量子力学の夢
 あれは、確かに蜜月だった。
かの日の風を感じて、黒尾は伏せていたまぶたをゆっくりと半覚醒に持ち上げる。右目にかかる前髪が微かに揺れて肌をちくりと刺す。細かな櫛の歯のように並ぶまつ毛のしたで、小さな黒目が静けさだけを見つめた。
開け放たれた窓に音なくレースのカーテンが舞い上がる。のんびりとした午後の日差しを透かす白の眩しさが裾を揺らめかせて、光の散る音に変わる。一度、大きくカーテンが浮き上がり陽の光を反射する窓台が覗いた。フローリングの床へ、カーテンの影を境目にして光の波が寄せては引いていく。カーテンの隅が、する、と窓の方を頭にしたベッドの端に引っかかってもどかしげに離れていった。ベッドに横たわるのはうつ伏せの背中。眠っているのだということを黒尾は知っている。あの日、寝息を立てているのを確認して声をかけずに出て行ったのは自分だ。
ベッドの足元に立つ黒尾からは、寝癖でくしゃくしゃになったくせっ毛のつむじをこちらに向け暗くない部屋の壁の影を落とした頬も、ちらつかないきれいなまつ毛の並ぶ形も、あのときは気づかなかった、眺めるのが好きだった寝顔もあまりよく見えない。時折、カーテンの合わせが割れて、つ、と光の帯が皺の寄った掛け布団の上で踊った。明るさを避けるようにそっぽを向いた顔はそれに気づく気配はない。けして目覚めることのないその横顔。これが童話ならばその呪い解く方法はたったひとつだけれどこの場合はもっと容易で、黒尾がここを去るだけでいい。運命の口付けなどなくても、きっとあくびひとつして眩さにいつか目を覚ますだろう。
ベッドの向かいに置かれた勉強机、無造作に積まれたノートと教科書、放り出されたエナメルバッグ、そして、小さな棚の上に置かれた蒸気機関車の模型。自分の趣味じゃない、といつだったか言っていた。父親からもらったものなのだと興味を持つふうもない、淡白な口ぶりだった。こんな話を覚えているのに理由はないけれど、ここへ来るたびに思い出すから忘れられないのだとは思う。
もう何度見つめ続けたか分からない着古したTシャツの背中をゆっくりと目に含んで一歩後ずさる。揺れるカーテンにふと気を取られて黒尾は佇んだ。窓を閉めようか、あのときもそう逡巡した。でも風が止むのが怖くて、そのまま部屋のドアに手をかけてもう振り向かなかった。今も、取り戻せない夢だと分かっているのに、幾度となくその瞬間を迷って足を止める。目覚めないのだと知っていて、身じろぎもしない背中と降りたままのまぶたを遠くから確認する。眠っている、そのことに安堵してみせるのがもう癖になった。後ろ髪を引かれるように足を惑わせて背を向け、思い出の境目に手をかける。
かしゃん、と音をさせて、黒尾は金属製の蛇腹のシャッターを横に引く。くすんだ赤の絨毯の敷き詰められた長方形の匣の中から、再びその斜交い模様のシャッターを閉め、静寂に包まれた白む部屋を見つめ直す。時を止めたその場所は、黒尾が望む限り永遠に、どこにも抜けることのない風を通し続け、それに揺れるカーテンはひらめき続け、ベッドの横たわる背中は沈黙を守り続ける。匣の右隅に並んだ、厚ぼったいマーブルチョコのような艶のあるスイッチをひとつ、押した。刻まれた数字のへこみを指の腹に感じ取る。年代もののエレベーターが形ばかりの古いモーター音と軋み、揺れを伴って動き出す。雑音の響く中に取り残されて黒尾はシャッターの向こうの部屋に視線を落として追い続ける。風にそよぐカーテンはもう見えなかった。浅くかけた布団の上にちらちらと光が瞬くのを見る。わずかに、その足元が動いたような気がした。それは気のせいだと思い込むことはもう容易い。あのときどうやって目を覚ましたかなんて黒尾には今も昔も知る術がない。だからこれは夢だ。ゆっくりと、暗い壁が目の前に降りて向こう側に幕を引く。吊り上げるワイヤーの巻き取られていく憂鬱な音に匣の中が支配されるだけになって、やり過ごすように目を閉じた。
小さな鈴の音のような音がひとつして、不安な振動を残しエレベーターが止まる。ちらりと見上げた分度器のようなメーターが180度の位置で止まって“1”を指していた。蛇腹のシャッターを一枚押し開け、もう一枚も錠を跳ね上げて押しやる。柔らかな砂の上へ降り立ったそのとき、波のさざめく音が柔らかな曇り空を薄っすらと透かす眩しさとともに黒尾の感覚に差し込まれた。呼吸した鼻先に潮の匂いがかすめた。灰色っぽい砂浜の先には、光を通さない群青色の海が広がっている。穏やかな波が浜辺に白く泡立っては寄せ、しとやかに引いていく。革靴の足跡を微かに湿った砂地に点々と残して黒尾は歩き出した。地下深い先ほどまでいた部屋と違って、ここは風が凪いでいる。海水に冷やされた空気が頬をそっと這った。曇った空の名残が落ちてきたように、沖のあたりには薄い靄が立ち込めている。そのせいで海の向こうに何があるかも何もないのかも分からない。
あの日、唐突に海へ行きたいと言われて終電のことなんか考えずに飛び乗ってたどり着いたのは、冷たく沈んだ夜の海だ。真っ暗な闇のなかで夜に交じり合った地平線の境い目すら探せずに、波の打ち寄せる音にただ並んで耳を澄ました。昼間の海など知らないからこれは想像に過ぎない。だから、誰の姿もない。地平線に何があるのかも黒尾は知らない。
風の姿なく、風の唸るような音が遠くから近づいてくるのを耳が拾う。いつのまにか波打ち際を横切っていた線路に、黒尾は長い足をひっかけた。ぱら、とスーツのスラックスの裾から砂がこぼれる。そのままレールの上へ立つ。足元から小刻みな振動が身体に伝わって、目を伏せ、ひとたび深く呼吸した。
あれは確かに蜜月だったと、今も思う。
ふぉーん、と耳をつんざく汽笛の音が周囲の何もかもを震わせて、すべてを無遠慮に追い越すスピードが真っ直ぐにこちらを目指してくるのを思い描く。その方向今さら見ることはしなかった。やってくるのはGG1形電気機関車に決まっている。漆黒の鋳造台車枠に並ぶ節足のような無機質の車輪、それに乗るのは臙脂色の艶やかな流線型車体。頭についたひし形のパンダグラフ。長い鼻先から金色の5本のラインが車体の左右へ伸びる。車輪がレールを擦り甲高く弾け轢く音と、車体の許容速度をとっくに越えている無言の暴力が風を切り空気を切り裂いて、轟々とうねる音が目の前にある波の音を侵食するように掻き消していく。
これは夢だ。なぜなら自分は“列車を待っている”
再び、汽笛が鳴った。押し寄せるスピードと息もつかせぬ音がすべてを飲み込もうとする。がたがたと一本の線を保とうとするレールがはじけ飛ぶのを懸命に堪えるかのように震え、その振動に砂浜の砂塵がざわめいてうごめく。深い青に染まった海はまだ静かに黒尾を見つめているだろう。世界が形を失い崩れゆくように足元が揺れ、身体の芯を揺るがし続ける。
これは、夢だ。
ぶおおおんと、最後の警告のように汽笛が頭蓋と脳みそを揺さぶって耳がそれ一色に塗りつぶされる。切れ目のないそれは黒尾の耳元で響き続ける。世界がそわりと、心を乱して歪みはじめる。黒尾は、ゆるく腕を広げて、目を閉じる。
“列車を待っている。どこへ行くかは分からない。でも構わない。それは、なぜ?”
蜜月を理由にするならば、黒尾はイエスと笑っただろう。
けれど、これは、夢だ。
なぜなら、あの列車は望むところはおろかどこへも行けないのを自分はよく知っている。ふたりのいた時間はもうどこにもない。だから黒尾は夢を想って、ひそやかに微笑む。
……またな赤葦。
その瞬間、鳴り止まない音の圧迫がそのまま形になったように高速の音の塊が黒尾の四肢に、どん、と鈍く途方もない衝撃で襲い、知覚しきれない痛みに刹那、重力が反転して暗転、急転直下で流転して、ぶつりと意識を手離した。

