一瞬だけ、赤葦は呼吸とは無縁の生物になる。だから音もないし時間も止まる。
取り囲む世界のきっとすべてが青だ。限りなく透明に近い青といずこから生まれた小さな泡に今、眠りに落ちるように赤葦は包まれている。
海の中にも波はある。だから音はあるし時間だってあっちに向かって揺らいでいる。けれど、飛び込んで身体が水の中に吸い込まれて沈みきったその一瞬の留まるとき、肢体が海と同化したように自由になって、動かしたくない自由に呼吸のことを忘れてしまう。忘れる、はおかしいかもしれない。地上にいるとき自分は呼吸をしていると知ってる人はとても少ない。だから、思い出して覚えてないふりをするのが正しくて、浮遊感に身体を支配される本当に短いあいだ、音のことも時間のこともそんなふうに考える。
形のないものにすべてを包み込まれるのはとても気分がいい。目を開けてもいいのだけれど、夢から覚めるような気がしてそのときだけは目を閉じたままでいる。どうせ水圧に押された肺が重くなってくるのはすぐのことで、動かせる自由を手足に与えて上を目指さなければいけなくなるのだから。
「……、っは」
水中から浮上して赤葦は大きく息を吸い込んだ。途端にすべてが動き出して、音と時間の洪水の中にほっぽりだされた。潮流にうねる波がそこここで砕けて、赤葦の身体を攫い耳元を打つ。見上げれば天頂近い太陽の眩しさに目がくらんで、くらりと上下が反転して雲のない空の青に溺れたような気分になる。不安定に揺れる中で手で庇を作ってみると、自分が先ほど飛び込んだ防波堤の縁に逆光の人影があった。
「あっぶねーぞ!」
言うと同時に、ぽーんと重力を忘れてきたような軽やかさで飛ぶのを見る。まるで大きな黒い鳥だ。赤葦は深呼吸ひとつして肩をすくませ再び水中へ潜り込んだ。
水しぶきを避けてやってきた真っ青な澄んだ海の中にほとんど間をおかず、ぶわん、と赤葦の視界と耳を揺さぶって、まるでおとぎ話の人魚姫のように泡をまとった黒尾がしりもちをつくように滑り込み、舞った。小さな白い気泡が房なりのようになって無邪気さを振りまいて水上を目指してゆく。
ぎゅっと閉じていたまぶたが持ち上がって赤葦に気づく。目の端からちらちらと小さな泡が上っていく。赤葦は、もどかしげに瞬きした。どうしてもたゆたう水の中ではゆっくりになって、時間さえそうなんだと錯覚する。肢体が思ったとおりに動かせないのもそのせいで、だから浦島太郎も竜宮城でのんびりしてしまったのかもしれない。
黒尾が九十度に曲げた身体をゆったりと立て直して、平泳ぎの要領で水をかき近づいてくる。黒髪が流れに揺らめき、髪の毛一本一本の形を見失ってまるで背びれをくねらせる風変わりな魚のようにみえた。潜水などするつもりのなかった赤葦の息をはもうそろそろという頃だったのに、ひとかきふたかきやってきた黒尾の手がすい、と伸びて赤葦の肩を掴んだ。えっ、ともらした声は形にならず泡に消える。太陽の光の降り注ぐくもりない海の中で見る黒尾の顔はいつもより透明で、吸い込まれるように目が離せないのに、波に梳かれる髪の毛にその目元はやっぱり見えなかった。
地上でさえ思い通りにならない身体が海中だと何故か少し諦めがつくようになる。浮遊に任せてたいした力もないまま引き寄せられて、胸の重なる距離で海の味しかしないキスをする。薄く開けていた唇が捕まって、口移しで送り込まれたひとかけの空気が赤葦のからだの中で唯一、海ではなくて黒尾のものだった。
目を閉じていたのかそうでないのか、触れ合う粘膜の境目のようにそれも曖昧だ。唇を離した黒尾が赤葦の肩を下へ押し込み、その反動で一気に浮上していく際にいたずらに上げた口角を見たような気もするけれど、それは波間にゆらめく中での気のせいだったかもしれない。悪態ももう泡の形にすらならずに、赤葦は空っぽになりかけた肺を苦しく感じて沈みこんだ身体を引き戻すために両手で大きく水をかいた。
「ふ、っは、」
飛び上がるように海から顔を出した赤葦は肺いっぱいに空気を吸い込んで、大きく吐き出した。顔に滴り落ちる海水と髪を拭う仕草で追い払って目を開けると、立ち泳ぎでこちらを見る黒尾の姿があった。いつもの髪型はどこへやら、濡れた髪がぺたりと張りついていて、それは見るたびにどうにもしっくりこなくて赤葦はぐしゃぐしゃっと頭をかき回してやりたくなるのだが今は悔しいことに手が届かない。
黒尾は赤葦の姿を確認すると今度こそ小さく笑ってぐるりと背を向け、磯の方へ泳ぎ始めた。クロールのような平泳ぎのような自己流の変な泳ぎかただ。
ちらりと振り向いて黒尾が何か言った。けれど波の音にかき消されて赤葦には何も届かなかった。届かないから意味がない、とは言わない。それが赤葦の欲しい形をしていなくでも黒尾が何も疑わずにその気持ちを寄越すのはほんとで、きっと、早く来いよ、とか実際はそんなものなんだろうけれど、やっぱり意味はないけど届いただけということかもしれない。あのキスも海の泡に消えて全部ないけれど、そういうことかもしれないという落としどころで、赤葦は自分を半分納得させる。
ちゃぷ、と顎まで海につかって唇をそっと舐めた。少し苦い潮の味が舌に残る。黒尾を追って泳ぎだすその前に、放って置かれた赤葦の半分が考えるよりすばやくその手で波を払って、黒尾の後姿に水しぶきをお見舞いした。
黒尾の待ち望んでいた泳げる季節が来てもう一ヶ月が経つ。8月までいるらしいと言われていた梅雨は期待されることに飽きたのか気づけばいなくなっていた。低く垂れ込めて頭上を塞いでいた曇り空のことをもう誰も覚えていない。
びた、と海水とともに落ちた足跡が黒い岩場になじんで湿る。身体から滴り落ちていく海水が面倒臭げに重力の存在を赤葦に教えて、気だるさに足取りも緩慢になった。少し前を歩く黒尾の這いずった跡を辿るように、赤葦も足場の悪い磯に滑らないように足を踏ん張って歩く。波に細かく砕かれた岩場のごつごつした感触が足裏に当たって時折顔をしかめた。
黒尾の背中は夏休みに入る前はまだ二の腕のあたりから境目がぼんやりと分かるくらい白っぽかったのに、今では海遊びのおかげでいい具合に日焼けしている。濡れた背中をじりじりと太陽が刺す。赤葦は黒尾に比べてまだ色の薄いほうだ。日焼けするとときどき肌が赤くなるからかもしれない。さっきまで心地よい水温に濡れていた背中が瞬く間に温くなっていく。
