沈黙は美徳
「マジですマジですって!」
それすげーらしいっすよ、とけたけたと笑う声に給湯室の壁によりかかっていた赤葦は、煙った部屋でのろりと視線を滑らせる。先輩を相手に愛想良い顔を作って背を縮め、指で挟んだタバコをちらと揺らしているのは赤葦よりひとつ年上の黒尾だ。職場では同じ島でも班でもないから仕事中話すことも稀で、こうして休憩時に狭い給湯室で肩を並べてることはあっても記憶に残るような話をした覚えはない。火を貸したことはある。話の合いの手くらいは打ったこともある。その程度の間柄だ。
聞き上手は話し上手、黒尾は何より人との距離の取りかたが上手かった。馴れ馴れしくも余所余所しくもない絶妙なさじ加減は給湯室の誰の心にも、この紫煙のようにすっと入り込んでわだかまることなく消えていく。軽くも重くもない会話はこの場所にぴったりだ。どうせここでは誰もが無責任に煙を散らばして、一本燃え尽きるころにはもう別のことを考えている。
もとより赤葦は口数の多いほうではないから、ここではタバコをくゆらせることに熱心なふりをしてだんまりを決め込むことが多いのだけれど、黒尾と言葉を交わさないのはどうもそういうところにあるのではないのだと思う。たとえば、あの笑いかた、だ。
ふ、と赤葦は小さく、顔の前に吐き出すように煙を吹きつけた。もうすでに何本ものタバコが消費された煙っぽい部屋に、白のそれがふわと広がった。名前を呼ばれて、はい?とゆっくり首を巡らせる。黒尾と話していた先輩が、お前どう思うよ、とこちらを振り向いた。どうって、と一瞬逡巡して赤葦は背後にいる黒尾をちらりと窺う。あいかわらずの顔だ。ただ、どうして皆気づかないものだろうかと思う。答えはいつもあの顔にへばりついている。分かるのは自分だけ、もしくは自分だけに分かるようにしているのか、それはこの部屋の濃度では量りかねる。
視線にすぐ気のついた黒尾は別段大げさな反応は見せなかった。肩をすぼめて、それから赤葦にしか分からないように、嗤う。ああ、こんなにも分かりやすい。煙たさにするように、赤葦はほんの少し目を細めてから、
「マジみたいっすね」
と笑みを含んだ声で言い、タバコをくわえ直した。
ええ、ほんとか!と先輩が大げさに声を上げるのをそ知らぬふりで聞き流し、黒尾が、だから言ったでしょう、と何もかも分かったような口ぶりで言うのを聞く。見られているな、と確認しなくても分かる視線を感じたが、赤葦は口元で灯るタバコを見つめてやり過ごす。
少しも経たないうちに、先輩が手早い手つきでタバコを灰皿に押し殺し、お先、と給湯室から出て行った。気づけば自分と黒尾だけになっている。ここでは少し口の悪い女性陣の姿ももうない。休憩が終わる前に化粧直しにでも行ったのだろう。あとは拡散するだけの紫煙が時のように横たわる。ああ、もう終わりだ。短くなったタバコを口から外すと、すっと前に灰皿が差し出された。タバコを扱うのが様になる長い指。手の主は一人しかいない。
「……どうも」
礼を言い、灰皿の底にタバコを押し付けながら赤葦は自分より背の高い黒尾を上目遣いに見た。
「いーえ?」
まるで見定めるような目つきで黒尾は赤葦を見つめ返して灰皿を置くと、自分のはまだ手元に残したまま、ふっと笑った。
「なあ、さっきの話」
わざとらしく、ああ、と赤葦は相槌を打つ。
「先輩と話してたやつですか」
「そう」
そこで、黒尾がまたあの顔をする。
「お前知ってたろ」
言って黒尾はタバコをくわえ、肺を満たすようにゆっくりと吸い込み、細く長く息を吐き出す。ああ、やっぱりそうだ、と赤葦はきれいに歪む口元を認めて思う。黒尾の吹き付けた新しいタバコの香りをすん、と嗅いで赤葦は小さく笑った。
「ええ、知ってますよ」
「じゃあなんでよ」
形だけ首を傾げてみせる黒尾に赤葦は楽しげに喉をひとつ鳴らして、ひょい、と黒尾のタバコを摘んで奪い取る。あ、と黒尾が目で追いかけたそれは気だるげに開けられた赤葦の唇へ柔らかに食まれた。いつもと違うタバコの匂いが赤葦の喉にほんの少し重く絡みつく。浅くそれを味わって、赤葦は、は、と煙を吐き出した。見ればやっぱり黒尾は笑っていた。できるだけそれをそっくり映すように、赤葦も口の端を上げてみせる。
「なんでって、俺もあんたも似たもん同士だからでしょ」
そう言うと、くつくつと黒尾が静かに笑い出した。お前、やっぱ思ったとおりだわ、と呟いてまだ黒尾は笑い続ける。それに赤葦は返事をしなかった。代わりに、またタバコをくわえて喉をほんのりと喉を焼くそれを吸い込み、吐き出そうとしたそのとき、何かがふっとこみ上げて赤葦も煙たい声を微かにぼす。あまり声のない笑いがふたつ、紫煙に揺らぐ給湯室に霞む。やはり饒舌は自分たちのあいだには必要ないらしい。拝借したタバコを顔の前に差し出すと黒尾はぱくりとそれをくわえて、くくく、と声を殺した。
言葉交わさない理由はこんなにも単純だ。自分たちのような者にはきっとひそかなルールがある。おしゃべりにはほんのひとさじの嘘を。他愛もない嘘には悪意のない嘘を。そして正解には笑みという名の沈黙を。
だから赤葦は煙る部屋に寄りかかり、黙してイエスと黒尾に笑った。



fin.(2014.10.29)
息抜きにと深夜に書き始めてしまって終わらなくて、でも書くのをやめるのもできなくて延々と……(それもう息抜きじゃない)
“給湯室の喫煙組で、「それ、ガセですよ」って言うタバコ葦くん”の話を聞いてですね、ずーっとそれが頭から離れなくていいなあと思っていたら、タバコ葦くんの絵まで見せてもらってですね、しかも“喫煙組には黒尾もいる”って言ってもらって、ガセだと知ってて笑って煽る黒尾が思いついてしまって、ぶわーっとなった結果がこれでした。
ところでこれってクロ赤なんでしょうかね、どうかな。このあと急接近するんじゃないかなってことにしてください。(笑)
This fanfiction is written by chiaki.