 -・・・ --- ・-・ -・・ ・ ・-・

目覚めは、身体がひたひたに浸かる程度の浅瀬から身体を起こす程度には少し億劫で、意識が形を自覚するのは案外早い。
頭を切り替えるために、黒尾はぐいとまぶたを持ち上げる。すぐに目に入ったのは剥き出しのトタン屋根の天井と、それにぶら下がる光の落ちたままの無骨な水銀灯の無愛想な光景だ。機械に使う潤滑油の酸化して濁った重たく沁みる匂いを微かに鼻が嗅ぎつける。ぱちぱちと目を瞬いたあとで、手のひらで緩慢にまぶたを擦った。
夢を見るのは浅い眠りの最中だという。居眠りにも満たない短い時間だからだるさが残ることもない。当てをつけて腕時計を確認する。思ったとおりの時間だ。すぐ横の作業台の上に置いたジェラルミン製のトランクと一体になった機械から伸びるチューブは自分の腕へつながっている。その先を指で摘んで、静脈から針を引き抜いた。腕の違和感に顔をしかめながら消毒液をつけたコットンでぐっと強く腕を押さえて、、それと針をまとめてくず入れに放り込む。チューブをぴっと引っ張ると、巻き込み式のそれはするすると勝手に装置の一部分に巻き取られていく。背もたれのゆったりとした折りたたみチェアから身体を起こし、作業台の上に乱雑に散らばっていた書類をいささか強引に端に寄せ、スラックスのポケットから探し当てたものを指先で勢いよく捻って放った。
ぶいん、と蜂が唸るようにして円を描き始めたのはステンレス製のコマだ。銀色のそれは渦を中途半端に辿ったところでぐるぐると回り続ける。きれいな左右対称になっているその姿はきっと遠くから眺めただけでは中空に静止しているのか、回転しているのかはとても分からない。判断する鍵はその場所の重力の有無になるだろう。
ともすれば永遠に回り続けるのではないかと錯覚しそうになるその姿に、黒尾は身を乗り出して視線を注ぐ。気づけば机を擦る音はない。真上から見つめるそれは細かに振動する銀の円盤のようで、コマの肌に残る切り出され磨かれた跡が輪の帯を浮かび上がらせる。ふ、とコマの頭がわずかにふらつくのを見る。思わず小さく息を吸い込む。ぐらりと身体をふらつかせて倒れるその様を、願うように思い描く。そのとき、廃れたがらんどうに重い何かを引きずる音が不機嫌な雷のように響くのを黒尾は聞く。予定よりほんの少し早かったが顔を上げることはしなかった。いつもこの瞬間を見届けるまではひとさじの不安が拭いきれずにいる。分かっていると認識しているものと、信じたいものの形がぴったりと重なることは、実はぜったいに約束されたものではないのだということを黒尾はよく知っている。
ふらふらとコマの頭と軸がゆっくりと旋回し始めた。小さく喉の奥で底冷えする染みた空気を吸い込む。やがて、それは傾いで半円を描きようやく動きを止めた。硬く素っ気ない床に鳴る、びたん、びたん、と横へ差し出し気味の足音が近づいてくる。肩で息を吐いて、黒尾はコマを攫うように掴みポケットに押し込んだ。指先に残る、すべらかに冷たい20グラムの確かな重みと覚えこませたその感触。
「どうだった?」
すぐそばで足を止めた気配に黒尾は右目にかかる前髪の隙間からようやく相手の顔を確かめる。おう、といつもと変わりなく雑な返事を寄越したのはここ数年の仕事仲間である岩泉だ。短めのこざっぱりした髪型に頑固そうな太い眉、その下に収まる三白眼といった人相は男らしさそのままで、性格も割合そのとおりだ。仕事に対しては真面目、人に対しても真面目、けれど押し付けがましいところはない。遠慮のない言葉もぶつけては来るけれど裏がないから嫌味もない。人に対する距離の取りかたは黒尾と違うけれど、丁度いい素っ気なさが付き合いやすくよく組んで仕事をする仲だ。先ほどまでコマの回っていた塗装の剥がれかけた黒の作業台に岩泉が茶封筒を放った。音からして束になった書類だと推測する。1センチほどの厚みだ。
「追加の資料だと。なんつーか聞けば聞くほど面倒そうな依頼だな」
「金は」
「入ってる」
確認されると分かっていたのか、岩泉はポケットから取り出していたスマートフォンを手際よく操作して、黒尾へ画面を差し向けた。つるりと光る液晶に映ったのはネットバンキングのアカウントだ。前金としては随分と気前の良すぎる額に黒尾は思わず、ひゅう、と口笛を鳴らして目を見開いてみせる。
「さっすがサイトーグループ。桁がいっこ違う」
「だから面倒だっつーの。お前呑気だな」
俺はこれ見たときため息ついたわ、と岩泉は眉間に軽く皺を寄せて口の端を曲げた。それを受けて黒尾はにやりと笑う。
「そっちはそういうところ、心配性だな」
「性ってほどではねーよ。ただ、最初からいい感じはしなかっただろ」
「まあね」
「依頼のふりして、社長自らテストに来るって何考えてんだか」
おざなりのパイプ椅子を引き寄せて、どすん、と座った岩泉が土産、と手に提げていた紙袋を台の上に置いた。封筒の受け渡し場所に使ったカフェのものだ。見慣れたロゴのそれを覗き込むとコーヒーがふたつ、入っていた。どーも、と礼を言ってまだ暖かなカップを取り出し黒尾はチェアに腰掛ける。コーヒーには詳しくないけれど、自分がいつも飲むものの香りは覚えている。香ばしく後を引かない、微かに本のインクに似たその香り。湯気とともに吸い込んでそっと口をつける。猫舌の自分にはまだ少し熱かった。ここは冷えるなと呟きながら、岩泉もコーヒーを飲んでいる。仕事の下準備のために二人が借りたのは潰れた小さな工場だ。当たり前だが住居の作りをしていないから、硬い床も薄い壁もトタンの屋根も雨風は防げるがこれからコートが必要となってくる季節はストーブでもないと夜は過ごし辛そうだ。曇りガラスの窓は壁に大きく取られているから日の昇っている間の明るさは申し分ないが、床にしんしんと積もる冷気が温まる気配はない。首をすくめて、黒尾は慎重にコーヒーをすする。
「まっさかラグで見破られるとはね」
今回の依頼主であるサイトーと顔を合わせた先日の仕事を思い出して苦笑いする。黒尾たちにとってはいつもどおりの仕事だったがサイトーにとっては採用試験にすぎなかった。そのとき一緒に仕事をした“設計士”とは数回依頼をこなした程度の仲だったが、サイトーの愛人の家に似せて作ったラグを化学繊維のものに設計したという些細だけれど致命的なミスと、あとひとつが原因でその仕事は失敗に終わった。だがそれでもサイトーは合格だと不敵に笑った。結果ではなく過程をこの目で確かめたかったのだという。その目で見たものしか信じない、と言ったところか。不遜だな、と黒尾は思う。
ほんの少しひりついた舌を歯列の裏側にに小さく押し付けて、岩泉を見た。
「今度あいつに会ったら、超高級ホテルの最上級の部屋取ってラグの上で寝てみろって言っとけよ」
「会うことがあればな。そういうお前は極上ウールのラグのご経験は」
「……さる財界人のお宅で床に押し倒されたときに」
ほんと肌触り違うんだわ、と黒尾はそ知らぬふりでコーヒーを飲む。岩泉の目がどことなく楽しそうな色を含む。
「へー初耳。美女?」
「そ。胸板厚くてグラマラスないかついSPにね。あのときはちょっといろいろ覚悟したわ」
「ははは」
笑って、岩泉はコーヒーのカップを台に置いた。そうして、で、どうするよ、と前屈みに黒尾へ視線を伸ばす。黒尾は、考え込むように唇を中指でひと撫でし、ゆっくりとまだたっぷりと中身の入ったカップを回した。金払いの気前は良く、テストまでされた上に依頼された案件、下調べが役目の岩泉が面倒だと心配する内容。事態を把握しやすくするために基本は少ない人数で仕事してきた黒尾だが、念には念を入れる必要もありそうだし、何より今回はいつもより少々複雑に作戦を立てなければならない。それには人数もいる。準備金はたっぷりあるのだから渋ることはない。
「“偽装師”の当てはあるって言ってたよな」
ちら、と黒目を向けると、岩泉が背もたれを軋ませて微妙な顔で曖昧に返事を濁す。
「何だよ、はっきりしないな」
「いや腕は保証すっけど、あいつねえ……」
「前言ってた幼馴染だっけか」
「あー。ま、いいや、あいつ以外で腕のいい奴も心当たりないし、連絡取ってみるわ」
「じゃ、あとは“設計士”だな」
どうすっかな、と口の中で呟いて黒尾はチェアに身体を預けて沈める。
「は? お前がやりゃあいいじゃん」
あっけらかんとした岩泉の声に目を瞑って首を振る。
「いーやだめだ。俺が設計に関わると“あいつ”に手の内が全部バレる。そしたらあのときの二の舞だ」
サイトーの採用試験が失敗した原因のもうひとつは、黒尾自身にあった。黒尾はパーティー会場である屋敷の設計を担当したのだが、そこからすでに作戦の歯車が狂い始めていた。無意識のことだから黒尾自身にもどうにもならないことなのだけれども、だからこそ今回は出来うる限りの予防策を張っておかなければならない。つーかさ、とぱちりと目を開けて首を巡らせた。
「お前“あいつ”に刺されたの忘れてない」
「覚えてるっつーの。でも、お前が優秀な“設計士”なのに変わりはねえだろ」
あの潔すぎる性格どうにかなんねえの、と腕を組んだ岩泉が何の気もなしに言う。元はああいう性格じゃなかったって、と黒尾は笑って答えた。こういうとき相棒の後腐れなさがありがたいと思う。ふん、と岩泉が小さく鼻から息を吐く。
「忘れろとは言わねえよ。無理なんだろ。けど、いつかはちゃんと決着つけろよ」
「……わーってる」
柔らかな声で黒尾は頷く。飾り気なんてない、優しさとはけして自分では分類しないだろう気持ちが心底ありがたいと思う。
よっと、と声に出して黒尾は身体を起こした。すっかり冷めたコーヒーを飲み干して、ほとんど空になったカップを台に置く。
「“設計士”はこっちで当たる。“偽装師”の件は頼むな」
指差された岩泉が、それはいいけど、と訝しげな表情をする。
「心当たりあんの」
「んー。心当たりがありそうな人に、心当たりがある。久々に帰ってきたわけだし挨拶がてら訪ねてみるよ」
「そういやお前、この辺出身なんだっけか」
「まあ、ね」
正確には実家は隣の区なのだけれども同じ沿線上だ。一回くらいそちらにも顔を出したほうがいいか、とふと考える。電話で連絡は取ってきたけれど、大学を一年で中退したあの頃から約5年間まともに帰っていない。ああ、そわりと、視界の端を風に揺らぐカーテンの裾が横切った気がして、黒尾は目線を辺りに走らせてからスラックスのポケットの上へそっと手を這わせた。コマは確かに止まった。だからあれは夢で、これは、夢ではない。
小さくため息をついて目を瞬いたのを岩泉が何も言わずに見ているのに気づいて、黒尾は何だよ、と嘯いて笑った。それに騙されたのか元より気づいていなかったのかは分からないが、岩泉はいいや、と普段どおりの素っ気ない声音で言う。
「どうしても見つからなかったら、最悪俺がやればいいんだしよ」
「お前が?」
不機嫌だと勘違いされやすそうなむすっとした岩泉の顔は、冗談のつもりも励ましのつもりでもなさそうだ。黒尾は台の上に肘を突き、手の甲に頬を乗せて斜めに岩泉を見やる。
「それ、ほんと最低サイアクの状況になったら、な」
「はあ?」
いささか不満気に睨んでくるその視線を黒尾は目を伏せがちに、首をゆるく横へ振って受け流す。お前はさ、と呟いてコーヒーのフタに目を落とし、ぴん、と弾いた。小さな空洞が反響して乾いた音を響かせる。
「残念ながら、イマジネーションが足りねえんだよ」

