小さいころ、おふくろにダンスに連れていかれたことがあった。キャバレー? そんなのだったら、この呪われた力でナーバスになっていた俺ももうちょっとハイでいられたかもしれない。実際は、しょぼくれた場末のバーのようなレクリエーションセンターで、腰の曲がってくたびれた婆さんと戦勲の自慢を繰り返す退役軍人の爺さんどもばっかりの、いかにも暇つぶしというような社交ダンスクラブだ。
俺は集まりの中で唯一のティーンエイジャーだった。しかもまだなりたての。ひょろひょろの身体を爺さんにからかわれはしたけれど、背丈だけはもう一人前だったし脳みそのほとんどが干からびちまってる婆さんたちとは違って物覚えも良かったから、連れていかれたその日にはもう人気者だ。嬉しくもない。数時間ぶっ続けで孫の代わりにくるくるくる、しわがれた手を握って踊るのが心底楽しい青少年がいたら変わってる。嫌な気分じゃ、なかったけど。
そんな誰もが棺おけに半分足突っ込んでるような場所、どうせ奴らが居たって気づかないと思うだろ。でも残念ながらやっぱり分かるんだ。唸り声が耳につくガタのきた空調に誰かが蹴り飛ばしてへこんだドア、でこぼこに歪んでるローリングの床。オンボロの、朽ちかけた古い場所を奴らはなぜか好む。数回ついていって、その後はやめた。
そのときからの癖だ。俺はときどきステップを数える。もう足の運びはうろ覚えで踏める気がしない。のろまに刻まれる手拍子のリズムなら、よくかかっていたスローテンポのナンバーと一緒に思い出す。リズムを取るためなのにさ、おかしいだろ、少しずつずれていくんだよ。そうして慌てて手拍子が曲を追いかける。そんなことばかり、覚えてる。
誰もついていけやしないどしゃぶりのレイニー・テンポも、ぴたり、とこの重厚なドアを閉めてしまえばこの静謐な空間には届かない。チャズのイエローキャブから飛び出し、たった数秒雨にさらされた俺の身体から匂い立つ湿った雨の気配も、薪の爆ぜる焼け焦げた木の香りと古い書物の少しかび臭いようなすんとした匂いがすぐにこの空間のすべてを正しく統べる。真正面を見据え、俺はコウモリ色の上着の合わせをつかみ、染みこみはじめた雫をばさりと振り払って歩き出した。
ワン、ツー、スリー、ステップ、ステップ、ステップ。
高い天井にぶら下がる豪奢なランプ、左右の壁にある大きな窓に流れ落ちる真紅のカーテンはいつもぴたりと閉じられ隙間風の入る余地もない。点々と左右対称に配された――尋ねてもいないのに付き人のボウズに教えられたんだった――コリント式だかドーリア式だかの柱、チェス盤のような市松模様の床の上、真っ直ぐと奥へ伸びた赤い絨毯に導かれるその先。
絨毯越しに革靴の底から伝わる硬い床の感触に、いつもここへ来ると思い出す。さっきのダンスの話だ。あまり強く握るのを躊躇われるか細い婆さんどもの手を取りながら、俺は床を叩く自分の靴音と、その足元だけを見ていた。おいおいシャイ・ボーイ、爺さんたちが笑った。そんなんじゃない。年寄り相手に誰が恥らうもんか。あんたらと目を合わせたくなかったんじゃない。そうじゃない。喧嘩を売れるなら売ってたいた。あのころの俺に今の力があったなら、あんなふうに俯いて生きていかなくったってよかったし、もうちょっと素直にダンスも楽しめていたんだろう。
ステップ、あるいは、ステップ。
だから数を数えるのは、そう、暇つぶしで紛らわしのようなものだ。寝れないときに羊の数を数えるのに似ている。余計なものを見ないようにするためのおまじない。それがちょっとした自己暗示の役立たずなんて、でかくなった子どもは誰でも知っている。でも、ガキにはそれしかないときだってあることを大人になるとすっかり忘れる。そういう大人になれた奴は運がいい。
……セブン、エイト、ナイン・ステップ。
肩に残っていた雨粒を俺は無造作に手で払う。ドアから暖炉までの歩数はだいたい身体に染み付いている。この辺までやってくると、ほら、見計らったように付き人のボウズがすっと本棚の陰から現れ俺の行く先を塞ぎに来る。
窓際にはコの字型に書架が設けられ、いくつかの個室のようになっている。目を配ったがこんな天気の夜にのんびり本を読む輩は一人も見当たらなかった。その、ほとんどが寄贈で集まったっていう本の中にはそこそこ価値のあるキリスト教のあれやそれが並んでいるもんだから、盗まれるんじゃねえのってわざわざ親切に教えてやったことがある。答えは、言わなくてもわかるだろ。言うなれば、売ったら天罰喰らうぜ、そんなとこだろうと俺は解釈してる。
突き当たりの赤々とした炎を灯し続ける立派な暖炉の傍で、黒の祭服をまとった老人とスーツに身を包んだ黒髪の青年が額を寄せ合い熱心な様子で何かを話していた。その上には大きな大きなイエス・キリストの受難の絵が飾られている。俺たちみたいな迷える子羊を見下ろすように。王の間みたいだって? 違うね。王がその頂きに授かるのは王冠だが、イエスが磔の十字架で実際に授かったのは茨の冠ではなく死だ。十字架を伝い落ちる死にゆくイエスの血の痕のみたいだとこの赤い絨毯をかかとで小突いてやったら、いや、あいつはきっとあなたはロマンチストだ、と笑うだろう。くそったれ。話す前から憂鬱だ。
イレブン、トゥエルブ、……ん?