舗道と磯の境目には膝ほどの高さの塀がある。そこへ先に腰を下ろしていた黒尾の隣に赤葦も倣う。びちゃ、と尻の下で心許ない音がして海水の染みができ、太陽に灼かれたコンクリートの熱がそこそこ中和されて湯たんぽ程度にはなる。
「あっちー」
言葉とは裏腹に、黒尾の顔は楽しそうだ。赤葦は両手で撫でつけるように髪にまとわりついた水を払ってぐしゃぐしゃとかきまぜた。海水を含んで乾き始めていく髪は少し軋んでいる。
浅瀬のあたりでは小学生が6人ほど遊んでいた。島で海遊びをするといったらたいていこの場所だ。父親が一人付き添って、泳ぐ男の子の手を引っ張ってやっている。ばしゃばしゃと水面を叩くたびにまき上がる水しぶきに周りの子どもがやたらめったらにはしゃいで、波間に元気な笑い声が響いた。
今日の海は穏やかだ。沖の波も砕けることなく静かで、眩しい夏の光を受けてきらきらと水面が揺らめいている。遠い水平線が縁をなくして、海と空がグラデーションのように交じり合う。何もかもが青く、夏の色に光っている。これがこの小さな島の変わらない夏の風景だ。
赤葦は視線を黒尾の方に戻し、顔をぼんやり見やって頭に手を伸ばした。
「うわ、なんだよ赤葦」
「べつに」
頬に跳ねた水滴に目を瞬きながら、少々雑に黒尾の髪をかき回す。声音も手も止めようとはしないからなんとなく気の済むまでいじって、それから手を櫛のように使って髪を整えてやる。こめかみのあたりに手を差し込み、左右からかき上げて最後は指をひっかけて前髪を作った。いつのまにか膝に手を置き目を瞑って大人しくされるがままになっていた黒尾が、まどろみから覚めるようにゆっくりと目を開けた。
「……おわり?」
「さっきのだと見てるこっちが落ち着かないんで」
「なんだそれ」
くつくつと笑って黒尾が俯きがちにやさしく頭を振る。
「黒尾さん」
「ん」
「宿題やってます?」
「おっそうきたか。お前は俺のなんだ。かーさんか」
「違います。どうです」
「化学と現代文の感想文2つ」
あと数学の問題集かな、と黒尾が3本指を折る。ふうん、と赤葦は海の方へ視線を投げかけた。子どもたちが手ですくって撒き散らす海水の粒が氷のかけらのように煌いて砕ける。
「黒尾さん感想文は昔から得意じゃないスか」
「やーどうかな」
「だって嘘八百並べるの上手でしょ」
「言うね」
ちら、と首をめぐらせ黒尾に笑いかけてやる。黒尾はやんわりとそれを受け流すような目の細めかたをした。
「誠実よ俺」
「でしょうね」
言いながら立ち上がる。強い日差しに濡れていたはずの身体が少しずつ乾き始めて首のあたりがべたつきで動かしにくい。今はもう海に浸かるより冷たい水を浴びたかった。腹減りましたね、と座っていた塀をまたいで歩道へ出る。どれくらい泳いでたっけ、と黒尾の声が自分より高いところからした。きっと塀の上を伝い歩きしているのだろう。
「さあ……1時間くらいじゃないスか」
「そんなもんか」
正確なところは知る術もない。でも互いにどんなことでも1時間と言っておけばいいと思っている節は常々あって、何か切り上げるときの常套句となっているようなところがある。それで一度も文句が出ないのだから赤葦も黒尾も大概いい加減だ。
赤葦が塀に寄せて置いておいたビーチサンダルを履き、そばにあったもう1足を拾い上げる。磯は町よりも少し離れたところにある。舗道の脇は10メートルはある断崖絶壁が続いている。その垂直に削られた無骨で粗野な崖を左手に、カーブのかかった道を気だるさを引き連れて歩き出す。遠く前方に、沿岸部の町並みと港が見えた。毎回帰りは行きの倍ほど時間がかかっているような気がするのは、延々とこの崖が見え続ける代わり映えのしない景色に疲れが増すからかもしれない。
「そういうお前は宿題どうなの?」
俺より多かったじゃん、と頭上からふらふら揺れる声がする。赤葦は持っていたビーチサンダルの片方を道へ落とす目印のように塀の上へ置いた。黒尾の右足がサンダルに差し入れられるのを目の端っこでとらえる。もう片方もその少し先へ置いてやる。
今年受験生である黒尾の宿題はたしかに去年より少なかった。宿題よりも受験勉強に時間を割けということなのだろう。そのあたり黒尾は心配ない。宿題はぎりぎりでものらりくらりと勉強机には向かっているのが黒尾だ。
「俺はあと感想文1つです」
「はっや」
目の粗いコンクリートをひっかくビーチサンダルの足音が赤葦を追いかけ始める。赤葦は乾き始めた裸の上半身と比べて重く感じる水着の裾をぎゅっと掴んで水を絞った。ぽたぽたと水滴が熱を持った地面に落ちて、道筋のように黒い線を赤葦の後ろへ作っていく。
「感想文苦手なんですよ」
「そーなの?」
「単純に、おもしろかったの一言じゃどうしてだめなんですかね」
「ははは」
そういうとこお前らしいね、と言って黒尾が笑う。本当に、赤葦は感想文の類があまり得意ではない。どうにか提出できる形にはするけれどもいつもこれだけは後回しにしてしまっている気がする。もちろん本を読めば感想を抱きはするし、あのシーンが良かったとかこの文章が良かったなど思いもするけれど、じゃあどうしてそこが良いと思ったのか感想文に落とし込むために思考を巡らせると結局好きだという気持ちすべてが落ち着いてしまう。だから赤葦にとって好きな本の感想はいつもたったひとつだ。
好きってだけじゃだめなのだろうか。そう赤葦は真面目に考える。なんとなく肩越しに後ろを見やると、黒尾は沖の方をぼんやり眺めていた。日焼けした胸が乾いてうっすらと日差しに光っている。人とすれ違う気配は一向にない。当たり前だ。ここを歩くのはさっきの磯へやってくる島の人間くらいなもので、さらに奥の方もずうっと同じような道が続いて何があるわけでもないから車で行くのが普通だ。その車の行き交いもあまりある方ではない。擦って歩くような足音が二つと、穏やかな海の波の音だけが退屈な風景に少しは夏の趣を添える。
見上げた横顔に赤葦は話しかける。
「黒尾さん今日の昼飯は」
「俺んち? えーどうかなあっかな」
「だって今日いないでしょ。祭りの準備で婦人会あるから」
「あ、そうか。えっじゃあなんも家にないかもしんない……」
「それは残念」
