ただし、テストはさせてもらう。そう言って外へ赤葦を誘った黒尾は、銀杏並木の脇にあるベンチを見つけて腰を落ち着けると肩甲骨をぐるりと回し息を整えて頭を切り替える。学生とはいえ、“設計士”として自分たちと仕事をするなら報酬を払うことになる。ならばの報酬に見合った仕事が出来るかどうか、そこを見極めなければならない。ちら、と自分の横に倣った赤葦を窺った。教授はセンスがあると言った。独創性、柔軟性、応用力、あればいいものなんてたくさん思い当たるが、何より必要なのはまずひとつだと黒尾は思う。まあ、それは後だと、黒尾はひとまず考えを押しやって、赤葦が肩から下げていたトートバッグを指差す。
「何か紙とペン、ある?」
「え、はい」
手渡されたメモ帳を数枚めくって、ボールペンと一緒につき返す。目を瞬き、訝しげな表情で自分と手元を交互に見る赤葦に黒尾は左手の腕時計に目をやり素っ気なく言い渡した。
「10秒じゃ解けない迷路、書いて。時間は同じく10秒」
「迷路、ですか」
「そう」
数秒、赤葦は黒尾の顔をじっと見返したがそこに課題以上のものもヒントも何もないのだということが分かると、納得のいかないふうに唇を少し歪めながらもメモ帳とペンを受け取って線を描き始めた。腕時計の秒針を気にしつつ、黒尾は赤葦の手元を見つめる。細く長い爪をした指に握られたペンが、四角形を素早く紙に書きつける。その横顔が口を開いた。
「ずっと、この仕事してるんですか」
「ああ。大学入った頃からバイト感覚ではじめてそのまま」
秋というには少し深すぎて冬というにはまだ明るい日の午後に、そよぐ程度の風が足元を吹き抜けて枯れ落ちた黄色の葉を散らばした。木立の長く薄い影が自分たちにではなく後ろの方へ伸びている。
「はい終わり」
にっと笑って、黒尾は手を差し出す。消化不良な難しい顔とともに寄越した赤葦を薄い眉を片方上げて確かめてから、メモに目を落とす。四角い箱の中にジグザグ模様に伸びた縦線。迷路と聞いて誰もが思い描きそうな単純な型だ。アスレチックにある巨大迷路。不思議の国の植木の庭。あれに似ているな、と黒尾は一応ペン先でその迷路の道筋を辿りながら思い出をひとつ探り当てる。小学生の頃の話だ。菓子の空き箱を使って、ビー玉を転がしてゴールまで運ぶ迷路を作ったことがある。二重底にして通路に何箇所か落とし穴を開けた。だから箱の傾けかたには注意しないといけなかった。心臓のあたりを穏やかに逆撫でる音を引きずらせてビー玉は滑る。一瞬判断を誤ると、落ちて、どぼん。
「もう一回」
辿る必要もなかったのは赤葦も分かっていたのか、黙ってまたメモとペンを受け取った。視線を落とし、一瞬唇に指を押し当てて逡巡しペンを走らせる。
黒尾は膝の上に手を預け、腕時計に目を注ぐ。時計はこの仕事を始めて少し経ったころに買ったものだ。時間を把握することはこの仕事でとても重要なことで、それまで腕時計をすることが習慣的でなかった黒尾はまず時間を見るより時計の形や感触をよく気にしていたものだった。くすんだ淡いゴールドの文字盤の上で、無重力を泳ぐようになめらかに進む秒針が音を刻むことはない。
「……仕事のことがあって、俺の前からいなくなったんですか」
ぽつり、横で声がした。そうじゃないとはどちらにしろ言えなかったから、それには答えなかった。
「随分余裕だな。あと3秒」
あっという間に秒針が黒尾の目の留めたところに滑り込む。手のひらを差し出した黒尾に赤葦は、ぱしん、と刺々しい態度で応えた。二つめの迷路もさして先ほどのものと構造は代わり映えしない。
「次」
頬杖をつき、斜めに見やって口の片端を上げ、メモを差し出す。赤葦の目つきがすっと変わる。喧嘩を売るような激しさで黒尾を捉えて凝視すると、メモとペンをひったくるように掻っ攫う。負けず嫌いなのも相変わらずだ。黒尾はこっそり首をすくめた。
集中力に研ぎ澄まされ眼差しが一点に落とされたペン先に注がれる。ほどなく、赤葦が迷いを捨てて、握ったペンが紙に微かなへこみを作りインクが滑り出す。大きく、円を描く。それはぐるぐると重ならず中心を目指して渦巻いていく。幼い頃捕まえたカタツムリの殻、コーヒーとミルクの混ざり合う様、図鑑の表紙を彩る銀河の渦。対数螺旋の整いがあるわけではないのに黒尾はぼんやりとそんなものを思い描く。中心まで丁寧に描き上げた赤葦は一端ペン先を持ち上げて線を切ると、少しずらした中心からまた線を重ねずに今度は逆回りに外へ渦を描いていく。へえ、と黒尾は眉を持ち上げて口の中で呟いた。右巻きと左巻きの渦が噛み合った通路の狭く外から内に、また内から外へ向かう構造としてはシンプルな、それでいて道のりだけはかかる迷路が出来上がる。
合図を待たずに、赤葦が顔を上げ仏頂面で黒尾へメモを粗雑に押し付ける。時間を計ることなどもうすっかり忘れていたのだけれど、その必要もなぞってみせる必要もない。黒尾はじっとそれを眺めた後で赤葦へ、はい、と手渡した。
「じゃあ行くか」
立ち上がって笑いかけ、歩き出す。
fin.(2014.11.22)