「上着を」
ぴたり、俺の前で足を止めボウズが言った。今日はいつもより牽制のタイミングが早い。前回俺が話し込んでる連中に通る声で話しかけたからだろう。後ろ手を組む仕草がいちいち気取ってる。
「すぐに帰る」
踏み出し損ねた半歩を戻して、手を振って俺はぶっきらぼうに答える。長居しないのはいつものこと。そのとき、ちら、と瞬きの少ないボウズの目が俺の右に逸れたのを見て取る。
「あなたは?」
自分の背後からひょいと人間の気配がして俺は振り返った。私もすぐに失礼するので、と俺と同じく雨に濡れた女は、確かに人間だった。気の強そうな女だ。意志の強そうなくっきりとした眉と大きな瞳が印象的な俺に並んだその横顔を見下ろして、どこかで会ったような気もしたがまあそんなことはどうでもいい。女のぽってりとした唇が口早に動く。
「神父様に大事な話が」
後からやってきてよくもまあいけしゃあしゃあと言いやがる。割り込みは禁止だ。そっぽを向いて言い捨てると、息を吸い込む小さな間のあとで、どこにいても嫌な人ね、と呆れたような呟きが返ってきた。どこにいても? 一瞬そのつんと澄ました横顔が引っかかったがやっぱりどうでもよかった。俺がどこで何をしようがどう思われようが、たったひとりを除いて今は興味がない。
早くしてくれよ、と思わずぼやく前に運良くロビーの会談はお開きになって、様子を窺っていた付き人のボウズが向き直り、身を引いた。ちら、とこちらを意識した女が急いたように踏み出して、俺も歩き出す。
……トゥエルブ、いや、サーティーン?
ごちゃごちゃと余計なことを考えてたら、これだ。強迫観念から来るもんじゃないし、ジンクスでもない。ただの癖で暇つぶしで、俯いて歩かない今は特に意味のないことだけれど、順番に正しく並んでいたものが不意に崩れる気持ち悪さと違和感くらいは感じるもんだ。あと少ししたらきっとそのことも全部忘れてる。ステップの数を覚えていたとしても、暖炉の前で数え終えたその瞬間に俺は別のことを考えるだろう。なのに俺は小さな魚の骨のような癖を、喉に刺さったままいつまでも忘れられずにいる。どちらかというと、そのほうが癪に障る。
こっちへやってきた黒い祭服を着た老人に、神父様、と女が縋るように歩み寄り差し出された頬にキスを贈る。その横を俺は無関心で行き過ぎる。そう、俺ははなっから神父なんかに用はない。先を争う必要は一片もないんだよ。俺が、いつもここで用があるのはただひとりなんだから。
「……赤葦」
ふわ、と炎の温もりを含んだそよぎが俺の頬へ届いたのは気のせいじゃない。風のないこの教会で、一瞬空気が開き、閉じたのを感じたのはきっと俺だけだ。暖炉の前に己の身体を抱く青年の背中に、なめらかでたくましい大きな翼が広がるのを見る。足を止め、瞬きした瞬間にはもうそれは消えていた。けれど、在る。この辺りが暖かいのは暖炉のおかげだけじゃない。今はもう仕立てのいい黒のスーツの後姿でしかないけれど、翼がかきまぜた空気がふわふわと漂うような気配だけは嗅ぎ取れる。嫌なものじゃあないが、どこかそわそわして落ち着かないから俺はあまり好きじゃない。
すぐには振り向かなかった。十分、もったいぶらせる間を取って、それからやっと何もかも知った声音でそいつは言った。
「用件は分かってますよ」
そう、分かってるんだ。それでも俺はこうして来ている。
「見捨てないでくれるって? そりゃうれしいね」
俺は小さく笑って、しつらえられたソファの後ろから暖炉のほうへ回りこむ。俺が赤葦と呼んだ青年がやっとこっちを向き、不敵に笑った。表情の拾いにくい眠たそうな目と反して、曲げない意志を示すような眉の造作、夜露に濡れる宵闇のくせっ毛、そこそこ整っているのが分かる骨格に筋肉のつき方は、真面目に勉学も励み女にもそこそこモテて大学までスポーツマンだったエリートビジネスマン、といった風情だがそもそも人間じゃあない。どちらかっていうと悪魔のほうが似合うんじゃねえの、と笑ってやったことのあるこいつは、天使だ。正確に言えばハーフブリードなんていう中途半端な存在で、人間界にはやって来れないほんとうの天使の使いっぱしりなのだが、天界に属することは変わりないんだし平たく言えば同じようなもんだ。ちなみにそうやってからかってやったときの赤葦の答えはこうだ。人を見かけで判断するのはよくないですよ、だと。納得だよ。ハーフブリードには悪魔に属する奴もいる。天使みたいなナリをした悪魔だって大勢いるってわけさ。