小さく笑って、ようやく近づいてきた町並みを目に映す。左手に続く土肌の剥き出しの崖も少しずつ低くなって、町の手前に差し掛かるころには野原の斜面に変わる。知らぬ間に額から流れ落ちていた海水のまじった汗を赤葦は雑に払った。肌に直接あたる日差しがもう少しばかり痛いほどだ。太陽にいちばん近い頭のてっぺんが熱を吸収して熱い。
今週末はお盆だ。島へ里帰りする人も居るしスキューバダイビング目当ての観光客の姿も多少は増えてくるだろう。けれど大きな観光ホテルもキャンプ場もなく、宿泊できる場所も部屋も限られているから人で溢れかえるということはまずない。
「お前んちは用意してあんだろ。おばさんのことだし」
「まあ、こういうときは大量に作り置きしたカレーが冷蔵庫に入ってます」
夜もカレーです、と付け足すけれど別に文句があるわけではない。黒尾が昼飯を具体的に想像してみたのか空腹を訴えて情けない声を出す。言われて、赤葦も途端に空腹を覚えた。胃のあたりが内側へぐうっと押されたように収縮する。腹減ったな、とどちらからともなく呟いた。
塀の右側に続いていた磯も気づけば海の中に姿を消している。海と崖に挟まれた道の終わりの目印かのように、町へ入るあたりの舗道には横一線継ぎ目のような跡があった。それは黒尾が歩いている低い塀の終着点でもあって、その先はいつも目にしている自分たちの背丈よりかは低い堤防が続いている。塀から飛び乗るのは無理だけれど、よじ登ることは出来る。でもきっとそうはしない。万が一誰かに見られでもしたら開口一番怒られるに決まっている。
足音が止んだのに気づいて、赤葦も足をとめ黒尾の方に向き直る。黒尾がこちらを見下ろして薄っすらと笑っている。
「降りないんですか。手貸しますけど」
本当はそんな気もなかったが一応言ってしまった手前手を差し出した。手のひらについた乾いた砂に気づいて指でもみ消すように払い落とす。その手に、黒尾が自分の腕を器用にひねって左手を重ねて指を絡ませた。そのまま体重をかけられて赤葦は顔をしかめる。よろめかないために、力が入るように手首を回して支え真上から楽しそうに覗き込む顔を睨む。肩を押し上げようとした左手も同じように捕まって、赤葦はこれ見よがしにため息をついた。
「こんなところで啄ばむのはなしです」
「啄ばむ?」
「そっちが言ったんでしょ。鳥に啄ばまれてるって思えばいいって」
「ああ」
黒い鳥が何かを思い出したように目元をやさしく緩ませる。あれはまだ梅雨の明けていない雨の日だった。また面倒な秘密が増えたなと赤葦は思ったものだ。ぐぐっと、上半身を使ってかけてくる体重を赤葦は手のひらで押し返す。後ろは海だ。けれど突き落としてしまいたいと思うほど自分は薄情でもない。
「落としますよ」
言う方も受け止める方もその言葉の重みを考えない。そういう呼吸だけは示し合わさずとも昔から不思議によく分かる。うん、と黒尾は頷いて案外素直に身体を引いた。徐々に軽くなっていく手のひらの力を緩めると、そっと黒尾の手が離れていった。名残惜しいと思うそんな暇はなかった。赤葦、といつもの顔で呼ばれて眼前にぬっと大きな手が伸びてきたのは声も出ないあっという間だ。
手のひらでひとつずつ目を塞がれて、赤葦は思わずぎゅっと目を瞑る。暑さで張った肌がじわりと目元に押し付けられてまぶたが熱を持つ。思わず黒尾の手首を掴んだ赤葦に黒尾はなだめるように呟いた。それは息の詰まるほどに近い距離だ。
「誰もいないよ」
赤葦はその意味するところの全部に気づいて、もともと強く掴んだ訳ではなかった手の力加減を見誤る。ああ、とか、はあ、とかあまりきちんとした形にならなかった相槌はきっと吐息のように黒尾の唇に触れただろう。躊躇うとは違う。そんなしおらしさは男の自分にはないから、結局妥協するように許しているのがいちばん近い。
抜け目ない黒尾の一瞬の沈黙がある。誰もいないか辺りに目を走らせているんだろうなと考えるころには、少しかさついた唇がたいして変わらない自分のに重ねられていた。下唇を柔らかく食まれて、結ばれていた唇がほどかれる。まぶたを覆っていた手のひらが滑って今度は赤葦の頭を抱えるように耳を塞いだ。髪に差し込まれた指先が、ぱさついた髪の毛にもどかしげに絡む。目を閉じたままなんて約束はないのに開ける気にはあまりならない。たぶん互いに見破られたくないものがあるから、人は目を瞑ってキスをする。
塞がれた耳では何も聞こえない、は嘘で、舌先が触れて合わさるぬらりとした水音と息とともに唾液を飲み下す音が生々しく頭に響いた。そして、手のひらから伝わる地鳴りのような音がごうごうと静かに赤葦の感覚を支配する。筋肉の収縮する音だと、いったいどこで知ったのだろう。赤葦の髪を焦らすようにゆるく爪を立てる。どれもこれも、黒尾のものだ。遮られた赤葦を支配する、黒尾のもの。
遠くで、海が啼いていた。こすれた鼻先がするりと逃げて生暖かな吐息も潮風に消えて、黒尾の唇ももうない。波の音が、骨を伝って耳へ直に響き続ける唸るような音に重なって形なく赤葦の世界を塞ぎ続ける。まるで崩れた心臓の音のようだ。何も聞こえない、そう赤葦が感じるのもやはり一方では間違っていない。
「……鳥は、舌なんか入れないと思いますけどね」
ぼんやりと形を保った自分の声が喉の奥で低く響いて普段は聞こえない声の端の掠れさえ拾う。どちらのとも分からない唾液に濡れた唇からまた海の味がよみがえった。ひたすら億劫にまぶたを持ち上げる。ほんの少し目をつぶっていただけなのに、なんだかとても世界が眩しかった。日差しに促されるようにこめかみから流れてきた汗を瞬きすることで、目尻へ追いやった。
「赤葦」
耳の塞がれた向こうから届く黒尾の声はこんなに近くにいるのに少しくぐもって遠い。それでもその声音の持つ子どもっぽさを赤葦は見逃さずに拾う。いつもの顔で黒尾が赤葦を見る。いつもの、と考えて赤葦は一瞬逡巡する。引っかかるといつも分かることをふと見失うのはよくあることでどうせそのうち戻るからいいのだけれど、太陽の傍で微笑む、細い眉に小さな黒目を宿した小憎たらしい顔に視線をぶつけた。もう捕まえておく気もなかったらしい黒尾の手を素っ気なく耳からはがす。
世界がいつもどおりの音を取り戻して、赤葦に何もなくて何かはあることを放り投げていく。熱い手のひらに包まれていた耳たぶが蒸されて少し汗をかき、温い海風に晒されてほんの少しだけ冷える。何もかもが新しく感じるのはほんの数秒のことで、世界はやっぱり変わらなかった。
