落ちていく、そう勘違いするほどに高く青い空を見上げて赤葦は取り留めないことを頭のすみに漂わせる。あまりに些細なことばかりでさっきからまったく心に引っかからないから思考するまでに至らない。随分とずり下がる格好で座ったまま何の影も横切らない空を目に含んで、あと少しだけこうしていようとやっとひとつだけちゃんとしたかたちにして目を閉じる。そのとき、寄りかかる壁から頭蓋を伝わせて、壁の反対側からドアノブをいじる音がした。鍵を差し込み、ひねる。かしゃん、と開錠されて金属製の重たいドアの軋む音が響く。そこそこ開け閉めに気遣う様子があるのを、感じ取る。とはいっても特別な注意を向けることはない。びた、びた、と上履きの足音が半周してこちらへやってきた。素っ気ないコンクリートの床を擦って、真横でぴたり、と止まる。何かが放り投げられ中途半端につぶれた音も落下した。
「やっぱここか」
「……鍵かけたんスか」
高いところから降ってくる声に分かりきったことを尋ねると返事はなかった。そのかわり、自分と変わらない重みが遠慮なく太腿にかかって目の前に見えない圧迫を感じ、赤葦は不機嫌にまぶたを持ち上げた。自分と同じブレザーの制服姿がわりと間近な距離から薄い笑みで赤葦を見下ろしている。黒尾だ。
「何」
「もう寒いんじゃないここ」
言って、赤葦の上に跨ったままの黒尾が空っ風に吹き去らされる屋上の床に目をやった。確かに11月ともなれば晴れた日でも風の冷たさに日差しの心地よさが負け始めて、硬い床についた尻の平べったい冷たさが気になるころだ。そういう自分は、と赤葦が吐息混じりに呟くと、お前探してたんだよ、と黒尾が笑った。
「も少ししたら視聴覚室にしますよ」
「じゃそっちの鍵もちょーだい」
目線を逸らさず黙り込み、赤葦はポケットに突っ込んでいた手を無意識に探る。ちゃり、と潜ませた鍵の束が鳴った。あるのは屋上、視聴覚室だけでなく、体育館倉庫、部室棟など時間帯によっては人気なくゆっくりと時間を潰すことの出来る場所の鍵だ。この高校に入学してすぐに上手いこと職員室から拝借してコピーした。都内でもそこそこの進学校だからしょっちゅう授業をさぼるわけにはいかないのだけれども、ときどき細かくなさそうな教師の授業を狙ってだいたいは一人で昼寝などしてのんびり過ごす。とりわけこの屋上は気に入りの場所だ。遮るものがない、というのがいい。などと思っていたら、黒尾もここを気に入って鍵を貸せばなかなか戻ってきやしなかった。俺もいっとう気に入ってるんスから、と怒れば、じゃあも1枚コピってよ、と言われて現在に至る。基本は誰にも邪魔されずに過ごすのが好きなのだから、ほんとうは渡したくなかったのだけれど、今それを言っても黒尾は笑うだけだろう。
当の黒尾は返事を待つというわけでも、そもそも人に物を頼んでいるつもりもなさそうに手持ち無沙汰に伸ばした右手で、赤葦のブレザーの返り襟の裏に指を差し入れ滑らせている。
「視聴覚室なら声が漏れる心配もないな」
「……ま、そっスね」
賛成、というつもりではなく、防音設備が整っている、という点に理解を示す。黒尾にそれが伝わっているか分からないがどちらにしても誘われれば断る理由は見つからない。することはひとつだ。黒尾の手が赤葦のブレザーの合わせを辿って、めくる。
「ヤらせて」
言うと同時にもう黒尾は赤葦のベルトに手をかけていた。かちゃかちゃと金属音を鳴らしてバックルを外そうとする手つきも、最低限のことと一応口にしてみただけのような誘い文句も頭上に広がる空の色のように軽い。前髪のかかる伏せがちのまぶたを、短いまつ毛の均等に並ぶさまを瞬きで見つめてから赤葦は黒尾の手首を掴んで止めた。案の定、振り切るような強さはない。
「なんで」
顎を引いたまま、ちらりと黒目がこちらを向く。
「さっきチャイム鳴ったでしょ。昼飯」
「あそ」
断った理由にこれっぽっちの偽りもない。昼休みのチャイムが少し前に鳴ったのは把握している。黒尾だってそれだから屋上へやってきたわけだろうし、腹が減るのは道理だ。お互い、吹けば飛ばされそうな理由しか持っていない今日は押しも引きも早かった。ファスナーにまでは辿りつかなかった黒尾の手が離れて、そのまま退くのかと思えば長い指が顎に添えられ、黒尾が首を傾けて軽く唇を合わせてきた。微かに触れる鼻にくすぐったいと思う前に、小さな水音を赤葦の口の端に落とす。小さく、赤葦は顔を歪めた。
「どしたのそれ」
言いながらようやく黒尾が上から退いて隣に腰を下ろし、来たときに放り投げたビニール袋をがさがさと漁っている。濡れた唇の端っこを赤葦は、ぺろり、と舌先で舐めとった。ひりつきと血の味が舌に滲む。手をついて身体を引き上げ姿勢を直す。
「……ちょっと絡まれて」
「まだやってんの」
その声には笑みが含まれている。知っているくせに、と赤葦は言葉ではなくため息で曖昧になじる。
「もうやってないですよ」
「昔取った杵柄だな」