 ***

久々に訪れた母校は記憶の中のものとほとんど変わっていなかった。敷地内に点在する、順々に増えていったのが見て分かるそれぞれ外観デザインも経年劣化の度合いも違う建物に、門から少し入ったところにある大学の中心を貫くイチョウの並木、その奥にある大きな公会堂。ちょうど講義の最中なのか、敷地内を歩く人の姿はまばらだ。昨今は物騒な事件もあるからスーツ姿の自分は門の前の警備員に見咎められるかと思ったが、そんなことはなかった。まさか就職活動中に見られたわけでもないだろうな、と自分の格好にちらりと視線を落としてから黒尾は建築学科の研究室のある棟へ足を向ける。
ビルのような外観の窓の少ない第3棟は教員室や研究室などが集まった建物で、学生は元より人の出入りはさほど多くない。自動ドアを潜り抜け、濃いグレーのマーブル模様のタイル床に靴音を響かせ、黒尾は建物の中央に大きく取られた吹き抜けを見上げた。明り取りのガラスの天井の向こうには味気ない白っぽい空が格子に区切られて横たわっている。くすんだそれに特に何の思い出も呼び起こすことなく顎を引き戻し、吹き抜けの広いスペースに伸びる二階への階段を上った。
ドアの横に掲げられたプレートも、ドアの一部を細長く切り取った窓ガラスから覗く研究室の雰囲気も、見覚えのあるままだ。誰の姿もないのを確認して、黒尾は小さくノックをしドアを開けた。大学の研究室にありがちな雑多な雰囲気はまるでない。教授室と隣続きのこの部屋が小さくて狭いこともあって綺麗に使おうとしているというのもあるのだろうが、いまだこの学科に無秩序に散らかる様が許せない教授がいるのだろう。建築関係の本がずらりと背表紙も揃って並んだ背の高い本棚に、スリープ中のデスクトップ型パソコンが2台、部屋の中央にある四角く組まれた折りたたみ式の長机の上には、講義か何かで使う作りかけの建築模型が置いてあった。誰かが寝泊りするでもない整理整頓の行き届いた部屋はどこか無機質だ。きい、と音がして教授室のドアが開く。黒尾の姿を認めてもさほど驚いた様子のない、初老の男性の姿がそこにあった。少しのこそばゆさにわざわざ黒尾は唇を引き結び真面目な顔を作って一礼した。
「教授、ご無沙汰してます」
「君はさ、こっちが連絡取りたいときはなかなか折り返さないくせに、突然連絡してきてこうしてやって来るんだから」
相変わらず抑揚の少ない、本心なのかどうなのか分かりかねる話し方だと思う。すみません、と言いながら顔を上げると、眼鏡の奥の小さな目がほんの少し細められていた。久しぶりだね、と穏やかに笑いかけられて黒尾も表情を崩す。
「5年ぶり?だったかな。君、退学したのいつだっけ」
「1年の秋です。在籍は一応その年いっぱいでしたけど」
白髪の混じった鼠色の髪に、細身の身体、人をじっと瞬きの少ない目で見定めるようにするのも昔のままだ。短い在籍期間の中で、教授の講義を熱心に受講したわけではないのだけれど、黒尾が今の仕事を始めたのはこの教授のおかげと言ってもいい。椅子を引いた教授に促されて、黒尾も長机の端の席に座った。
「ご両親は。元気かい」
「ええ。最近はもう顔見せろと言うのに飽きたみたいですけど、嫌味を言うくらいには」
今はもう黒尾の父も建築関係の仕事をしていて母も専業主婦だけれど昔、黒尾と似たような仕事をしていたころがある。教授と両親はその頃の知り合いだ。
両親が建築を学んでいたこともあって幼い頃から家にはそれ関連の書籍が山のようにあった。読書が嫌いではなかった黒尾がいつしかそれらの本に手を伸ばすのは必然とも言えたし、黒尾が中学に上がったころ、秘密だと言って父が押入れから出してきたジェラルミンケースの不思議な装置を使って見せてもらった景色は、ますます黒尾を建築とその世界にのめり込ませた。建築学科に進もうと決めたのは早かったが、行きたい大学が具体的にあったわけではない。そのとき、両親がこの大学に昔の知り合いがいると教えてくれた。決め手はそれくらいだ。
入学して早々教授室へ訪れた黒尾に教授は最初何の心当たりもなさそうな顔をしたけれど、自己紹介を終えた頃にはときどき見せる面白いものを見つけたような目で笑っていた。この仕事の基礎的なことを教えてくれたのも、在学中にアルバイトとして仕事を紹介してくれたのも教授だ。
君はこの仕事に向いてるね、とはじめて教授とあの世界に入ったとき、教授が小さく呟いた言葉が今も黒尾のひそやかな自負だ。
「それで、君の事だから近況報告に来たわけではないんだろう」
笑わない瞳をしたたかに向けられて黒尾は苦笑いする。襟足のあたりを小さくかいた。
「腕のいい“設計士”を探してるんです。教授なら誰か心当たりがないかと思って」
「“設計士”? 君じゃだめなの」
「ああ、いえ、今回の仕事は大掛かりなんで、人手が必要で」
ふうん、と教授が口元に手を当てて考え込むようにする。変に勘繰られたわけではなさそうだけれども、と黒尾はその顔を見つめてから、スーツの襟元をぴっと整えて引っ張っりおどけるように薄く笑った。
「お忙しくないようだったら、教授自らお手伝いいただいてもいいんですが」
「それは難しいね。僕は引退した身だよ」
そっけなく返されて黒尾は大げさに首をすくめてみせる。冗談をわざわざ冗談と取らないのも昔と同じだ。大学の職に就いてからもうほとんど潜らないのだというのは出会ったときに聞いた。何故ですか、と理由を問うた黒尾に教授は笑って告げた。君なら分かるだろうと一言。今だからこそ、それはよく分かる。
僕も今は昔の仕事仲間とは疎遠だからね、と教授が前置きして面を上げた。
「ドクターコースにセンスのいい子がひとりいるんだ。その子を紹介するよ」
「経験の有無は」
「ない。けど、良いものはある」
君ほどじゃあないけどね、といたずらに笑って教授が席を立った。背後で研究室のドアの開く音が小さくする。その方向を教授が見やって声を上げ、入ってきた人物へ手招きした。
「ああ、ちょうど良かった。君に紹介したい人がいるんだ」
「はあ」
教授の言い方に期待したわけではなかったが、いささか気の抜けた声が明らかに男のものだったことに多少の残念さを覚える。まあ仕事仲間になるのだったら関係もないか、と立ち上がりかけたそのとき、
「赤葦君」
と教授が口にした名前に黒尾は目を見開いた。思わず弾かれるように振り向く。人違いだ、そうとっさに唱えた願いは願ったことさえ忘れてしまうほど一瞬にその見覚えのある顔の前で、夢のように、消える。
赤葦。
実際は声に出せたかどうか、もう不確かで分からない。開きかけた自らの唇から微かに震える吐息がこぼれ落ちたのはなんとか認識できた。瞬きのなかで、糸が張り詰めたようにはっと息を止めてからその声が黒尾の世界を縫いとめた。
「……黒尾さん」
5年前のあの日、黒尾が置き去りにした面影を仕舞いこむことなく残して、蜜月を分かち合った面差しがほんの少し大人びた空気をまとって黒尾を見つめていた。柔らかなくせっ毛も、今は自分をよく目に含むように大きくした眠たげな双眸も、深く、冴えた声音も、黒尾の知る赤葦との差異を一目で探すことは難しいほどに、変わってはいない。何かを言いたげな赤葦の口元から逃れるように、黒尾は目を伏せて浅く息を吸い込む。今さら言い訳をしようなどとは毛頭思わなかった。どんな理由があろうとも、たぶんに赤葦が捨てられたと感じるならばそれが真実でしかない。歪みかけた唇を小さく噛んで黒尾はまぶたを持ち上げ、その据わった目を赤葦に向ける。
「久しぶりだな、赤葦」
昔からあまり表情の出ないその顔にそれでも滲んでいた驚きがすっと引っ込んで、様々に入り混じった感情がひとつ、苦さとして赤葦の眉間に表れる。わざわざその顔に黒尾が傷つくことはしなかった。ええ、と重たい返事が赤葦の唇の端から漏れる。それを認めてから黒尾は教授を振り返る。
「教授、すみません。お願いに上がって失礼を働きますが、今の話はなかったことにしてください」
「それは、別に構わないけどね。君たち知り合い?」
この雰囲気の中でも飄々とした様子で教授は黒尾と赤葦のあいだを繋ぐように人差し指を揺らす。
「少し」
余計なことは何も形にしたくなかった。余分なことを、何も感じ取られたくなかった。だから黒尾は赤葦を見なかった。
「やっぱり経験者を当たります。俺もまったく知り合いがいないわけじゃないんで」
すいません、と頭を下げてもう身体を翻しかけると、気をつけるように、と静かで穏やかな声が答えた。その顔を一瞬捉えて黒尾は笑い、背を向ける。赤葦がまだドアの近くで小さく睨むようにこちらを見ていた。その視線に黒尾は気づかないふりをして大股で横をすり抜ける。ドアノブを素早く回して引き開けて、
「どうぞお元気で」
と、自分よりほんの少し小さいだけの背中が振り向く前に、もうドアの隙間を見送らないで黒尾は研究室を後にした。
廊下を鳴らす足を急がせる。高い高い吹き抜けの天井に砕けて吸い込まれるように足音が重なって打ち消し合った。手すりに手を這わせて角を曲がり、1階への階段に差し掛かる。たんたんたん、と小気味よい音を刻み始めたとき、案の定自分を追いかけてきた足音を聞き分けた。
「黒尾さん!」
背中に投げつけられた声に足元だけを見つめようとした視線がふわ、と泳いだけれど足は止めなかった。急ぐ黒尾の足音を捕まえようとするもうひとつがまぎれて割り込んで、追いつかれる。二の腕を強く掴まれて、黒尾は想定内の事態にそれでもため息をついた。気の向かなさを隠さずにのろりと振り返りると、数段上に立つ赤葦が先ほどより随分と険しい顔で黒尾を見下ろしていた。
「何だ。挨拶はもう済んだろ」
「あれが? 再会の挨拶はあんなもんで済ませて、5年前は挨拶すらなかった」
心の中で黒尾は息を呑む。ああ、あれは確かに蜜月だった。黒尾にとってだけでなく、今、目の前にいる赤葦にとっても。滲ませる怒りの内に赤葦が持つ必要のない後悔に似たひとつぶをすくい取って黒尾は、首を横に振りかけて、やめる。
「……あのときのことは、許してもらえるなんて思ってないから謝らない。ただ、悪かったとは思ってる。それ以上でも以下でもない」
「へえ」
苦く口の端を歪ませて赤葦がたぶん笑った。それが安易に黒尾に向けられたものではないことなどすぐに分かって、黒尾は微かに眉根を寄せる。こんなふうに、黒尾の知らないところで知らない数だけ、赤葦は誰かを笑うふりをして自分を笑ったのだろう。
「もう、いいだろ」
そう言って黒尾はもう力の入っていなかった赤葦の手を腕から剥がした。冷たくて大きな手だ。いつだったか木枯らしの吹く寒い夕方、お互いさまだと軽口を叩き合って温かくもないその手を繋いだ。温めあえないのだから離してもよかったのに、離す理由はなぜか見つけようとしなかった。夢のように鮮やかにこんなにも容易く思い出は蘇る。なるたけやさしく押しやろうとした手が不意に翻る。今度はそれが黒尾の手首を掴む。小さくため息をついてやって、黒尾は赤葦を見つめ直した。
「離して」
「いやです」
まるで駄々をこねるような言いかただ。ときどき黒尾の前で見せた年下の顔がどうしても懐かしくなって、黒尾は悟られないようにほんの少し目を眩しくさせる。赤葦はもう笑っていなかった。怒りは少し引っ込んで落ち着きを戻した顔で視線をぶつけてくる。
「仕事の話でここへ来たんですよね」
「そうだけど、お前には関係ない」
むっとした表情だけはすぐに顔に出るところは今も変わっていない。
「人手を探してるんでしょう。ほんとに当てはあるんですか」
「つてくらいあるさ」
ないから来た、とは言えない。正確にはないわけではないが、知り合いの多くが運の悪いことに仕事で手が空いていないという状態なのだ。もう少し範囲を広げて探せば一人くらいは見つかるだろう。小さく笑って黒尾は掴まれた手首をゆるく引っ張る。離してよ、とため息混じりに言った軽い懇願は鼻先であしらわれた。
「どうせないんでしょ。言ってましたよ教授。自分を頼ってくるなんて珍しいって」
「……」
「舌打ち、ってことは図星ですね」
察しがいいところもそのままだ。だからこそ、今の自分に関わらせることは避けたかった。今日何度ついたか分からないため息に首を振って、黒尾は足元に目線を落とす。
「遊びじゃない。仕事なんだよ」
「分かってます。仕事なんでしょ。だったら余計に昔の恋人だからだめだなんて理由、ないですよね」
強気なところも変わらない。だめだ、そう突っぱようと言いかけた黒尾の言葉に覆いかぶさるように、いいでしょう、と赤葦の声がふたりのあいだにこぼれて、誰もいない静かな吹き抜けの空間に響くことさえ拒んで消える。その声音の硬さに反しての、むしろ準じた脆さを迂闊に感じ取って黒尾はそっと赤葦を見上げた。揺れはしないまつ毛の下で自分をまっすぐ見据えるその瞳に、どうしてと無遠慮に問う資格が自分にあるとは思えない。引き止める赤葦の手を力ずくで振り払うことはできるだろう。けれど、拒む理由はいつだってなかった。あのときでさえなかった。
「教授のゼミでいちばん優秀なんですから、役に立ちます」
大人しく聞き分けの良い顔に一滴のわがままをくわえて、赤葦が目を細める。
「……分かったよ」
了承の言葉をようやく黒尾から引っぱり出した赤葦の顔は少しほどかれて微笑みに似たかたちになった。嫌ってなどいないと今さらこんなところで証明してみせて何になるだろう。そんなことを黒尾が心の中でごちてももう意味がない。手首から離れていく相変わらず低温の感触に名残惜しさを自覚する前に、その顔に甘かった自分のことを黒尾はふと、思い出した。