本当はもう確信も何もかもあやふやだったのだけれど、予想が当たっても外れてもあまりたいした差はない。赤葦は黒尾が二の句を告げる前に、いいですよ、と投げ出すような返事をした。
***
曇りガラスが何枚か並ぶその先を曲がって、静かで薄暗い廊下から見えるものを想像する。校舎の少し古びた木の匂いと柔らかい上履きの靴底でも少し軋むその足音。少々建てつけの悪い引き戸に気を遣って、中に見るのは四角く切り取られた明るい外の景色だ。開け放たれた窓の切れ目で束ねられていない白っぽいカーテンが幾枚かふわりとそよぐ。一瞬、外と内の明度の差に目の奥がきゅっと締め付けられるけれどもすぐに慣れる。電気のついていない教室はけして明るくはないけれど教科書を開く分には問題がないほどで、日差しが差し込むことはない窓の、夏の太陽に照らされた眩しい外の世界が適度な明かり取りになっているというふうだ。
幾重にも重なり合う蝉の鳴き声が窓の外から染み入るように響き渡る。島の中心部に近く山に程近い学校は絶え間ない波の音ではなく夏を謳歌する虫の声に取り囲まれている。世界にこの音しかないのじゃないかと思うくらいに。
二つ並んだ窓際の机に黒尾は座っていたはずだ。
「んっ」
「……っあ、かあし」
もちろん唇を合わせてきたのは黒尾の方で自分は一片もねだるような真似はしていないのだけれど、どうだろうか。そんなことが気になって、赤葦はやさしく唇をなぶる黒尾と濡れた音に身を任せてまぶたの向こうで考えごとをする。
今日は英語教師が学校へやって来る日だ。夏休みに数日、普通の登校日とはまた違って教師が勉強の進捗具合を見る日がある。補習授業というわけではない。なんだかんだといろいろ仕事がある教師に職員室で宿題や勉強の進み具合の報告を大雑把にして、教師のいるあいだ質問があれば自由にいつでもしていい、というぐらいの枠組みしか決まっていない日だ。受験生の黒尾は今年その数日は登校必須になっている。島には予備校も進学塾もないから学校がわざわざ行っていることだ。赤葦は登校する必要がないのだが何か予定があるわけでもなし、黒尾に付き合うという意識もないが今まですべての登校日に顔を出している。
自分より先に着いて、真面目に参考書とノートを開いていた黒尾の姿を目に映して赤葦は小さく息をこぼした。夏休みとはいえ登校するのだから制服姿が普通なのに黒尾は上だけ普段着の赤いTシャツを着ている。どこにあるか分からなくなったんだろうな、と名誉毀損な理由を赤葦は貼り付ける。
ふとノートから顔を上げてちらちらとシャーペンを揺らしながらこちらを見る黒尾と後ろ手に引き戸閉めながら目が合った。
「昨日はごちそーさん。カレーうまかった」
「どうも」
予想は当たったのだ。やはり当たっても外れてもどちらでも問題なかった。外れた場合はどんなことを想定していたのか赤葦はもう忘れている。最近かーさんのカレーひでえんだよ、と黒尾は続けて眉をひそめてぼやいた。
「新しい味を追求するとか言ってさ、カレーに斬新さなんていらねえっつうの」
「はあ。それはそれは」
おばさんらしいなと思ったが声にはしなかった。ひとつしか空いていない机に座って、英語の問題集とノートを取り出して鞄を脇にかける。もうすでに黒尾は職員室にいる英語教師に報告を終えたらしい。赤葦も教室へ来る前に顔を出して挨拶はしてきた。特に今のところ質問もないのだけれど、勉強していればそのうち出てくるかもしれない。そこで赤葦は口元を緩めた。分からないことが出てくるのを期待するように思うのは変な心持だ。解けない問題はないほうがいい。でも尋ねることが出来るのにもったいない、そう思うは貧乏性なのかもしれないし、やはり単純にこの隣の机で勉強する言い訳の一端にできるからかもしれない、と妙に婉曲したことを考える。窓からは無駄に広い校庭の地面が白っぽく光って、取り囲むフェンスの遠く向こうに蜃気楼のように滲んでゆらめく青い海が見えた。蝉の鳴き声がふっと赤葦の意識から遠ざかる。景色に重なって、すでに自習を再開させていた黒尾の大人しい横顔をほんの少しのあいだ眺めた。
それがねだった真似になるかと思い当たってすぐにかき消す。黒尾はあの視線に気づいていなかった。そのあと真面目にお互い自習を続けた後が、今なのだから。
「な、今別のこと考えてるだろ」
「は……っ、アンタのこと以外何も」
柔らかく濡れる感触を楽しむように、赤葦の唇を自分ので挟み焦らすように味わっていた黒尾が、ちゅ、と小さく水音させて中断させた。顔は鼻先が触れるほどに近くて、焦点を合わせづらいから赤葦は面倒で目を伏せがちにする。整えた息の後で言ったのに偽りはない。赤葦の世界のすべてが黒尾なのだと自惚れることも傲慢になることもないけれど、この狭い小さな世界で、一片も黒尾のいないものを考えるのは今の赤葦にはひどく難しい。自分たちはいつも2人だったとそんな倒錯めいたことは思わない。しかしそのままの意味でいつも2人しかいなかったのは本当だ。
数枚、問題集をめくって解いて先になんとなく席を立った赤葦の方だった。長期の休みのあいだは節電を促されていてエアコンをつけることができない。けれど自宅と違って、なぜか木造の校舎の中はほどよく涼しくて、じっとしていればエアコンなしでも過ごすことはできる。明かりはつけても良いのにだいたいこのままなのは特に理由が見当たらない。
赤葦は机に向かい続ける黒尾の後ろを迂回し、教室の窓の傍へ寄ると縁に手をかけ大きく深呼吸した。湿る程度の額の汗を指先で拭って、教室の窓から廊下の窓へ抜けていくそよ風に身体を預ける。さっきまで自然と意識の外に追いやっていた蝉の合唱が風とともに赤葦の耳に舞い戻る。うるさいと思うことはない。意識の外にあっても内にあっても在ることは変わらなくて、たとえばわんわんと取り囲む蝉の鳴き声しか聞こえないほどに世界は静まっているともいえるし、鳴り止まないその鳴き声がいつしか当たり前になりすぎて認識ができなくなるのもどちらも真実で、とても不思議な感覚だ。在るのに無い。そんなものばっかりだと、赤葦は別段深く考えたわけでもなく校庭の砂の眩しさに目を細めた。
「どれくらい経った?」
