出会ったのは夏だったから、となぜか言い訳するようなあなたの呟きに、俺はすぐには面を上げなかった。足元を浸す、いたずらに光のこぼれる春の面影。
何も忘れずに何も覚えようとせずに、ただ春だけを知る桜の節くれだった枝、ぷくりと満ちて膨れ上がったつぼみ、そして、寄せて集まる薄紅色の花々の群れ。見上げれば、空の姿はなかった。敷きつめられた春色の天蓋に、ともすればひとつひとつの花のかたちさえ崩れて見失いそうで、俺はあなたの名前を引き止めるように一度、声にした。
なあに、と襟足をさらった指先が頬をかすめて、大きな手のひらが俺の目をそっと塞ぐ。春の夜のような温い平熱。そこに、真夜中の冷えたからだをさするような微熱は潜んでいないけれども、昔から、俺は隠れているものが苦手だった。
「……鬼はいやです」
少しだけ笑って、俺は頼りない目隠しを剥がして掴む。返せと言われないから、そのままにして。
去年よりもきれいだね、と笑うのを俺はどうしたって見過ごせずに、そうですか、と子どもっぽく嘯くしかない。嘘を嫌うほど潔癖じゃない。嘘を好むほど、欺きたいものがあるわけじゃない。嘘をつく以前に、表情の豊かでない顔が淡白や平静を装う仕事を勝手にこなすけれども、あなただけは、お前は素直だと真実のように見破って、だから俺はあなたの前ではほんとうでいるんだろう。
手を伸ばしたら、意外にも近くだった。花びらの縁に触れそうになって、あと少し、と無邪気な声が横で微笑む。
あしたの心配をするのに聞こえない振りして、そよぐ風にはらり、はらりと、散りゆく先を羨み慕い、願う。あんたのいなかった春のことなんか知らないと、本当のことを言えずにいる俺にあなたは気づいてるんだろうか。
春をまつろう花陰の、裏にあるもの。
瞬きして、かき分けて、指焦がれて。誰もが気づかぬふりをする、一滴の真紅が潜むその裏を、暴きたくて。
fin.(2015.4.5)