夜のある朝に散る
救い上げられるように、黒尾は薄闇のなかで眠りの淵からゆるりと目を覚ました。意識が冴えるのはあっという間だったけれども、だるい身体が覚醒するにはあとほんの少し沈黙が要る。数時間前には汗ばんでいた肌も今は冷えて少し肌寒いくらいだ。剥き出しの肩を大きな自分の手のひらで緩慢にさすりながら、ベッドの足元にある掃き出し窓にぶら下がった薄いカーテンが白み始めた外の明るさをぼんやりと透かせているのを見る。それに目を慣らすように瞬きを繰り返して、ひそやかに息をこぼしてそっとベッドから抜け出した。
ベッドの傍ら、ローテーブルの前、少し離れたテレビの近く、剥ぐように脱ぎ散らかした衣服を拾っては身に着ける。最後に、ゴミ箱に跳ね除けられたティッシュの残骸をまとめて投げ込んで、黒尾は振り返った。這い出たベッドには赤葦の骨っぽい背中が夏用の薄い羽毛布団を中途半端にひっかけて、その肌の色だけ白っぽく薄闇に浮んでいた。寝息の音は聞こえなかった。足音を殺して、傍らに立つ。夜の空の色を溶かした青白い影が部屋を浸してすべてのかたちの縁を曖昧にぼやかす。見つめる肩甲骨のあたりが微かに、ゆるやかな呼吸の拍で上下する。端を静かに摘んで、黒尾は布団を掛け直してやった。
トイレへ行って戻ってきても赤葦に寝返り打った様子はない。ローテーブルに見つけた財布を掴んで、見当たらない携帯電話は諦める。時計の壊れてしまった部屋にはもう確認する方法がないのだけれど、今は何に追われてる訳でもないから時間を確かめたいとは思わなかった。夜は明けたに違いない。それだけ確信を得れば十分で、片付け忘れたままのサンダルを履き部屋を出る。


歩いて五分もないコンビニから出てきた黒尾は店員にうつされた欠伸を眉根を寄せてかみ殺す。右手にはフタ付きの紙コップに入ったホットコーヒーがひとつ、左手には小さなビニール袋がひとつぶら下がっていた。首をぐるりと回しながら、元来た道を引き返す。起きたときはそうでもなかったのに、明るいところへ出ると急な情報量に戸惑うのか目の奥がじわじわと重たくなる。単純に考えて寝不足気味なのだ。当たり前か、と物音の少ない静かな朝の清冽な空気を吸い込んで、不意に自分から漂ったどちらのかも分からない汗の匂いに小さく笑みの混じった息を落とす。
もう日の出の時刻は過ぎ、空は薄い水色に明るんでいた。さして高くもない平凡な街並みに邪魔されて太陽の姿はまだ見えないけれど、でこぼこな住宅街の建物の隙間から見える遠くのビルの群れが逆光に色濃く影をまとっていた。もう十月だというのに、今日も夏の名残さえ感じる晴れた天気になりそうだ。遠く微かにに聞こえるのは表通りを走る車の残響で、すれ違う人影もない。まだ街の半分以上は眠ったままなのかもしれない。乾いた灰色のアスファルトの道路の上には、まだ夜の色を含んだ建物の影と沈黙が時折落ちている。それにひっそりと足を濡らせて黒尾はあいかわらずの猫背を連れて帰り道をのろのろと歩く。
小さな二階建てのアパートに着いて、俯きがちな姿勢のまま、かん、かん、かん、と小高い音をさせて外階段を半分ほど上ったところで、黒尾は気配を感じ取って顎を持ち上げた。階段の狭い踊り場で赤葦が手すりに腕を預けてもたれかかっていた。出てくる前に黒尾が集めておいた部屋着姿で、まだ眠たそうな重いまなこをして腰を随分と折り曲げ、手すりに頼っている。すい、と目線が動いて黒尾を見下ろした。
「どしたの」
起こした?、と尋ねると赤葦は返事をしないことで肯定した。そして、気だるさを滲ませて、
「頼みたいものあったのに」
とため息まじりに言った。その拗ねるような顔を見て黒尾は目を細めて笑う。階段を上りきって、がさごそと手にしていた袋から青いフタに白っぽいコップの形をしたプラ容器入りのゼリー飲料を取り出す。
「これだろ」
差し出されたものを見て赤葦が、ぱち、と音させるように目を瞬いた。それから黒尾と目を合わせて表情を崩し、ども、と受け取った。
「何、追いかけてくるつもりだった?」
「まあ、そのつもりだったんですけど」
言って赤葦は、ずぼ、とストローを容器に差して、肩を落とすように長く深く息を吐く。