 -・・・ --- ・-・ -・・ ・ ・-・

「こちら、ダークモカチップフラペチーノになります」
傾げるにこやかな笑顔ともに渡されたカップを受け取って黒尾が振り返る。
カウンターを背後にして、外で、とその唇が短く告げたのに、赤葦は目を瞬きながら明瞭な形を作れずに返事をした。人肌よりも熱い熱源が自分の左手の中にある。一瞬過ぎったその存在に抱いた疑問は細く立ち上る湯気とともに消え去ってしまった。何の変哲もない、香ばしいコーヒーの香り。それを吸い込んだ瞬間、赤葦は自分を取り囲むものをごく自然に意識の下へ滑り込ませる。馴染みあるコーヒーショップのミッドセンチュリー風に落ち着いた内装。等間隔を時折乱した配置のダウンライトの拡散ぎみの光。ときどき間違ったようにきらめいて、目を離す。天井から長いコードにぶら下がるペンダントライトは店内にいくつか据えられたミドルテーブルの上に光と影を落としている。木目のきれいなウォールナットの天板、その前に設えられた背の低いアームチェア。店内の明度はまどろみには少し遠く、影をうっすらとまとう余裕を残していてスローテンポの優しい音楽とほどよく釣り合う。くつろぐ人々の形のないさざめく話し声に笑い声、食器のかち合う音、椅子の足を引きずる床の音。見知った顔はいない。ごく当たり前のことに赤葦はなぜか一度気を留めた。
仕事の話を、といざなわれて大学を出たことを、黒尾の背中を追いかけテーブルとテーブルのあいだをすり抜けながら赤葦は思い出す。天井まで届きそうなほど大きい黒枠の窓のひとつからテラス席へ出る。秋の少しひんやりとした空気と晴れた日差しが境い目が分かる程度には隣り合って、心地よい気温だ。あまり広くはない作りのその場所にはコーヒーテーブルとイス2つの組み合わせが等間隔に並んでいる。空いている席にたどり着き腰を落ち着けた。テラスの塀には目隠しにもなる高さ30センチほどの鮮やかな黄緑色をしたツリーのような植え込みがある。首を伸ばしつつ下を覗くと、あれ、と赤葦は思い込みが裏切られた気分になったのだけれど、疑う余地なくここは建物の2階だった。枯葉の落ち始めた往来にときどき車が行き過ぎ、路上駐車のルーフには落ち葉がはらはらと幾枚か降り積もっていた。行き交う人々の中黒のような頭を左右に追ってから並木道の向こうを見やる。大きな川が右手の方から流れていた。太陽の光を反射して、ゆっくりと流れの早くない水面がきらきらと眩しく光っている。それを見つめながら、手の内をじんわりと温めるカップに口を寄せて赤葦はミルクの入ったコーヒーを一口味わう。
どこかで見たような風景だ。自分の中に確かな既視感があるのに疑わしさを疑うことが出来ないくらい、その正体はよく出来ている。まるでつなぎめも糊の跡も見えないようとても上手に切り貼りされた風景の中にいるような、とそこまで考えて赤葦は眉をひそめた。下らない、と思いつつも頭の片隅に置いたまま、目の前でストローをかじる黒尾を見る。黒尾さん、と思わず口に出た言葉に黒尾が外へ投げかけていた視線をこちらに戻した。
「ん」
テーブルに肘をつき、右目を隠す長い前髪の下でやわらかに目を細める。そのしぐさはまるで変わっていない。赤葦の前から姿を消したときから寸分も違わず、やさしかった。それに赤葦は奥歯を噛んでから、気を逸らすようにうまく繋がらない思考からふと目に留まったものに意識の重点を移す。
「それ」
「なに?」
「そんなの飲みましたっけ」
「ああこれ」
気づいて、黒尾が手に入った透明なカップを持ち上げた。冷たい汗のかいた側面に手早く描かれたスマイルマークがゆらゆらと揺れる。チョコレート色の液体にぐるぐると盛られた、クリームの山。見るからに甘そうだ。あの頃は間違ってもそんなものを口にするタイプではなかったのに嗜好が変わったのだろうか。さほど美味しそうに飲むわけでもないのに、と思っていると、黒尾がちら、と赤い舌を覗かせて唇をゆるく開きもったいぶるようにストローを軽くくわえて、伏し目がちにこくりと喉を鳴らした。そうして惜しむように一口味わい終えると唇を離して赤葦を見、口の端を上げて笑った。
「ここではこれ注文するって決めてんの」
「……ふうん」
「なかなか他じゃ頼みづらいからさ」
確かに男には注文しづらいメニューかもしれないが、黒尾の答えはどうもそぐわないような気がする。その収まりの悪さに首をひねる前に、さっきの続きだけど、と黒尾が呟いた。返事をしてから思考を手繰り寄せた。そうだ。ほんの少し前、黒尾は空想のようなあり得ない話をしていたのだ。思い出して赤葦はと小さな声を転がして笑う。
「夢のなかに入るって話、まだするんですか」
声にして、はた、と気づく。その一言一句を心の中で確かめるように反芻する。これも既視感だ。夢の中に入るんだ、と言われて、赤葦は何ですかそれ、と笑った。夢の中に入るって、と上手くない冗談をさっきもこんなふうにあしらった。目の前の顔が黒目をしたたかに光らせて口元も歪ませずにこちらを見据えていた。これを自分はどこで見たのだろう。
「赤葦」
心臓にひたりと吸い付く、その低くほんのりと甘い声に赤葦の泳ぎかけた目が捕まった。赤葦は自由を忘れた身体で無意識に息を呑む。
黒尾は言った。人は夢を見る生き物だと。嘘とは判別がつきがたいほどには現実味があって現実ではないと心のどこかが曖昧に判別をつける、その数センチ浮遊感のある世界に人は自分の心や思い出を投影する。そこには人の秘密が隠されているのだと。
俺はその秘密を抜き取る仕事をしているんだ、と唇が艶かしくひとつひとつの言葉を紡ぎ、赤葦の耳を侵食する。
「……抜き取る?」
「そ。秘密っていうよりアイデアっていったほうが概念的にはいいかな。本人すらまだ自覚していない思いつきだったり、種のようなものだったりすることもあるから。俺の依頼主のほとんどは企業なんだ。水面下の過激な情報合戦のひとつみたいなもんだよ」
盗み盗まれのね、と黒尾は人差し指をそらで往復させる。
「今回の依頼は少し毛色が違うけど、“設計士”にしてもらう仕事はいつもと変わらない」
「俺の仕事って」
「そのままだよ。設計だ」
小さく黒尾が笑って甘ったるい飲み物に口をつける。そうして辺りを見回して呟いた。
「よく出来てるよな」
「は?」
「お前だって、もう違和感くらい感じてるんじゃないの」
テーブルに腕を預けてぐっと距離を詰めるその顔から目を離せずに、赤葦は言葉なく見つめ返す。
「……この店はどこのものだ? このテラス席でコーヒーを飲んだことはあるか? あの川はいつ見たものだ?」
たぶんに秘密めいた声音が人を見抜く光の湛えた瞳に赤葦だけを映してささやく。

