに砕けていた。一瞬呆気に取られたように瞬きした奴と、奴を見下ろす百八十二センチの彼の横顔を交互に見やって、私は彼らの邪魔をしないためにも声を殺して笑った。
 今日、彼のまなこを縁取るまつ毛は、他の者など目に入らないかのように奴のほうだけを向いていた。沈黙を司るかのような唇は今日、奴のためだけに静かな微笑みを湛えている。これ、かっこつけすぎですよね、そう抑揚の少ないテノールがくつくつと喉を鳴らしてみせるのはとても彼らしいことだったが、今日はそれがなかった。あるのは、私にでさえ今見えるのは、日暮れの残滓を浴びてきらきらと水面をたゆたわせる湖のような愛しさのにじむ彼の瞳で、答えが欲しいというのではない、ただ彼は待っているのだ。あの日のことを、奴と同じように忘れられずに。
 この沈黙はけして長いほうではなかっただろう。実際は二、三度瞬きをして、ひとつ短い深呼吸をする程度のようなひとときだ。奴もたぶんそんなふうにしながら彼を見ていた。後でからかえば必ずアルコールのせいだとはぐらかされるに決まっているし少なからず原因はそこにあるのだろうけれども――確かに彼はこのとき三杯めのジョッキをもう空にしようとしていた――普段より揺れて潤んだようにみえる瞳と、熱を持たずにはいられない頬をして彼を懐かしげに見つめていた。テーブルにそっと置かれた彼の手に、奴は自分の手を重ねて包み込み、握り締める。ぎゅっと誓いのようにして、眼差しはもうずっとだというふうに心囚われたまま、彼を、捉えたままで。
 二十秒はとうに過ぎた。さあ君があのとき赤葦になんて答えてもらったのか、いい加減教えてくれてもいいだろう?
 イエス。実際はそんな無粋な問いも答えもあるはずはなく、ふたりの永遠は、途切れることなく続いて、黒尾が不意に眩しげに目を細め千切れるように赤葦に笑いかけた。

「“いけませんか?”」


fin.(2015.6.6)
映画『幸せへのキセキ』のパロディというかなんというか、一部の台詞と雰囲気をお借りしただけなのであんまりパロっぽくはないのだけれども、映画を見たかたにはああ、あのシーンだなということと、そこに流れていた雰囲気を汲んでいただけるかなあと思います。というか、その空気をちょっとでも思い出してもらえたらとてもとてもうれしいです。
映画のおおまかなストーリーは、妻に病気で先立たれてしまった父と子が環境を変えるために買った家が動物園付き(オーナーになる)で、動物園の立て直しとともに、妻の死を正面から受け止められない夫と、父となんとなくぎくしゃくしている子どもの関係も修復されていく、というようなある意味王道な話で、正直すごーく面白かったわけではないのですが、エンディングが印象的でとてもよかった。
妻の写真も見れない、妻と出会ったお店にも行けない、そんな心に深い悲しみを負った夫が最後ようやくそれを乗り越えて、子どもたちを連れて自分と妻が出会ったカフェに行くんですよ。店内に入って、ここにママが座ってたんだ、と席を案内して、自分が店の外を歩いていたら彼女を見つけたこと、声をかけようか迷ったこと、20秒だけ勇気を出そうと自分を励まして店に入ったこと、そして、こうやって声をかけたこと、それを全部子どもたちの前であのときのように振舞ってみせるんです。
そうするとね、彼だけに見えていた彼女が、夕暮れのにじむカフェの席に座って手帳に何かを書いていた彼女の姿が、子どもたちにもいつのまにか見えるの。小さくすてきにはにかむ彼女に、子どもたちも自然と笑いかけて、ハイ、ママ、って挨拶する。それがほんとうにおおげさでなくしあわせで、とてもとてもすできだった。
そこで交わす最後の会話が、作中の黒尾と赤葦の台詞なのです。最初きいたとき、ほんとすごい台詞だなって思って。(笑)でも、ポエマー黒尾さんなら言ってくれるかなあと思って、ちょっと書いてみたくなりました。赤葦の台詞、映画とは変えようかとても迷ったのですが、とりあえずそのままにしてみました。赤葦だったら、「おれなんか、なんて言う必要ないですよ」って言うかな、とも思います。
ちょっと変わった書きかたもしてみたくて、名もない友人から見た黒尾と赤葦の話、という形態をとってみました。せっかくなので、映画の設定もちょっと借りて舞台はアメリカっぽく、文体も海外作品の翻訳みたく。楽しかったです。
This fanfiction is written by chiaki.