赤葦が首を傾け、そうですね、と形だけ考え込むふりをする。
「どんな罪人でも神は救ってくださる、とでも言ったほうがいいですかね」
相変わらず天使のくせして辛口な物言いだ。差し向けられた眼差しにひりひりする。俺は、ふん、と鼻で笑い唇を歪めた。
「単刀直入に言う。寿命を延ばしてくれ。最近奴らの動きが怪しい」
分かってんだろ?
最後の一言を念を押すように俺は声のトーンを落とし、赤葦を見つめた。俺の視線そっけなく逃れた赤葦は、そのまま二脚あるソファのひとつへひょいと軽やかに身を沈ませた。薪の爆ぜる何かが壊れたような音とともに、くすり、と息をこぼしたのを見て、俺は眉間に皺を寄せる。
「まだ天国へ行こうなんて思ってるんです? そういう問題じゃないって俺、言いませんでしたっけ」
「……散々人のことこき使っておいてそれか? 息の臭うチンピラ悪魔どもと鼻先で睨み合って、毎日毎日俺は地道に奴らを地獄に送り返してる。一体何匹やればイエスって言ってくれる?」
「だから、」
やんわりとした調子で、言葉を切る。
「数の問題ではないんですよ」
まるで子どもに言い含める教師みたいだ。無意識に俺は左胸を触った。くしゃり、と音が胸元で小さく潰れて、ああくそったれ、ここは禁煙だ。やり場のない手をいささか乱暴にスラックスのポケットへ突っ込む。
「じゃあどうすれば」
そう言って見やった赤葦は首筋を俺にさらして余所見をしていた。伸びた視線の先には割り込み女の姿。話はもう終わったのか、本棚の個室でひとりうなだれたふうな女の傍に神父の姿は見えなかった。こいつは迷える子羊が気になるって性質じゃあない。おい、と呼びかけると、振り向いた赤葦はぱっとこどもの顔で微笑んだ。見てなくてもお見通し、ってか。
「普通のことを」
そう言って赤葦は、人差指を立て、続けて中指を立て俺に示す。
「自己犠牲。そして、神を信じること」
「信じてるさ」
「嘘」
言い捨てたような俺の言葉を、追いかけてぴっとその指先が刺して縫いとめる。深い夜の眼差しが見透かすように俺を捉えた。
「知っているだけでしょ。あなたは、見えるから」
……そう、俺は見える。生まれつき備わったこの忌まわしき能力のせいで。だから俺はステップを数えるしかなかった。ひたひたと忍び寄り、背中をぞわりと這い登る影に、どうにか気づかないふりをするための意味もない子供だまし。いくつものキズの走ったチェック・パターンの床を、俺の汚れたスニーカーがときどき擦ってきゅ、と鳴った。つかずはなれずの距離にある小奇麗なローヒールのパンプス。その、二人だけの足元に不意に現れる三人目のつま先。それは泥にまみれているときもあった。ボロボロの、役目を果たしていない靴を履いているときもあった。赤黒い足跡を残し、指が、欠けているときもあった。透明なほどに真っ青な、幼い形をしているときもあった。でも見えているのは俺だけ。バケモノと3人でダンスしてるなんて、気づいてるのはいつも俺だけだった。口をついて出そうになる小さな悲鳴を生唾と一緒に飲み込んで、奴らに勘付かれないよう息をそっと潜めてたのは今となっても、くそったれな思い出でしかない。
「こんなもの、誰が欲しいって言った」
睨みとともに吐いた俺の言葉を、ああ、と憂うように赤葦が柔らかなため息で包み込む。革靴のかかとで床を鳴らし上体の反動を生かして立ち上がり、俺の方へやってくる。気づけば、背中に当たる暖炉の暖かさがこもるような熱と変わっていた。濡れていた上着もほとんど乾いたのだろう。俺の横を過ぎ、暖炉の正面に立った赤葦がくるりと振り返る。
「それは大きな勘違いだ黒尾さん。あなたの力は神からのギフトなんだから」
「ギフト」
「そう、天上からの特別な贈りもの。けれど、残念、あなたはそれを自分のために使ってる」
でしょう? と目を細めてきれいに笑って見せた赤葦の真上には、あの受難の絵がかかっている。俺をあざ笑う価値もないというように見下ろして。
この力も、この命も、すべてが神から授かったギフト?