と尋ねたのは黒尾だ。赤葦は窓の外を眺めたまま、1時間くらいじゃないですか、と答えた。もし振り返れば教室の黒板の上にかけてある時計が見えたはずで、9時頃に来たのを把握していたからだいたい正確な時間を教えることができたし、本当はもう少しばかり経っていたのも知ってもいたのだけれど、こういうときはこれで済ませる。そもそも自分に尋ねるのが間違っている。自分で見ればいいのにと意地悪く思いはしないけれど、間違っていないと黒尾が思うのならそれはもう仕方のない話だ。
気のない返事が後ろでして、ふああ、と大きく伸びをする声がした。まもなくうつってしまった小さな欠伸を赤葦はかみ殺しながら、ほんのりと校舎の涼しさに感化された夏の風を頬に受けて目を閉じる。赤葦の跳ねた髪を揺らして、微かな風の音が耳元をそよいでいく。黒尾が立ち上がって椅子を引いた音も、のっぺりとした抑揚のない足音もすべて聞こえていた。するりと、首筋に伸びてきた黒尾手が赤葦の顎をすくって、やさしく自分の方を向くように促した。拒む理由なんてかんたんに見つかったけれどあまりに面白くないことで口に出すのが躊躇われる。爪先とかかとを軽く躍らせて窓に背を向けた。薄暗い教室で、日に焼けた黒尾の顔がほのかに沈んだ色をまとってみえる。涼しげな目元はほんの少し俯いて薄暗い影が差していた。顎から頬を沿ってなめらかに辿った手が髪に差し込まれて、赤葦が目を閉じきらないうちに唇を押し付けられた。切れ切れに呼ばれた自分の名前を頭の中で組み立てるのに一瞬の間が要った。
1時間とつい癖のように切り上げたのは自分だったな、と赤葦はようやくねだった真似らしきものに思い当たって微かに笑った。
さっき上の空をとがめた黒尾は気にすることをやめたのかまた赤葦の唇を求めて、絡ませた舌をわざと音をさせるように吸い上げた。そんなときに口元を歪ませたものだから黒尾が、なに、と息つく間に甘い声をねじこんだ。けれど返事を待たず赤葦が首を振りかけたのも見ずに、首の後ろへ手を回して深く、唇を合わせる。
「ん、は、ぁ、ンっ」
息を吸い込んで奥へ逃げかけた赤葦の舌を黒尾が追って絡めて、ぬるりと舐めとる。境界線の甘いものに触れるのはひどくもどかしく、そして気持ちがいい。赤葦の頭の端っこが痺れてとろけて、単純に酸素が足りないのだともこの息苦しさに喉を震わせる。知らないあいだに掴んでいたTシャツの裾を何の咎めにもならないけれど握り締めて引っ張った。
生温かい口の中を黒尾の舌がなめらかに味わって歯列をなぞる。くちゅ、と鳴る音に赤葦は零れ落ちそうに感じる唾液を飲み込むのといっしょに黒尾の舌を小さく吸う。黒尾がゆるく掴んでいた赤葦の二の腕を引き寄せて、足の間に自分の右足を割り込ませて身体をくっつける。制服の太ももがひたりと触れて、互いの舌をねだって濡らして甘く溶かしていた赤葦が気づいて笑う。今度は黒尾にも思い当たった節があったようで、赤葦の唇の端をよごした唾液を舐め取るように角度を変えて何回か口付けてから、額をこつりと合わせてきた。
「……いくらなんでもここではまずいんじゃないですか」
「それ、最初に言ってほしかったね」
考えはしたけれど言わなかったことを今さら言い訳しても仕方がない。びっ、と大きな音をさせて黒尾が窓に揺れていたカーテンを引いた。ふんわりと入ってくる風を孕んで膨らむカーテンがそっと赤葦の背を押し、髪に触れる。
赤葦の太腿を、黒尾は知ってていたずらに自分ので挟み擦り寄って弄ぶ。顔をしかめはしないが、目元をすっと諌めるように小さく細めた。湿った唇を黒尾がぺろりと舐めて楽しそうに口角を上げる。そのまま赤葦のベルトに手を伸ばしてかちゃかちゃと音を鳴らして外す。何もかも中途半端に解いて、下着越しに赤葦の中心を手のひらで撫で上げてから中に手を滑り込ませて直接触れてきた。勃ちあがりかけたものを緩く握られて赤葦は息をそっと吸い込み身体を硬くする。それにではなく、赤葦は下げた視線の先に眉をひそめる。
「ベルトも忘れたんですか」
脱がすのに楽でいいけれどと考えながら、Tシャツをめくった腹に触れ赤葦はパンツのボタンを片手で器用に外しファスナーを引き下げた。
「次の登校日はちゃんとしてきたほうがいいです、よ、……ッ」
「誰だっけ来週」
「え、若せんせ、」
その先は黒尾の喰らいつくようなキスとゆるゆると与えられる刺激の波にすべてが攫われる。重く甘く、痺れるように腰に押し寄せる何にもかえがたい気持ちよさに飲み込まれないように、赤葦は左手で黒尾の胸倉を掴むようにしがみつき、右手で黒尾のものをまさぐってやっと手の中に収めた。男同士なのだから教える必要もなくどう触ればよいかなんて分かっている。指を絡めて扱くように動かし、先の方を親指でいじって自分と同じような状態だった黒尾のものに触れる。徐々に互いを求める速度が上がって、熱を持ったぐちゅぐちゅと鳴る音だけが赤葦と黒尾の身体のあいだを支配するけれど、合わさった唇から漏れるものなのか、先走りの滲み始めたそれを快感追って求める手の中から漏れているものなのか、なんだかもう赤葦にはよく分からなかった。貪るように舌を絡ませ吸い、舐め合って糸を引くように零れて垂れた唾液が顎を伝っていたのももう忘れた。気持ちよくさせたいなんて気持ちはもう最初からあったようにも思えない。ただ自分が気持ちよくなりたくて、いささか雑に動かすその手の激しさとぎこちなさに心が押されて昂って、痛いほどに張り詰める。
「く、ろおさ、ッ、ん、ア」
「ハ……っふ、ぁ、かあし」
濡れた唇と舌に溺れてろくに呼吸も出来ない息苦しさに赤葦が先に黒尾から逃げた。逸らした頬にそのまま黒尾は唇を這わせて顎の骨の形を確かめるように食み、逃すまいと赤葦の後れ毛をじりじりと強く掴んで、露になった喉を甘く噛んだ。声にならない声が赤葦の唇の端から零れて吐息ですぐにかき消される。頭の奥がぼうっとして、目の奥が眩しいものを見た後のように白く拡散し始めている。互いの手の中のものがてらてらと濡れて堪え切れない熱と確かな硬さを教える。達するまであともう少しだと考えることなく絡めた指と手が昇りつめるためだけに動き続ける。
何度か、あかあし、と呼ばれたような気がした。はい、とか、ああ、とか、赤葦はそんなもので答えただろう。気持ちいいと黒尾が呟いたのには問いかけなのか感想なのか瞬時に判断できなくて、返事の代わりに近くにあった黒尾の耳朶に唇を歯を立てずにゆるく噛む。
「あっ、も、」
「っ、イく?」
「う、――っあ」