「赤葦、お前はいったいいつからここにいる?」

かた、と世界の重心の揺らぎがそのまま表れたのかのように、硬いものが小さくぶつかる耳障りな音が向こうのテーブルでした。カップとソーサーのかち合う音だ。そう認識したときにはその振動が赤葦を取り囲むすべてに伝わり始めていた。不安定で神経質な地響きが足元を揺らがせる。テーブルの脚、イスの脚が床を小刻みに叩く。見回せば、テラスの窓ガラスがその震えに表面をたわませ壊れそうな音を立て、植え込みの木々がざわざわと枝と葉をこすれ合わせ、不安だけを煽る。世界が音を立てて軋んでいる。地震などではない。なぜなら自分以外の誰もこの軋みを気にかけてる者がいない。先ほどと何も変わらない様で舌鼓を打ちおしゃべりを楽しみ足を急がせ、この世界を生きている。こんなふうになることも織り込み済みだというふうに、この世界を受容し続ける世界そのものに赤葦は鳥肌を立てた。壊れる。そんな考えが頭を過ぎって肝を冷やした瞬間に世界がさらに軋み、揺らぎを強くする。
そうだ、これは自分のよく知った世界だ。自分はこんなカフェのある場所を知っている。この、似たような細長いテラスを知っている。同じような川の流れる風景を知っている。カフェは1階にあったはずだ。テラスから見える景色は高架に作られた電車の駅で、川の河川敷はもっと広く少年野球のグラウンドが並んでいたはずだ。
「赤葦」
何かがはち切れそうな緊張感を抱えて警告のように鳴り続ける世界の音のなかで、赤葦は数度呼ばれた自分の名にやっと気づいた。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳が、今、黒尾だけがこの世界で自分を認めている。どっ、と心臓が脈打つ音が身体に拡散して肩が揺れた。浅く吸い込んだ空気が、やけに冷たくて喉が小さく鳴る。再び黒尾が名を呼んだ。大きな手が赤葦に伸びて、長い指が頬骨にかかる。しっとりと冷えた赤葦の頬を小さく叩いた。
「落ち着けって」
大丈夫、と言い聞かせる黒尾の声を聞きながら赤葦は目を閉じ、深呼吸した。それは何も変わらなかった。赤葦が無意識にでも、そうしたいと願うようも頼った声のかたちも、触れられることが愛おしいと感じた頬を包む低音の肌の感触も、すべてがあの頃のようにやさしく穏やかだった。これも夢なのだろうかと思うことすら出来ないほどに、夢でも構わないと思うほどに、何もかもが赤葦の覚えているそのままで、ああ、この胸の痛みだけは夢ではないのだろうと赤葦はひそやかに喉を下っていくひりつきをやり過ごすために、もう一度深く、呼吸した。
世界の傾きがゆっくりと平静に立ち返る。足元から響く揺れと軋みが徐々に収まって世界から引っ込んでいく。やがて水面の静けさを取り戻して目を開ければ、いい子だ、と黒尾がいたずらな顔で笑うのを見る。その顔に心許すように安堵する自分が少し恨めしかった。
「……黒尾さんはその仕事を一人で?」
まだ心臓の早鐘が端に滲む声に、目をぱち、とさせてから黒尾がゆるく首を横に振った。指先が頬から離れていく。その手がテーブルに置かれたカップを取った。
「いーや。いつも数人と組んでる。いろいろ役目っつーもんがあるから」
「今回は?」
「お前の他に2人はいるよ。大きな仕事だから今信頼できる奴を集めてる」
そこでふと赤葦は黒尾の幼馴染のことを思い出した。孤爪は、と呟くと黒尾が不思議そうな顔でストローをくわえたまま首を傾げる。チョコレートドリンクはもう半分ほど減っていた。
「なんでそこで研磨?」
「幼馴染でしょう。仲間なんですか」
そこで黒尾がなんとも形容しがたい、どうにか言うならちょっと傷ついたふうに微笑んで、ああと漏らして背もたれに身体を預けた。昔からふたりのあいだに言葉が足りず空回ったときはなくて、言葉少なくても別のもので補う必要はなかった。今もそれは同じで、だからサトリに似たふたりにとって量りかねるような距離が結局ないのは、ある意味面倒だ。
「いいや。仲間じゃない。俺の仕事のことも知ってるし夢の中に連れてきたこともあるけど、違うよ」
「そう、ですか」
やっぱりと赤葦は納得する。黒尾の幼馴染が知っていたということに傷つくことはない。仲間でないことにひっそりと安堵したことに黒尾は気づいているだろう。追求はせずに、黒尾がそっと頭をかく。
「あいつゲーム好きだろ。この仕事けっこう合ってるんじゃないかと思ったんだけどさ、1回でもーやだって」
研磨らしいわ、と声にして黒尾は笑う。
「何でです」
「うん」
目線を合わせるのをわざと避けるように、飲みさしのカップを左の手で包んで、とん、とテーブルを叩く。うっすらとカップの肌に張り付いていた水滴がやさしく振り落とされて黒っぽいスチールの天板に震えて留まる。
「あいつ、痛いの大っ嫌いなんだ」
「は?」
「つまりさ、こーゆーこと」
顔を上げて赤葦を見つめると同時に、陰に隠れていた右手からするりと手品のように一丁の拳銃が滑り出て、ぴた、と差し向けられる。テレビでしか見たことのない鈍く黒光りした重そうなそれの奥で、黒尾がひとかけも表情を崩さずにいた。何の冗談ですか、と言おうとしてそうかこれはそんなようなものだと思い直す。これは夢だ。
リボルバーの撃鉄に親指がかかる。かち、と小気味良い音が響く。木製のグリップのトリガーに人差し指がかけられているのを見る。相応の力が込められるのを見て取って、引き金は意外と重いのだとくだらないことに気がついてまだこれが夢だということが信じきれなくて、ああ、これは夢に違いないのだけれども、銃口からつまらない手品みたいにぽんと陳腐な花が咲くのをどこかで期待しているのは、夢みたいな話なのだろうか。
黒尾の指が合図のように、ずどん、と引き金を引いた。火花と煙が吹き上がったときにはもう鈍く弾ける音が赤葦の眉間を貫いていて、皮膚と骨を焼きのめり込む重みが知りたくもなかった激しい傷みを赤葦のからだに走らせて、黒尾に、撃たれたのだ、そのことに怒りも悲しみも湧かないのはこれが夢だと知っているからで、痛い、ああ今きっと脳髄まで弾が届いたんだろうと冷静に思う自分がいて、そんな感覚を追い切れるはずがないだからこれは夢であるべきだと、赤葦は片隅で思ったことも夢のように忘れて、死んだらどうなるんだろう、これが夢だったら目が覚めたらいいのに、そう平らになった心で願ったときには、コンセントを引き抜いたテレビのようにぶつん、と目の前が、真っ暗に、なった。