キリストがもらった茨の冠もギフトで、手と足に受けた杭もギフト? 脇腹に刺さった槍の傷跡もそうだとしたら、最期にもらうギフトはもう決まってる。
「……何なんだよ。これじゃあ結局最初から何もかも定められてるってことか」
くそったれ。振り上げそうになった中途半端な拳を、俺は何にも打ち下ろすことが出来なかった。憐れむような静かな眼差しに受け止められたからだ。
こいつは、不思議だ。まるで感情を覚えたての子どものようにくるくるころころと表情を変える。前触れもない。連想もない。鏡とはどうやら違う。与えるための優しさでもない。人間らしいことを人間っぽくしようとしている、単純にいえばそれだけのようなもので、でも、それはほんとうに実に精巧で誠実そうな手触りをしているから性質が悪い。
ともすれば今この瞬間、誰かのためにたやすく涙を流すことだってできるだろうその濡れたような瞳は、こいつが、ほんとうに清らかな心を持った天使なのじゃないかとぐらり、勘違いしそうになる。こいつはただ、人の定めを憂うことが得意なだけだというのに。
「お前こそ地獄へ行けよ、ハーフブリード」
詰め寄ったその鼻先の距離にひるむことなどなく、赤葦は俺を見つめ返した。さっきまで笑っていた口元の面影は微塵もない。まつ毛が繰って、俺を黒曜石の瞳に滑らせる。淀みなく見透かすようなそれに、指先ばかりでも赦しがあるんじゃないかとどうしたって俺は揺らいでしまう。分かってるのに、でも、俺はこうしてこいつに会いに来ている。
真っ黒な影に染まった肺でなけなしの空気を吐き出した。目を逸らし、俺はよたよたとソファへ腰を下ろす。最近はめっぽう体力の減りが早い。疲れてる、そんなことを言ってる時間はないのに、たいして傷もついていない身体は内だけが死刑台への階段を一段飛ばしで駆け上がっている。
「どうして、俺が」
何度もそう思った。何度も神に言った。この力に苦しんだときからずっと。教会にも行った。祈りもした。でも届かなかった。俺のおまじないに神はいつでも沈黙で答えた。唱え続けて唱え続けて、これはそういうことなんだと分かったころにはとうに教会は行かなくなっていた。だって、どうだ? 教会ってのはなぜこんなにわざとらしく厳しいんだろう。ドアはばかにでかく重たいし、建物の造り自体が堅苦しいし、信じれば誰もが救われる、そう謳っているのに助けて神様! なんて気軽に飛び込める雰囲気とは言いがたい。つまりは、そういうことだ。お高くとまっている神さまは誰でもを助ける気はない。喜んで迎え入れられるのは、毎週日曜日に一張羅をまとい家族で気前のいい額を皿に乗せる、絵に描いたような家族ってやつだ。ばっからしい。けど、現実はそんなもんだ。
「……いいえ」
やさしい声音が俺の耳元のすぐそばでして、うなだれ俯く俺の手にひやりともじんわりともしない肌が触れた。凍えた手を長い指両手がそっと包む。
「教会のことも祈りのことも、献金のこともこのことには関係がない。わかってるでしょうそんなこと」
ああ、そうだ。俺は目を閉じた。こいつがいる限り暖かに燃え続ける暖炉のそばで、このまま眠ってしまいたかった。もう長いこと、ゆっくりと寝ていない気がした。
その歳で死ぬのが恐くない人間はいないですよ、と慰める赤葦の声が俺を静かに見上げる。
「15歳からあの量は吸いすぎです」
「分かってるよ」
小さく、俺は笑った。でも、あのときの俺は、何か世界を変えるようなことをしてみたかった。何かの力に頼ってでも、自分の世界が、変わればいいと願った。実際はカップ・ヌードルの夢だ。心地いいと脳みそが緩く麻痺する、かすかに煙った視界を手に入れるだけのインスタント・マジック。どこかの少女みたいに、ぽんぽん火をつけてもいいことなんてひとつもなかったね。