「……思った以上に腰痛くて。階段降りれる気しなかったんで」
やめました、と最後のあたりは吐息に埋もれて心底だるそうだ。散らかった寝癖を少しも直しもしない横顔に、頬に薄っすらとついた布団の皺の跡、袖のめくれた半袖のTシャツ姿を黒尾は目に含む。
黒尾が大学院を卒業して約半年。一緒に暮らし始めて多少は相手のことが分かってきた。赤葦は意外と無頓着だ。たとえば、けして片付け下手ではないのに少し乱雑なほうが落ち着くのか放っておけばその辺にものが積み重なる。部屋の片付けを率先して行うのは黒尾で、促せば赤葦は煙たがることはなく、ああ、はいと返事もあっさり取り掛かる。よく見れば赤葦が着ているのは黒尾のTシャツだ。今まで気づきもしなかった自分に、お互いさまかと心を柔らかくする。
手を伸ばして、黒尾はその寝癖の髪を梳き、袖を直してやった。そのあいだ赤葦はストローをくわえながら、目を瞑ったり、目線を流すだけで反応を寄越した。動くのがよっぽど億劫らしい。横に並んで、手すりに肘をひっかけながら黒尾は買ってきたコーヒーにやっと口をつけた。
「そんなにだるいならまだ寝てたらよかったのに」
頬杖をついて顔を傾けながら笑いかけると、ゆっくり首を巡らせ遠慮なく視線をぶつけてくる赤葦が少々雑にストローを口から外した。
「誰のせいか分かってます」
「ん、お前?」
「あんたも」
否定もしないし恨んだふうでもない、くたびれの滲む声音が大人しい朝に染み込む。廊下での立ち話だからどうしても声は小さくなった。
ふと、黒尾さん、と赤葦が思い出したように言った。その声の端は、昨夜の夜の名残を残して少し掠れている。
「もし俺が、置いてかれるのが嫌だって言ったらどうします」
ほどよい熱さになったコーヒーをゆっくりと猫舌で味わっていた黒尾は思わず、口の中に残っていた一口をごくり、と喉を鳴らして飲み下した。
「……俺のせい? って訊くかな」
「ああ、今のなしで。面白くない冗談です」
そう言って赤葦は黒尾から視線を外してほんの少しの苦味を口元に乗せストローの端っこをゆるく噛む。
赤葦がたとえ話をするのは珍しい。赤葦の話は基本、行きたいですね、じゃなくて、行きましょう、だ。いくつか先のことを考えて動くのが得意だから、後回しもしないし段取りもいい。選択に迷いがないのだと思う。行動は無駄なく明確だ。じゃあ無頓着な件はどうなんだ、と問われたらたぶんそれは極端な話、死なないからだと黒尾は思う。寝癖がついてたって、Tシャツがめくれていたって、部屋が片付いていなくったって、度を越さなければ自分の、そして他人の人生を左右することはない。そういったことだけに赤葦は無頓着だ。
そう、だから、もしから始まる自分と黒尾の話をするということは、そういうことなのかもしれないと黒尾は手元に目を落とす。
「いつぶりだったけ」
「は?」
間の抜けた声を耳が拾う。すぐに思い直した声が、ああ、と漏らした。
「俺が出かけてたあいだぶりでしょ」
分かってることを聞くなというような硬さはないけれど、面倒そうな緩さで赤葦は呟いた。ストローが、ず、と濁った音をさせる。そっか、と黒尾は頷いた。
面を上げると、目の前にある背の低いマンションの駐車場の向こうに見える街並みの縁に、つ、と光の線が走って滲み始めるのを見る。眩い光がマンションの影に遮られずに、黒尾と赤葦の方へ手を伸ばす。日を浴び始めた夜の空気が温もりを感じるにはまだ早くて、その温度が伴わない。眩しさにだけ、黒尾は顔を歪めた。夜更けの気分が抜けきれない身体にひりひりと染みて、逃れるためにまぶたを下ろす。
やがてふわりと空気の流れが変わる気配がして、まぶたの裏がふっと、暗くなる。薄っすらと目を開けかけたときには、身を乗り出した赤葦が唇を塞いでいた。お互いの短いまつ毛が触れて絡まる。あまり深くは合わせずに、赤葦は自分ので黒尾の唇を捕まえて、濡れた感覚を名残惜しむように最後はゆっくりと下唇を食んだ。ちゅ、とその音の先を見つめるように伏せがちに唇を離す。小さく息を吐き、首を引っ込めて遠ざかっていく赤葦の顔にやっと焦点が合って、台無し、と黒尾は笑った。
「キスしたあとの顔じゃない」