 -・・・ --- ・-・ -・・ ・ ・-・

「、っ……!あ、」
「おっと」
飛び起きた身体が何もつかめず空をもがき確かな力に胸を押し返され、赤葦は後ずさろうとして出来ずに身構える。整理しきれない脳みそがとっさに辺りを見回して認識できたのは、大丈夫か、といささか心配そうな表情をする顔だった。浅く早くなった呼吸で、ふ、と息を吐いて赤葦は瞬きに見るその顔にようやく心当たりを得た。夢に入る前、黒尾に紹介された男だ。名は、岩泉と言っていた。そこでようやく記憶を探り当てて自分が大学にいるのでもなく、コーヒーショップにいるのでもなく、ましてや夢の中にいるのでもなく、黒尾に連れて来られた廃工場にいるのを思い出した。強張った身体の緊張を解くように息を吐いて背もたれへ沈み直した。ぎっ、とチェアの布張りの背もたれが体重に軋む音がして、赤葦は額に手を乗せ一度ゆっくりと瞬きする。コーヒーの苦味が残るような気のする喉はもう飲み込んだ唾がへばりつくように乾いている。岩泉がちら、とこちらを覗き込む。
「平気か」
「……はい」
低く喉に掠れを残す声を聞きながら赤葦は額を指で探り撫でる。もちろん、撃ち抜かれた跡も痛みも今の自分にはない。けれど感覚の端っこはまだ鮮やかだ。散る火花に硝煙のつんとして喉に沁みるような匂い、銃弾の骨にのめり込む感触、衝撃、気の遠くなるほどの痛み。思い出すとあまりに現実味を帯びた感覚に背筋や腕の皮膚がぞわりと粟立つ。この上なく居心地が悪い。
ほら、と差し出された水を小さく礼を言って受け取った。ペットボトルに口をつけ潤うその心地にほんの少しの安堵を得る。喉はからからなのに、胃袋のあたりは満たされているように思うのは変な気分だ。いまだに少し宙ぶらりんになっている気持ちを落ち着けるように、赤葦は目を閉じ瞬いては閉じて、意識して呼吸をする。ふと、岩泉を見ると腕時計に目をやっている。
「けっこう早かったな」
「え、30分くらいは中にいませんでした」
「いや、まだ3分も経ってないぜ」
さらりと岩泉は言って時計から目を離し、赤葦の腕にコットンを強めにあてて点滴の針をゆっくり引き抜く。一瞬違和感に赤葦は顔をしかめた。少しの間押さえてろ、と言った岩泉の顔と抜いた跡を交互に見やりながら、訝しげな表情のままでいると岩泉が人の良さそうな微笑みを口元に乗っける。
「もしかしてまだ聞いてなかったか。夢の中は時間の進みが早いんだよ。3分が1時間になるんだわ」
「そう、なんですか」
「だから最初は慣れねーし疲れっから5分くらいでキックする予定だったんだけど」
「キック?」
すべてがふわついていて夢のような話にどうにもさっきから頭が追いつかない。赤葦の手からペットボトルを受け取った岩泉が、じっ、と顔を見つめたあとで腰に手を当てため息をついた。
「その様子じゃろくな死に方しなかったか」
まあ予想は着くけどな、と視線を一回外して、またすぐに赤葦へ戻した。
「……夢から覚めるには2つ方法がある。ひとつは夢の中で死ぬ。死に方は問わない。気持ちいいもんじゃねえけど手っ取り早い方法ではある。それと、」
と言いながらぐるりと赤葦の背後に回る。それを目で追っていくと、迂回した先、赤葦の斜め後ろに赤葦と同じ折りたたみチェアに背を向け身体を丸める黒尾の姿があった。あ、と口の中で小さく声を上げた赤葦を認めて、岩泉がにっと赤葦に笑いかける。
「これがふたつめだ、っと」
「おわっ!」
がん、と黒尾の寝ている椅子の後ろ脚をすくうように岩泉が思いきり蹴って、寝ていたはずの黒尾が大声を上げて飛び起きる。赤葦が呆気にとられている中で、反動で椅子の前脚が宙に浮き、ぐら、と後ろへ倒れそうになるのを黒尾がばたばたと手足をもがいてどうにか堪えきった。がた、ん、と椅子が床へ元通りに落ち着いたところで黒尾は安堵の息をつくなりに顛末を見守っていた岩泉を睨みつける。
「っぶねーだろ!」
「ドアホ。狸寝入りなんかしてるからだっつーの」
趣味悪いわ、と岩泉は噛みつく黒尾を意に介さず赤葦の方へ戻ってくる。ふたつめは外からの衝撃で起こすやりかただと岩泉が言った。キックとはほとんどそのままの意味らしい。こっそりと窺うように黒尾を見ると、猫背に不機嫌な顔を作って手慣れた様子でチューブとつながった針を腕から抜いていた。そのうち赤葦の視線に気づいて黒尾が顔を上げる。なぜだか一瞬どきりとして自分がそんなふうになったことに赤葦は少々苦い気持ちになる。何の気もない黒尾の小さな黒目が赤葦を捉えてまもなく口の端が、にた、と笑んだ。
「すげー顔」
その顔の、目の伏せかたも唇の歪めかたも、何より先に綺麗だと見惚れる自分はたいがいだ。おおまかにはそのことに腹を立てたのではなかったのだけれど、赤葦は気づけば椅子から飛び降りつかつかと黒尾の方へ歩み寄っていた。
「この顔が見たくて俺を撃ったってわけですか。随分といい趣味っスね」
見下ろす自分に見向きもせずに、黒尾は赤い血の点がぷくりと膨れるのをそのままに、チューブから針を抜き取ってくずかごに、ぽい、と投げ捨てた。コットンをゆっくりと、さし跡に押し当てる。
「いい顔だったよ。まさか撃たれるなんて思ってもみなかったって顔。そういうのサイコー」
肩を揺らして笑う黒尾にたしなめる岩泉の声が飛んだが黒尾はやめなかった。は、とこぼしてから息を吸い込み、笑いを収める。
「この仕事をすればどの道いつか殺される。銃なんていちばんあっけなくて気楽な方法だ」
チューブがするするとトランクの側面に開けられた穴を通り、リールに巻き取られていく。黒尾は上目遣いに赤葦を見、目をやんわりと細めた。
「まさか俺に殺されるとは思っても見なかった?」
その言葉に、赤葦は鋭く息を吸い込んでぐっと拳を握り締める。黒尾、と諌める岩泉の声も少し硬い。それが理解できるほどにまだ赤葦は冷静だ。食らいつくように黒尾を睨み、息を吐く。
「……次は、俺があんたを殺しますよ」
「いーね、それは本望だ」
ころしてよ。
物騒な言葉のかたちにそぐわずそれはやさしく笑っていて、その願いを言葉変えて、ああ、変えなくても自分は分かるのだからあのとき言ってくれたら、きっと黒尾をひとりにはしなかっただろう。赤葦はぐっと唇をかみ締めると、テーブルに置かれた自分のバッグを掴んで踵を返した。
重たい扉の引き摺られ閉じる音ががらんとした工場に響く。赤葦の後姿を見送っていた岩泉が胡散臭いものを見る顔で黒尾へ視線を送る。
「お前、その癖、いい加減にしろよな」
「言ってることがわかんねえよ」
黒尾が背を折り曲げて俯き、両の手で顔を覆い緩慢にさすった。
「つかこれで断られたらどうすんだ」
「ああ、それはないよ」
手をぶらりと脚の間に下げて、黒尾がぼんやりと中空を見つめる。戻ってこなくてもいいんだけどさ、と呟いたのに岩泉はうっかりと本音を聞いてしまったような気がして少し居心地が悪くなった。静かな目で、ここではないどこかを想うように黒尾は微笑む。
「思い通りになる世界なんて“設計士”にとってはそれこそ夢みたいだろ。それにあいつ、次って言ったから」
負けず嫌いなんだよ、とため息は小さな冬の香りとかたちをさせ白く砕けて消えた。