ペットボトルの口をひねる音を聞きながら、赤葦も持ってきていた昼飯を脇から取り出し、口を開けるのを億劫に感じながらもそもそとおにぎりをかじる。 昔から黒尾は父の生業上、よく喧嘩を売られたものだが自分から売るような真似はほとんどしなかった。対して赤葦は自分の父の生業を周囲にあまり知られていなかったのだけれど、中学時代、わざわざ他校の生徒にまで自ら喧嘩を売りに行っていた時期があったためにそこそこ名が知られている。あのときはただ喧嘩がしたかった。いつのまにかちょっとした取り巻きが出来たときもあったが、そういうのが欲しいのでも目立ちたいわけでもなかった。噂が広まれば自ずと相手は現れてくれるようになって、ところ構わず喧嘩を吹っかけるのはわりとすぐにやめた。黒尾と同じ学校へ行くと決めた中学2年の終わりには興味すら薄れて、適当にあしらっているうちに徐々に絡んでくる相手も減ったのだけれど、ときどき、とうに終わったパーティーに場違いなほど意気揚々と乗り込んでくる阿呆たちがいる。正直うんざりだが、自分のまいた種であるから誰に文句を言えたものでもない。
「それ先生に見咎められたりしない? 赤葦くんどうしたのまあ喧嘩、とかさ」
「聞かれましたよ一応。転んだときに噛みましたって言いましたけど」
「へーえ。それでごまかせるんだから随分と? 信用されてんのな」
「あんたが言いますかそれ」
目元に青あざ作って登校してきた奴に言われたくはない。あまつさえ同じクラスだと思われる女子に、黒尾くん大丈夫、と猫なで声で心配されているところを見かけて赤葦はげんなりしたことがある。不良とは縁遠い進学校で確かに目立つのを避けるのは賢明だけれども、明らかに暴力の二文字があの胡散臭い笑顔に透けてみえるのに何もお咎めがないのは、成績優秀で振られれば愛想よくする猫の被り方の上手さのおか
げだろう。ちらりと、咀嚼しながら黒尾を見やる。黒尾は惣菜パンの包装を破ったところだった。すぐに自分の頬に張り付いた視線に気づいて、こちらを見た。何だよ、なんて言わない。にや、と唇に色を滑らせて流し目を作るようにする。
「な、赤葦見てて」
そうして舌を見せるようにして口を開けその様を赤葦に見せつけるようにしてから、まだ一口もかじっていなかったホットドッグを、ぱくり、とくわえた。何をするんだと首をひねる前に黒尾のすることが分かって、赤葦は眉をひそめる。さっき赤葦のをさらった唇がゆっくりとパンのやわらかさを
味わって粘膜に触れる。顎を傾けて一度黒尾がそれをくわえ直す。覗いた喉がぞわりとうごめいた。歯を立てずに、黒尾が音が聞こえてきそうなほともったいぶるいやらしさでパンを食む。猟奇的なケチャップとマスタードの色味が唇を汚して、ぷち、と白い歯に小さくはじけたソーセージの音がした。染み出た肉の脂が黒尾の上唇を濡らして、溶ける。最後は唇をなまめかしくしゃぶるように動かして、その一口を飲み込んだ。それからはもう何事もなかったような顔をして口の中のものを噛み、喉を鳴らす。
黒目が赤葦を見つめ、いたずらっぽい光だけを含んで笑った。
「どう」
尋ねられて赤葦は仏頂面を解くことなく、目を伏せて盛大にため息をついた。まだ半分以上昼飯は残っているのに食欲はだいぶ減退してしまった。食べかけのおにぎりを一口食む。食べるのをやめる、という選択肢は思い浮かばない。あらかた飲み込んだところで、公然わいせつ罪を見つめるような眼差しで、言うなれば場違いな阿呆どもに向ける視線より少しましな程度の視線を送った。
「……マジでやめてください。ほんといかがわしい」
「はあ!? なんでよ! お前がこのあいだフランクフルトでやったげましょうかって先に言ったんだろ!」
「言いましたっけんなこと」
「言ったよ」
「あーじゃあやんないです俺。ほんとマジ次ないんでやめてくださいよ」
「うーわー」
そうだよねそういう奴だよねお前はさ、とたいしてダメージを受けたわけでもなさそうだったけれど黒尾が間延びした声でごちる。その様子は少しだけ面白かった。赤葦が目をほんの少し細めると、瞬きした黒尾がそれを逃さずに捉えてぬっと手が伸びてきた。首筋を掴まれて、歯がかち合うような乱暴さで唇が押し付けられる。ただ、濡れた粘膜がぶつかるだけの行為。ケチャップと脂の混じりあう味は血に似ている。一瞬そんな気がしたけれど、それはただの気のせいだと自分から離れていく顔を見つめながら赤葦は傷跡を舐めた。
「それ誘ってる?」
さっきのにはノってくれなかったくせに、と赤葦を瞳に映して、欲に濡れてもない声を秋の乾いた空気に転がす。
「これくらいで誘われるような男じゃないでしょう」
赤葦も似たような顔で笑った。入学してからずっとこんなふうだ。優等生をある程度そつなく演じて、ときどき黒尾と昼飯を食べたり身も蓋もない話をしたり気が向けばヤったりする。最高に下らない。だから最高だと、思う。
楽しげに喉を鳴らし元の場所に戻っていった黒尾が、手にしたままのホットドッグをかじる。もうなんの素振りもない。赤葦も何の気もなしに口の端を中指で拭いおにぎりを口に入れる。こうしていられるのも黒尾が先に卒業するまでだ。思考がどうしようもないかたちにまとまる前にふと見上げた空は底抜けに青い。手を伸ばしても何もつかめるような気がしないほどだ。とうの昔に、そばを離れないことは決めている。だったらいつまでもどうせ何も変わらない。
ポケットに手を突っ込みそっと鍵の束を弄ぶ。ほんの前に考えていたことは忘れる。防音ね、そんなことを思い浮かべて赤葦は気だるげに口を動かし、ひとつ、鍵を探り当てた。
fin.(2014.11.27)