「だから、腰が痛いんスよ」
投げやりの口ぶりになって、赤葦は眉間に皺を寄せたしかめっ面のまま腕のあいだに首を折ってうなだれた。細く息を吐く。そして何かが通り過ぎるのを待ってから顔を上げた。くせっ毛の前髪が額にひっかかって、その目が朝焼けに細められる。
「消えそうな顔をするのも、なしです」
独り言のように言ってから赤葦はごく平坦な声音で、低血圧でしたっけ、と何事もないように付け加えた。やさしさ、と少し似ていてそれはどちらかというと、呆れに似た救済のかたちをしていた。
「……ああ、まあ、寝起きだから勘弁してよ」
取り繕った形だけの嘯きだと知っていて、赤葦は、はあ、と言うだけだった。揺らして弄んでいたカップを持ち上げてストローを口にくわえる。たぶんもう中身は入っていないのに、重たげなまぶたを横たえてそれこそろくに装う素振りも見せないでやさしく嘘をつく。
そういうことだと黒尾は思う。世界はたった一人がいなくなっても回るのを止めないけれど、もし黒尾のその人が消えたなら黒尾はやっぱり死ななくて、でもときどき世界の景色に首を傾げたり、時間の速度に途方に暮れたりするだろう。黒尾の隣にいるのは、そういう程度には自分のあれやこれを左右する。こうして、すべてが晒されてしまう朝焼けの時間にたやすく寂しさがうつるくらいには。
「ねえ、赤葦」
一瞬のあいだにその言葉の先を黒尾はさまざまに想像する。置いてかないよ、なんて曖昧な約束ができたらならも少し楽で気ままなのかもしれない。けれど実際のところ黒尾に出来るのは小さくて単純なことだ。次は声かけるよ、とか、今度のコーヒーは俺が淹れるから、とかそんな簡単なこと。そう、何か確かな約束がしたかった。黒尾が今、確かに約束できることなら何でもよかった。
その心積もりをして黒尾は、自分を見つめ返す赤葦の、朝焼けの光が当たって輪郭の散らばる頬に見惚れた。赤葦が目を瞬いてからゆるやかに、なあ赤葦俺まだ何も言ってないよと口を挟むのは無粋だからしないけれど、光のなかで眩しそうに顔をほどいていくのは反則だと思う。
コーヒーの熱さで温まったほうの手を、霞んで消えそうな頬を捕まえるためだけに伸ばす。すくって、形を確かめて、顔を寄せて。答えはもらっているから、もう、訊かなかった。


fin.(2014.10.25)
2014.10.12のスパーク発行合同誌『KRAK』より。
『彩り詩二百十二世界』を書き上げた直後だったので、やっぱりそっちに引っ張られたかんじになりました。個人誌の続きのようなそうでないような、とコメントのところに残したのですが、やっぱりこれは彩り詩のふたりという位置づけです。
蜜夏シリーズのふたり、彩り詩のふたり、それ以外のふたり、というふうにわたしのなかでは一応少し線引きをしています。あまり大きな差異はないですが、背景が違うのでふたりにただよう温度と色の違いや、特に赤葦の言葉遣いに少し差があります。
もちろんそれ前提じゃなくても読めるような感じにはなっています。社会人同棲話です。一人暮らしの黒尾さんちに赤葦くんが転がり込んできたという、見えない設定があるので、ふたりの部屋はとても、窮屈です。せっまいんだよ!って言いながら、肩をぶつけて笑いあって、暮らしています。いろいろ考えごともあるけれど、しあわせです。
“青いフタに白っぽいコップの形をしたプラ容器入りのゼリー飲料”はド○リッチです。(笑)わたしのなかの赤葦はゼリー好き。
赤葦は意外と面倒臭がりで無頓着なんじゃないかなあ〜と思っていて、たぶん一人暮らしなんてしてたら、赤葦んちの冷蔵庫は飲み物とゼリー飲料にしめられているんじゃないかなと思います。朝、パックゼリー飲みながら通学したり通勤してる。
ふたりでいることを選んで、でも選んだことで生まれる寂しさだってあって、それをうまく隠したりもできればそうでないときもあって、無理をしない程度に無理をして誠実に互いをなだめすかして、ふたりは、あるいはひとりとひとりは、一緒にいるんだと思います。
そうだね、いびつだけど、黒尾も赤葦も誠実なんだね。
This fanfiction is written by chiaki.