一際強く握りこまれて赤葦が先に果てる。ぐちゅりと手のひらに包まれて出したものが更に赤葦を汚して、ねとりとした感触に身をすくめた。熱を放出して頂にいた快感の波がもうゆるやかに散り始める。きゅうっと縮むような目の奥の感覚を覚えながら甘い気だるさに支配される身体を支えて、まだ達していなかった黒尾のものをぬるぬるとこすり上げた。ア、と小さな声をあげてほどなく黒尾も熱を吐き出す。
黒尾のこめかみに頭を小さく寄せるようにして、赤葦はようやく深く呼吸をした。大きく胸が上下して何か新しいものを吸い込むように肺が心地よく満たされる。その新鮮さと喉を下っていく涼しい空気を知覚した途端、赤葦を囲む世界のすべてが感覚を取り返した。いつのまにか熱を持っていた肌に首筋をそわりと流れる汗、カーテンの隙間から流れ込む風がなだめるような優しさをくれる。幾重にも響き渡る蝉の鳴き声はいまだにちゃんとそこにあった。ぐわんぐわんと赤葦の鼓膜を揺らして脳みその端でこだまする。静かなんてことはない。やっぱり世界は煩い。人の心はとても気まぐれだ。
「……まあ、うまくいったもんだな」
少し息の上がって億劫さのにじんだ黒尾の声に、罰の悪そうな欠片は微塵も混じっていなかった。それがとても黒尾らしくていちいち安堵する気持ちも覚えずに、だからこうして結局赤葦と黒尾は二人でいるのだろう。
はじめて他人のものに触ったにしては確かに上出来だ。ええ、と答えて、赤葦はくすくすと小さく声を転がした。何がおかしいのか赤葦にも分からない。けれど黒尾も少し擦れた喉で笑った。微かな息が赤葦の鎖骨の端に触れる。
「いやじゃないでしょ」
「きらいじゃないね」
また遠回りなやりとりをしているという自覚はたぶん互いにある。それすら赤葦は、そこで考えをとめて汚れていない方の手で黒尾の後頭部を捕まえた。手を引っ掛けて体重をぐっとかけるようにして頭を押さえ込み、つむじに口付けを落とす。海遊びで少し傷んだ髪をゆるく掴んで長い長いキスをまた落とす。
いたい折れる、と赤葦の下で黒尾が呻いた。それでもお構いなしに赤葦は自分より少し背の高い黒尾に小さく背伸びをして、逃さないよう頭に覆いかぶさる。肩をすくませ鼻腔いっぱいに胸に湧き上がったくすぐったさといっしょに深く息を吸い込む。黒尾のものだ、と髪に押し付けた唇が自然とほころぶ。静かに吐き出した熱い吐息に喉がたよりなく震えて、心臓が怖いくらいに甘く締め付けられる。
その想いの形を知って探って、今さら探すものではないことを知る。もうずっと前からその形は赤葦のなかにある。たとえばそれは、夜空の縁に落っこちていくとろけた夕日、海に一羽だけ飛ぶ海鳥の鳴き声、秋風に揺れるすすきの群れ、冬のしんとした乾いて冷える空気の降り積もる音、窓辺から手を差し伸べる春の宵風。やさしく、甘く心をひっかくそのかたち。赤葦は鼻先をかすめるものに喉のひりつきを覚えながらまたキスを送る。泣きたかったとは思わない。ただ泣いてもいいかと心だけが柔らかに油断する。
海のような汗の匂いがした。
***
小さい島だからといってすべての住民と顔見知りというわけでもない。日の長い一日がようやく沈みかけ、ほんの少し明るい夜空の下を赤葦と黒尾は歩く。先ほどから自分たちとすれ違う人の顔をさり気なく確認しては他愛もない遊びをする。
「……観光客っぽくはなかったですね」
「あーあれはたぶん帰省組」
昔いたような気がする、と赤葦と違ってこの島出身である黒尾が答える。へえと返事をしながらちらりと赤葦は振り返る。海沿いの道をぽつぽつといくつもの背中が歩いている。目指している方は一緒できっと港へ行くのだろうと思われた。お盆である週末の今日、島では祭りがある。港近くでは縁日のように屋台も出るし町内会がささやかなイベントのようなものもする。だから今日だけは島の雰囲気も少しだけ浮ついて、もう夜だというのにこうして通りには人の姿がちらほらと窺える珍しい日だ。暗くなった海から届く波の音の合間に太鼓や笛の音楽、そして笑い声のまじった人々のざわめきが聞こえ、それに吸い寄せられるようにまた人が集まって小さな港が賑やかになっていく。
「今のは観光客」
「ですね」
笑い合いながら横を通り過ぎていったよく日焼けしたカップルの背中を見送って、赤葦は前へ向き直った。Tシャツとハーフパンツという自分とほとんと同じような格好をした黒尾の尻ポケットには小さな懐中電灯がねじこまれていた。なんとなく嗅いでみた自分の二の腕から、落ち合った黒尾の家の玄関で借りた虫除けスプレーのつんとした匂いがする。顔を上げると、前から知った顔が歩いてくるのを見た。
「石黒さん」
「あたり」
正解するのは当たり前だ。真っ黒に日焼けした逞しい身体に白いランニング姿のその人は近所に住む漁師で、海の男らしく少し口が悪いが島の子どものことを昔から気にかけてくれる。先に黒尾が、ちは、と挨拶して、赤葦もこんばんはと会釈した。黒い顔をくしゃくしゃに皺を寄せて漁師は笑った。
「よう。お前ら祭りいかねえのか」
「“しまなか”でアイス買ってからと思って」
「ああ? もう閉まってんじゃねえかなあ」
「とりあえず、行ってみます」
黒尾の言葉を引き継いで赤葦は軽く頭を下げ、互いに止めなかったゆるやかな足取りのまますれ違って離れる。少しのあいだ二人で沈黙を守って、数メートル行ったところでその背中へちょっとした不平をぶつけた。
「“しまなか”に行くとは知りませんでした」
「ナイスフォロー」
「嘘つくならちゃんと最後までついてくださいよ。そのポケットの、いるんですか」
「念のため。あ、……うーん、帰省組かな」
「鮎川さんのとこの長男夫婦」
「ああ」
どおりで、と黒尾が納得したように呟いた。黒尾の家で虫除けスプレーを手渡された時点で祭りに行くのでも“しまなか”に行くのでもないことは赤葦も分かっている。咎めるつもりはないのでため息はつかない。
思い出したかのように現れる街灯の下を行き過ぎた。ふっとまた夜のほの暗さが赤葦の視界に戻って、赤葦は左手に広がる海を眺める。今はまだ波のうごめくさまもかろうじて見て取れるほどだが、あと少しもすれば夜が深くなってすべてが真っ暗になりもう空と海の境目などこれっぽちも分からなくなる。前後不覚になるただ深い闇が一面に宇宙まで広がって、波のさざめきだけが絶え間なくこちらへ手を伸ばし続ける。その不気味さと不確かさが、今でもほんの少し恐ろしくて、いつまでも見つめ続けたいほどには囚われたままだ。