 ***

呼び止められて、赤葦は振り返る。住宅街の路地をスーツ姿の岩泉が駆けてやってくる。赤葦の前で足を止めると膝に手をつき少し切れた息をすぐに整えて面を上げた。
「駅までの道、分かるか。ここらへん目印になるような店とかあんまねーから」
途中まで一緒に行くよ、と言った岩泉の声は別段柔らかくもないのだけれど、裏のない分かりやすい性格だと思う。きっと装うことが苦手な、そのままの優しさだ。
「……助かります。正直どうやってあの工場に来たのかあやふやで」
「いいや。装置で使う薬のせいもあんだろ。初めてなんだからそんなもんだ」
歩き出した岩泉の横に赤葦は並んだ。背は、数センチ自分のほうが高かった。あの、と声をかけると、粗野で飾らない返事がした。
「二人はずっと組んで仕事してるんですか」
「ああ、俺が大学卒業してからぼちぼちって感じだから2年くらいか」
三白眼の瞳が横目に赤葦を見る。
「お前、黒尾と同じ大学なんだろ。やっぱあいつに影響されたの」
「や、もともと理数系なんですけど、……されてないとは言い切れないスね。あの人の部屋に親のだって言う建築関係の本置いてありましたから」
自分の前で、それが好きだとは黒尾は一度も言わなかった。けれど嫌いだとも言わなかった。面白いよ、と大学を決めたときに言ったのは覚えている。恋人の背中を追いかける、そんな甘ったるいものではないのだと何回も赤葦は打ち消してきたけれど、面白いと笑った理由や突然中退して自分の前から姿を消した理由が転がっている筈ないと分かっていても、何かが分かるかもしれない、そんなふうに思っていた節は今日までどこかにあった。
「未練たらしいなとは、思います」
そう呟くと岩泉が足を止め、仏頂面で唸りながら頭をがしがしとかいた。こーゆーのは俺の柄じゃねんだよなあ、とぶつぶつ一人ごちてそれから首を傾げる赤葦に、ちょっといいか、と言った。
連れられていったのはすぐそばにあった少し大きな公園だった。遊具の少ないその公園は周りが木々で囲まれていて、中心は芝生が敷き詰められている。今は色も朽ちて少し寂しいけれど、ところどころある落葉樹の紅葉はそれなりにきれいだ。橙に黄色、赤の落ち葉を踏みながら、芝生の脇にあるベンチに岩泉が腰を下ろす。ほいよ、と入り口の自販機で買った缶コーヒーを手渡され赤葦も隣に座った。
俺もちゃんと聞いた話じゃねえから、と前置きして岩泉が缶を手の中で転がした。視線の先には芝生の上でフリスビーで遊ぶ親子の姿があった。楽しげな声が秋の高い空に吸い込まれるように響き渡る。
「黒尾は、いい“設計士”なんだ。今みたいに組む前、俺が大学生のときにも数回仕事一緒したことがあるんだけどよ、想像力もあって丁寧で緻密で、同い年ってのにすげーびっくりしたんだわ」
懐かしそうに岩泉が笑った。
「そしたら大学行ってないっつうから余計驚いてさ、中退したっていうから理由訊いたんだ」
仕事で失敗したと黒尾は笑ったという。後々別のところから耳に挟んだ話によると、当時大学生だった黒尾が参加した仕事でリーダーがミスをし失敗に終わった一件があったとのことだった。この仕事は闇稼業に近い。特に企業絡みの仕事はリスクが高く、失敗すれば命を狙われることもある。そんな理由から黒尾もほぼ巻き込まれる形で一時期身を隠していたらしい。
「心当たり、あるか」
見つめられて、赤葦はゆっくり頷いた。
「別にかばうつもりはねえんだ。けどあいつは絶対こんなこと話さないと思うからさ。どんなふうにお前と別れたんだか知らねえけど、あんなふうになるなら待ってろって言やあよかったんじゃないかって、俺は思うよ」
むすっとした顔で岩泉は長く息を吐いてベンチに寄りかかる。青のフリスビーが、ふわ、と空に回って舞うのを見る。赤葦は、ふと、目を瞬いて岩泉を見返す。
「……俺、岩泉さんに黒尾さんとのこと話しましたっけ」
「え、ああ、それはこれから話す」
音をさせて小さな缶コーヒーの口を開ける。
「俺、夢の中で何回かお前に会ってるんだわ」
「は?」
「夢ってのは潜在意識でもあってさ、自分の意識できない欲や想いが表れるものでもあるんだよな」
「それ何の話スか」
「単刀直入に言うと、黒尾の夢の中には“赤葦”、お前の幻影が巣食ってる」
「……意味が、わかんないです」
眉間に皺を寄せて赤葦を見たあとで、だよな、と岩泉が頭をかく。
「このあいだの仕事の最中にもお前が出てきたんだ。“赤葦”は黒尾の潜在意識だから黒尾の設計した夢の構造を把握できる。どこから潜入するつもりか、いざってときの隠し通路の場所、そういうの全部筒抜けなんだ。んで、案の定邪魔された」
「邪魔」
「刺された。俺がな」
からからと笑った岩泉に、赤葦はなんと言っていいか分からない。
「……黒尾の潜在意識にいる“赤葦”はたぶん、黒尾のことを夢の中に留めたいんだな。仕事が終わらなければずっと黒尾が夢の中にいると信じてる。そのためなら何だってする。一緒に、いてーんだ」
最後の言葉が胸に痛いほど沁みて、赤葦は缶を握り締める。黒尾の潜在意識に“赤葦”がいること、夢の中の“赤葦”が願うこと、それはすなわち黒尾の無意識な想いだ。5年前枯れた涙はもう出ない。けれど心はそれ以上に張り裂けそうにひりついた。
聞けば、黒尾の夢の中に“赤葦”がたびたび現れるようになったのは赤葦と別れた直後からなのだという。最初、幻影の“赤葦”は黒尾の前に姿を現すだけで危害を加えることなどなかったのだが、徐々に黒尾への行動がエスカレートしていき、一年ほど前に既に似たような一件があってようやく岩泉は問い詰めた。別れた恋人だということはそのときに聞いたのだ。ろくな別れ方しなかったんだろうってことは、まあ訊かなくてもな、と岩泉がコーヒーをすする。
「今日、黒尾に撃たれたろ」
「え、あ、はい」
「あいつ、幼馴染にもおんなじことやってんだよな」
素質ありそうだって誘ってみたのは自分のくせに、と軽くため息をつく。そういえば、撃たれる直前黒尾がそんな話をしていたのを赤葦は思い出した。痛いのが大嫌いなんだとはその話だったのだ。それやった後一ヶ月はメールも電話もガン無視されたらしいぜ、と岩泉が少し笑ったので、赤葦もつられて口元を崩す。
「乱暴すぎて、いっそ清清しいです」
「まあな? 殺していいかって訊いて覚悟が出来るとは限らねえし、仕事を続けることになれば毎回味方に殺ってもらえるとも限らねえからな。さくっと敵さんに不意をつかれることもあるし」
それなら最初に俺がってとこかな、と言った岩泉の顔はもう笑っていなかった。
「大事なもんは手離すもんじゃねえし仕舞い込みもしないほうがいいって俺は思うんだけど、そう単純でもないのかね」
芝生にいた親子はもうフリスビーで遊ぶのをやめていた。母親に手をつながれてじゃれつく子どもの飴玉を砕いたような笑い声が公園に跳ねる。
「俺の話、分かるか」
「……はい」
岩泉の横顔を見つめて、赤葦はぽつりと返事をする。置いていかれたと思ったときから分かっていた。黒尾が自分を捨てたのではないことくらいも、再会した自分のわがままを突っ張りきれなかったことも、ころしてよ、そう言ったときの願いも、何もかも、どうしてなんて理由は冷えた空気にではなく、この喉がひどく擦り切れて痛むのに分かる。ぜんぶ、自分のためだ。笑いかたも、手の温度も、赤葦を見る眼差しも、あのときと何も変わらずにいて、それは自惚れなどではなくあのときから黒尾の想いが変わっていないからだと、いつもと同じ言葉足りないやさしさに自分だからぜんぶ分かる。それでも涙は出ない。こぼさないのでいいのだと、角度がほんの少し違うだけで心持も少し違うものだと、赤葦は自分のために微かに笑った。
ならいいんだ、とどことなく安堵した声がして肩を小さく叩かれた。立ち上がった岩泉に、行くか、と促されて赤葦も腰を上げる。
「で、どうする」
「何がですか」
「仕事だよ」
一気に飲み干したコーヒーの缶を岩泉がしゅっと、近くのゴミ箱に投げ捨てた。赤葦はそこでようやくまだ手にしていたものを開けてもいないことに気づく。
「俺はお前と初めて会った気がしねえから? 一緒にやんのは悪くねえなって思うけど」
あっけらかんと笑う岩泉に、赤葦は小さく噴き出した。自分ではないとは言え、刺した犯人そっくりの人物を前にして恨んだふうもなくさらりと言えるのは、随分と器が大きく人が良い。だから今の黒尾とも組めるのだろう。本当にいいんですか、と訪ねると、おう、と気前のいい返事がした。そして、赤葦の下から上までをすっかり眺めるようにする。
「ちょっと違和感あると思ったら、そっか、黒尾の中のお前も昔のまんまなんだな」
「俺どんな姿してるんです」
「ん、高校のじゃねえかな、制服着てる」
あのときのままだ。ふたりで過ごした蜜月のまま黒尾の時は止まっている。黙り込んだ赤葦を見て、お前たち、よく似てるよ、と岩泉が慰めるのは苦手だというふうに難しい顔をして呟くように言った。