「……あいつらと、同じとこに行くなんて思ってもなかった」
「そうでしょうとも」
俺の地獄行きが決まっているのは、自殺を図った報いだ。どんなに信心深い者でもその掟を破れば審判の門の前で必ず地獄へ弾かれる。熱心に教会へ通っても、何千何万祈りを捧げても、献金皿にどれだけの札束を積み重ねても。神は自ら命を絶とうとしたものを、どんな理由だって許さない。この力が神からのギフトだって? 笑わせるよほんとに。それを何度も思い知って、なおこいつに会いにくる俺もほんとうにお笑いだ。
ふ、と俺の頬へ密やかな吐息が届いた。羽根ひらくときの感覚とよく似ている。肌の感覚が一瞬、鋭敏になる。そわりと、心臓の鼓動に直接触れられるような宙に浮いたこの感じ。
「俺はあまり不誠実な言いかたは好まないので」
そう羽根の主がささやく。そうだね、これはどちらかというと悪魔の仕事だ。
「たとえば、それが救いになる、なんていうのは慰めにすらならないでしょう?」
キッツいね。二日酔いのがんがん揺れる頭にカウンターパンチ食らうよりきつい。でも、そう、これがお前だ。天使の微笑みで、容赦のない真実を俺に寄越す。俺はそれを知っている。だから分かってるって。それすらも、お見通しなんだろう。
吐息だけが、俺の耳に触れた。それは生きている者の生温かさをもって俺の鼓膜を細かに震わせる。なめらかに瑞々しい唇が言葉にはそぐわない優美さをつむいで、赤葦はたぶん笑った。ほどけるような、短い呼吸の浅薄さが微笑みの形をその場に漂わせる。
目を開けたら、もうあの羽根はそこになかった。背中さえ見送らせないあいつは随分したたかで、でも、しるしを残すことは忘れない。……天使の吹く息は春のそよ風だって? それはどしようもないおとぎ話だろ。俺が思うに、あれは熟れてその身体を弾けさせる一歩手前の甘く朽ちた香りだ。形保てず壊死していく細胞の匂いのような。
俺は、笑った。喉奥から苦しげに漏れたそれはだだっ広い教会をびくともさせず、ごみのように床を転がってどこへも行けなくなる。そう、分かってたことだ。いつか死ぬことも、天国へ行けないことも、生まれたときからそう決まってた。だったらお前に言われなくたってやることはいつだってたったひとつしかない。
――そうだ、俺は、黒尾鉄朗。悪魔祓いの、黒尾鉄朗。
数をかぞえるのをやめてからずっとそうしてきた。邪魔する奴はクソ食らえ。俺が片っ端から地獄へ送ってやる。免罪符につば吐きかけながら、救いのない神のために。
深呼吸した俺の鼻が残り香を拾って、天使とはいえ男のナリした奴のに顔もしかめないなんてどうかしてる。肺に沁みこんでいく、蝕むように甘い吐息、そして思い出す息遣いのかたち。
『……だからあなたは、死ぬまでただ殺せばいい』
そんなこと、お前に言われることじゃない。けれど俺に出来るのはもうそんなものしかない。俺はそれを知って、分かっていて、でも、こうしてお前に会って話しをして、抗う?憎む? 違う、囚われて、溺れている。お前の言うことを、お前が言うことだからと投げ出すように信じてしまいたくて。少し酔った気分になってくらくらした。ばかみたいに、お前の笑いかたを思い出して。
神は天国の扉を開きはしない。永遠に、俺を断罪するだろう。
俺に、扉を叩く資格がないのがすべて。
わかってるよ、God damn.(くそったれ)
fin.(2015.10.10)