「赤葦」
「ああ、はい」
声をかけられて視線を前へ戻すと、黒尾がやはりこのまま真っ直ぐ行けば見えてくる“しまなか”の方ではなく右手の坂へ足を向けた。登校日だった昨日も上り下りした学校の方へ行く道だ。海を背に、ゆるやかなその坂道に一歩足をかける。
島の中心部に民家はほとんどない。山と学校と役場があるくらいなものだから、こんな夜にこの坂道を下ってやってくる人の姿はやっぱりなかった。海沿いの道よりも街灯の数はさらに少なくて暗さに慣れた夜目だけが頼りだ。道の左右から聞こえる、鈴の音を何重にも重ねたような虫の鳴き声が行く手を包む。海の方から背中を吹き上げる風がほんのりと水の冷たさを含んでいる。日が落ち始めると夜にはこんな風が吹く日もある。今日はいつもより少し気温が低いのかもしれない。襟足を弄ぶ風に汗ばむほどではない肌が心地よい涼しさを覚える。
赤葦と黒尾の通う高校が近くに見えるころには、海の音はいつのまにか虫の鳴き声に掻き消えていた。休むことを忘れてしまった蝉の鳴き声が山の方からぼんやりと響いて届く。
「どこ行くんですか」
高校へ用があると思っていたわけではないのだけれど、あまりに自然と黒尾が通り過ぎるもので赤葦は一応その背中に投げかけた。
「今日はここじゃないの」
間延びした声で黒尾が言ってそのまま歩き続ける。今日という言葉に微妙な含みがあると思わないでもなかったが、女のように言葉を詰まらせるいじらしさなんて持ち合わせていないので、返事はしないで真っ暗な校舎に目をやり昨日自分たちのいた教室のことを考えようとしたところでやめた。黙って黒尾の背中を追う。
以前は農地だった雑草の生い茂る空き地を過ぎ小さな林を見送った少し先の右手に、赤葦と黒尾も通っていた小学校がある。造りや雰囲気は高校とあまり変わらないが校舎は少しこちらの方が大きい。もちろん人のいる気配はなくて辺りは静まり返っている。あるのは数など到底把握しきれない虫たちの鳴き声と夕暮れの余韻も薄らせた夏の夜空と闇だ。
かしゃん、と入り口を塞ぐ背の低い黒の門扉に手をかけた黒尾に赤葦は眉をひそめる。1メートルと少しといった自分たちにとっては乗り越えるのに容易な高さに、一抹どころか不安しか覚えない。思ったとおり黒尾は門扉の下へ足をひっかけて飛びつき、わりと軽々上って学校の敷地内に降り立った。早く、といくら夜目が利くようになったからといってぼやけて仔細な表情の読み取れない顔がこちらを見、音の立たないように門扉を支えて待つ。赤葦はこっそりと息をこぼしてそれでも何も言わず、微かに揺れる門扉に足をかけた。
右手にある校舎には見向きもしないで黒尾がすたすたと大股で鉄棒など遊具のある奥へ向かう。そこで赤葦はようやっとひとつの思い出が頭の片隅によみがえった。ああ、と思わず声にして小走りに少し空いた距離を詰める。
「よく覚えてましたね」
「あんとき何年生だった」
「俺が3年だったような気がしますけど」
「みんなで見たんだよな。水田先生にまっさんも居て」
「……何ででしたっけ」
「俺も思い出せない」
同じことに思い当たったようで黒尾が真面目な声音で言う。それ以前もそれ以降もわざわざ先生に連れられて夜の小学校に来たことなどないのにそのときはどうしたのだろうか。もう一度首を捻ってみたがどうにも思い出せそうにない。
校庭の端っこに塗装のはげて錆びかけた小さなジャングルジムがある。小さい、と思ったのはとても感傷的な話で、小学生のことはどんな形でどれほどの大きさなんて考えもせず、ただ自分の背が随分大きくなってしまっただけのなのだけれど、こうやって思い出のものが実際よりも夢見るような形をしていることはきっと多くあるのかもしれない。
今の赤葦が手を伸ばしたのより少し高いくらいのそのジャングルジムに、昔友だちとぎゅうぎゅうに並んでてっぺんに座ったのを口元に思い出して、赤葦は一段飛ばして二段目のパイプに足をかけよじ登った。上に着くのはあっという間だ。正方形に組まれた一番上の一回り小さく出っ張った部分に腰掛けた黒尾の横へ赤葦も腰を下ろす。結局一度も使わなかった懐中電灯を黒尾はその手の中に弄んでいた。
小高くなって何も遮るものがないここからは島の沿岸部が広く見渡せる。校庭のすぐ下は野原の斜面になっていて、それをずうっと先に下っていくとぽつぽつと小さな明かりの灯る平たい町並みが左右に広がっている。その真ん中あたり、一際明るく電球の光で彩れているのが祭りが行われている港だ。笛と太鼓の囃子が海の風に乗って、虫たちの大合唱の向こうに小さく聞こえた。
「あとどれぐらいかな」
と、隣から声がした。今日こそはしてこようと思った腕時計を赤葦は忘れてしまった。家を出るときに見た時刻と多めに見積もった登校時間を足して、もうそろそろだと思いますよ、と真面目に答えた。そっかと頷いた声が見透かしたように柔らかかったので、赤葦はつられて微笑む。今嘯く必要はこれっぽちもない。
ひゅーん、と空気を裂くような細長い音が海の方でした。あ、と声を上げて目で追ったのはほぼ同時だ。
どぉん。
雷のように重く辺りを震わす音が響いて、大きな光の華が夜空と海を明るく照らして咲き、きらきらと明滅して散った。花火だ。
祭りのなかほどになると、港を囲む歪な鍵括弧の形をした防波堤の端から花火が上がる。祭りのいちばんの見所だ。それを8年前にもこの場所で見たのだけれど、そのとき自分は黒尾の隣にいただろうかとそんなことをふと考えて赤葦は気づかぬうちにその思い出をまた仕舞いこむ。
二つめが火花の尻尾を引き連れて空を駆ける。中空に弾けるその瞬間、まるで地面から伝わるようにずどぉんという音が腹のあたりで重く響いた。金色の粒がまあるい形をとって放射線状に開き、まるで流れ星がきらめくように消えていく。その眩さと海上を漂う煙に冷たい夜の海がその姿をぼんやりと現す。波の端をちらちらと照らされて穏やかな海に花火の影が揺れ、まるで星空が海へ落っこちてきたようになる。
赤っぽい光、白っぽい光、ちかちかと夜空にきらめいて音なく消えていく光。
それを受けて、黒尾の面差しが暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる。まつ毛の端がつややかに光って、その瞳が濡れたように冴える。小さな祭りだから花火の打ち上げ時間はとても短い。いつのまにか眺めていた横顔に赤葦はどうにもならないことを願った。振り返れ。たぶんそれはちょっと違ってでも間違ってはいなくて、単純に言うならそれだけなのだけれど上手な言葉を見つけられない自分は意外と欲張りだ。
きっと願いが通じたのではなくて、視線に気づいた黒尾が赤葦を見た。オレンジ色の花火の欠片が黒尾の黒髪できらめいて頬に踊る。
「赤葦」
ぱちぱちと、花火の輝いて潔く散りゆく音にその声は少し形を崩して聞こえた。空気の詰まったような少しぼんやりとした耳の奥で自分の名前がふわりと漂って、赤葦は、はい、と行儀良く返事をする。黒尾の右手が伸び、赤葦の耳の下あたりに引っかかって親指がやさしく頬に触れた。すっと何も言わずに顔が近づいてきたのでそういうことなのだとすべてを分かってわずかに目を細める。もう一度名前を呼ばれて、まつ毛を小さく持ち上げる。
ひた、と目が合った。花火の光を星のように煌かせる左の瞳も長めの前髪に隠れそうな陰の差す右の瞳も、どちらも水鏡のごとく赤葦をその黒目にとらえて、まっすぐにこちらを見つめている。頬と口元がまるで穏やかなものを含んだようにやさしく歪んでいる。笑っているのだと気づくのに赤葦はゆっくり瞬きする時間を消費して、何も分かっていなかったことを理解する。
花火が夜空になくなったその隙間に、たぶん赤葦が覚えているすべてのうちではじめて目を見て穏やかに微笑んで、黒尾は赤葦の頬に触れるだけのキスをした。
ひゅん、と音がしてもう何個目か分からなくなってしまった花火が漆黒の夜空に線を引く。身体を芯から貫くような重苦しい音が唸って拡散して緑と赤の華が咲く。光の花びらが弾けて飛んで、小さな火花が残り香のように瞬いて惜しまれずに消える。
花火の打ち上がる音、舞い散る音、消えゆく音、そして、夏に生きる虫たちの折り重なる鳴き声が赤葦と黒尾の世界を取り囲む。遠くの山から響き渡る蝉の声がじりじりとなぜか赤葦を追い立てるようにこだまする。夏の盛りだ。呼吸するのが躊躇われるほどに色濃い夏のなかに赤葦はいる。
触れていた少し熱い体温をともした手が赤葦の頬から剥がれて伏せがちの目が遠ざかっていった。ここに来る前から決めていたふうに黒尾が明日の予定を話す気軽さで、ときどき赤葦から視線を外しながらぽつぽつと言葉を紡ぐ。来年にはこの島にいないのだという話をどうして今するのだろう。もう知っているのに、と赤葦はそれでも黒尾の顔から目を離せずに、知っているからだろうかと変に苦しくなった胸の底で思い直す。
あと少しで花火も終わって、祭りもゆっくりと寂しさと懐かしさの余韻を残して散会までの時間が流れるだけになるだろう。空と海に漂う煙を後にして少しずつ人々が散らばって、囃子も止んで、電球の灯火もぱちんと落ちて、思い出だけを人は持って帰る。この夏のように飽和したものはすべてゆるやかに終わりへ向かう。
スズムシの鳴き声がちらりと聞こえる。山の向こうで鳴くのはきっとヒグラシで、ここにも終わりがある。終わりゆく音はどれもこれも物悲しさを含まなければいけない決まりでもあるのだろうか。
夕暮れのチャイム、港を出てゆく船の汽笛、めったに言わないさよならに、赤葦と呼ぶその声。そしてたとえば、いつも隣にある静かな息遣いとか。
黒尾さん。
小さく呟いた声に黒尾は気づいただろうか。気づかなくてもいい。このときひたすらにその名前を呼びたかった想いだけはきっと赤葦のなかにずっと残る。
呼びたかった理由なんてとてもかんたんで、それはここにいる理由とほとんど変わらなくて、自分が欲しいと願うその形とも同じで、話し終えて甘やかすように小さく崩す黒尾の顔を赤葦は少しでも長く引き止めたいと思うだけなのに、思い出されるのは何とも取り留めない。
割ってもらったアイスの片っぽ、わざと返さなかった雑誌のこと。
触れられた手の温かさ。ごまかした言葉のやさしい温度。髪をつまむ子どもっぽい仕草。
帰り道。差し出された手の影のかたち。波の音。
波に泳ぎそよいだ黒髪の影。いつも本当のことを感想文には書けなくて。
まぶたを塞いだ熱い肌。耳を浸す世界でたったひとつの脈動。
風にふくらんで頬に触れたカーテンがくすぐったかった、薄暗い教室。並んだ2人の机。
いつまでも眺め続けた横顔。
ずっと追えると信じた、その背中。
砕けて散った花火の欠片が降り注ぐ。もう終わりますねと言えれば上出来だったのに、壊れそうなほどにもろくてきれいながらくたばかりが思い出されて邪魔をして、ひとつの言葉だって生まれやしない。
どおん、どおん、と花火が散る。虫たちが終わらないと錯覚させるためだけにその身を削って鳴き続ける。
もう何も聞こえない。
鼓膜を震わすすべての音が耳の中でない交ぜになってひとつひとつの形が上手く拾えなかった。
形のなくなった音がやがて大きなひとつに束ねられる。形あるものが有音なら失ったそれは無音に違いない。
だからもう、赤葦には何も聞こえない。
包み込む夜の帳の深い深い藍。
明滅して儚く消える花火のきらめき。
疑わずとも信じずとも在る果てのない海。
今、どうしてそんな顔をするのだろう。
まだ何か言いたげな顔で、それはいつもなら飲み込んでなかったことにして、どうせまたなと忘れたふりをするのに今日に限ってどうしてそんなふうに終わりを信じた顔をするのだろう。
何も、聞こえない。
聞こえないほうがいい。
今が壊れてしまうなら知らなかったふりがいい。
知らない。
嘘だ。
そんなのは嘘で、壊れる、いったいなにが壊れるというのだろう、まだ何も始まっていない。
まだ何もこのあいだにはない。
だったら自分が欲しいのは最初からいつでもただひとつだ。
そう、嘘だ。
本当はただひとつそれだけを求めて心はひた走る。
今星が流れたら。
きっとそれを願うことなどしないだろう。
流れて落ちて、燃え尽きて、真っ暗な海の底に沈んでしまう不確かなものにこの気持ちを委ねたりはしない。
約束されたものなんてひとつもない。
確かだと思い込む心で不確かさを信じて、何も嘘はないと願う。
宥めすかして、嘘つくように慈しむ。
光の散開。
闇の降り積もる。
やがて終わる花火の影。
ひりついた夏の圧迫。
唇がほころぶのを見る。
赤葦。
ほんのりと甘い声の端っこ。
ふとよみがえる汗の匂い。
何も。
何も聞こえない。
嘘。
「好きだよ」
fin.(2014.8.26)