 ***

ゆら、と視界の端で舞った影を見たような気がして赤葦は冷たい床に靴音を鳴らした。廃工場の奥には事務室だと思われる一室が四角く壁に切り取られるように在った。ドアさえなくなったその入り口の傍で足を止めると、壁に並ぶ曇りガラスの一箇所に取り残された白のレースカーテンがかかっていた。ここだけ捨て忘れてしまったのだろうか。その端がまだ揺らめいているのに気づいて、部屋にそっと足を踏み入れた。少し色褪せて埃っぽいそれをめくると窓が薄く開いている。今日は日中もよく晴れて気温の高い日だったけれども、すっかり陽の沈んだ今はその名残を探すのは難しい。するりと忍び込み指先を浸す冷たさに赤葦は音を立てないよう気を配って窓を閉じた。何もない部屋だ。残されたのは扉歪んだロッカーがひとつに、座面の破れかけてぐらつきそうな丸椅子、物と呼べるのか判別もつかない何がしかの欠片たち。そして、あどけなさを覗かせて眠る、夢見る者がひとり。
少し前、ジュラルミンケースと折りたたみチェアを持ってこの部屋へ引っ込む黒尾に赤葦は気づいていた。誰にも声をかけないということは仕事ではないのだろうとなんとなく分かったから何も言わなかった。装置をつなぎ、ハンモックのように包み込む布の背もたれに身体を預けて眠り続ける黒尾の静かな頬を見下ろしながら丸椅子を引き寄せて座った。結局赤葦は“設計士”としての仕事を引き受けた。黒尾はやはりあまり良い顔はしなかったけれども、だめだ、と言うこともなかった。ただ、諦めたようにため息をついた口元が赤葦にだけ分かるようにやさしかった。
この寝顔を見るのが好きだ。普段は大人びて隙のない表情をよくする顔が、眠っているときだけは幼さを甘く滲ませて装うことも嘘も知らない顔をする。朝を一緒に迎えたことは多くはないし、お互い朝は強くないから眺めることの出来た時間も少ない。けれど、あの瞬間が永遠に続くように信じることができたのは蜜月だったからだと、今は分かる。
「あ、いたいた」
軽やかでほんの少し鼻にかかる声に赤葦は顔を上げた。柔らかそうな茶色の髪をワックスで散らして、整った甘い顔立ちの男が出入り口に立っていた。及川だ。赤葦が仕事に加わった後すぐ、三日ほど前から合流した。及川は“偽装師”だ。夢の中でどんな人物にも成り代わってみせる。それは変装という域ではなく、男でも女でもそっくりそのままコピーしたかのように姿かたちも仕草や声音さえも完璧に偽装してしまうのだから驚きだ。
「あかーし君帰んないのって、なんだ黒君もいたんだ」
眉をちらりと持ち上げて、及川が眠る黒尾へ視線を滑らせる。柔らかな物腰だけれども職業病というのもあって及川は人の細かなところよく見ている。ある種、黒尾と赤葦と似ているのだ。二人は言葉なく感覚的に悟るほうだけれども、及川は仕草や視線、そういった人となりの出る些細なところを拾って悟る。不躾でないから嫌な気はしないけれど、本能的に背筋を伸ばして隙を見せないようはしたくなる。今だって、ここに赤葦と黒尾の二人がいたことくらい最初から分かっていたのだろう。
「岩泉さんまだ帰ってきてないですよね」
「ああ岩ちゃん? 出先から直帰するって」
メール来た、と及川が手にしていたスマートフォンを揺らして言う。岩泉とは幼馴染という話で気の置けない間柄らしい。黒尾に目をやり大きな瞳を穏やかにすぼめて口元を緩める。
「ったく何の夢見てんだか」
仕事でうんざりするほど潜ってんのにね、と出入り口の枠に肩を寄りかからせる。
「そんな未練タラタラな奴なんて放っておけばいいのに」
「……昔の自分、ってあたりがもう最悪っスね」
息をこぼして赤葦は苦笑いする。自分と黒尾の関係、黒尾の夢に出る幻影のことを知っていると気づいたのは少し前だ。潜在意識に囚われているなんてこの仕事をする上では相当のリスクに違いない。一緒に仕事をするという上で、黒尾本人かもしくは岩泉から聞いたのかもしれないし、自分たちのあいだに流れる空気を感じて察したのかもしれない。両方じゃないかと推測するけれど、今さら口に出して確認するのもそれこそある意味似た人種だから億劫でそのままだ。
「それ“トーテム”?」
指差す動作だけで様になる。美形ってのはこういうところが得なんだな、と頭の片隅で考えつつ自分の手元を見やりながら頷いた。ここ最近起きているときはなるべく手にその感触を馴染ませるようにいじっているそれを摘む。小さなコマだ。クヌギの実のようなぽってりとした胴体で、ぴた、と肌に吸い付くステンレスの冷たさとそこそこの重みが手のひらに残る。
「もらいものです」
“トーテム”とはこの仕事をするものがお守りとして肌身離さず持つ、目印のようなものだ。精緻に作りこまれた夢は現実との境い目が非常に曖昧になる。自分のいる場所が夢か現実か、“トーテム”はそれを見分けるための道具だ。だから自分の“トーテム”は誰にも触らせてはならない。自分だけがその感触を知り尽くし、誰かに作られた世界ではないことを確かめる。“トーテム”を偽られてしまったら咄嗟に見分ける目印がなくなるのだ。
「世界にひとつしかないんだそうですよ」
手のひらに転がして、赤葦は呟く。岩泉に“トーテム”の話を聞いたとき、すぐに思い浮かんだのがこのコマだった。それまでは思い出すことなんてほとんどなく、でも捨てられずに机の引き出しに仕舞いこんでいた代物だった。これを渡されたのは黒尾がいなくなる数ヶ月前のことだったように思う。今思えば黒尾がバイトを始めたと言い出したころで、自分の“トーテム”を作ったときに気まぐれにもうひとつ作ったといったところだろう。世界にひとつしかない、と確かにあのとき黒尾は言った。それは自惚れてもいいということなのかもしれない。
「ああ、黒尾も似たようなの持ってるよね」
やはり目敏い。笑みをこぼすことで赤葦は答える。コマは、夢の中だと終わりを知らず永遠に回り続けるらしい。際限なく止め処なく人々の願う終わらない夢がここにあるのだと錯覚させるかのように、ずっと、淀むために終わりを告げることがないという。赤葦はまだその様を見たことがない。
「なんだっけ、甘食ってパンあるでしょ。黒尾のはあれをこうふたつくっつけたみたいな形してるよね」
「それ、すっげえいい例えです及川さん」
美形から素朴な菓子パンの名前が出てくるとは思わない。小さく声を立てて笑う赤葦に、及川はやがて微かにため息をつき、気遣うような声音でこつりと首を傾けた。
「……俺帰るけど、赤葦は?」
ああ、と低く呟いて、赤葦は穏やかなな寝息を立てる黒尾を見下ろした。静かに息を吸い込み、寂れた工場に降り積もる深々とした空気に喉を晒す。手の中でコマの鉄の肌を弄びながら、ゆるやかに首を振った。
「先、帰ってください。俺戸締りしときます」
「そっか」
じゃあ帰ろっかな、と及川がぐーっと伸びをしてみせる。お疲れ様です、と赤葦がぺこりと頭を下げると及川が何にか少し眩しそうな顔をした。
「ほんとさ、いい加減、目覚ませってね」
「……そうですね」
自分の方へ傾けられたその静謐な横顔に赤葦は手を伸ばして、一度、湖の水の冷たさに躊躇うように迷ってから、底冷えで象牙のようにさえ見える頬に指先で触れた。柔らかな輪郭を確かめるようになぞる。触れたいものはこんなにも、近い。
「ばかです、ほんと」
言葉とは裏腹に何もなじる欠片のない赤葦の柔らかな表情に及川は首をすくめ、黒尾に視線を投げてからそれ以上何か言うのはやめた。ひらりと手を振って、お疲れ、と背を向ける。こつ、こつ、こつ、と革靴の足音だけが広い工場に静けさを刻む。工場の鬱屈した重い扉の前までやってくると最後にするりと振り返った。工場のかたすみ、裸電球ひとつぶら下げたそのまあるい光のなかで、夢に沈む黒尾を見つめる赤葦の横顔に小さな塵の影が漂ってちらついて見えた。その表情は、小さなろうそくの灯火を慈しむやさしさにそっくりで、静かな夜に溶けるように穏やかだった。赤葦の手が黒尾のこめかみに差し込まれる。いとおしむように撫でて、目を細めた。
それを、及川は見ないふりをするために一回目を伏せてからスイッチに手をかけて明かりを落とす。ぱちんと、水銀灯の眩さが消えて工場が暗闇に更ける。流れ込んできた寒さのかたちでしかない風に頬を小さく叩かれて、目を眇めた。もう振り向かずに憂鬱さで出来たドアを閉めて後にする。
――残された唯一の明かりのしたで、赤葦は永遠をかたどって眠る黒尾の髪をなで続けるだろう。そして眠り姫の呪いを解くみたいにそっとまぶたを下ろしてその唇へキスをする。童話のように運よく目を覚ますことなどないけれども、きっと赤葦はそうする。
目を覚まさないと知っていて? 目を覚ますようにと願って、だろうか。
それから手に仕舞ったままのコマに目をやり、一瞬考え込んだあとで倒れたロッカーの側面にそれをひょいと回して投げる。這いずるような音が小さく唸って銀色の影をちらつかせてくるくると留まる。けれど赤葦は信じない。これは夢じゃない。だからコマが倒れて止まることだけを信じている。だから疑わずにそれを眺め続ける。そうだろうか、信じているなら見届ける必要もない。いや、それも違う、見届ける前にきっと運命の相手が目覚めるんだろう。出迎える赤葦の顔を、とろり、と寝ぼけたまなこの黒尾ははじめて見る世界のように受け入れる。
「……おかえりなさい」
そう赤葦はいとおしく微笑む。
「    」
と黒尾は言う。

――ああ、それも夢の話だと、及川は夜に濡れた帰り道に目線を落とし詮無い思考を打ち切った。身にしみる風の冷たさに思わず身震いしスーツの襟を引っ張り肩をすぼませ、人恋しさにスマートフォンを取り出し耳に押し当てる。頼りない街灯の点々と落ちる鵺色の道路に角を曲がってきた車のライトが弧を描いて、一瞬、歩道の白線が眩く光る。
無愛想なエンジン音とすれ違った後はもう電話越しの声にだけ思いを馳せて、及川はただ足を急がせた。

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かの日の風を感じたような気がして、黒尾は伏せていたまぶたをゆっくりと半覚醒に持ち上げた。右目にかかる前髪がそっくり自分の体温になじんだような誰かの指先に払われて肌をくすぐった。細かな櫛の歯のように並ぶまつ毛のしたで、小さな黒目が夢に描いた輪郭をぼんやりと捉える。
その向こうで、窓辺に音なくレースのカーテンの端が慎ましく揺れたように思った。それが最後、二度と微動だにしない。窓を閉めようか、そう逡巡する必要はなくなった。薄暗い部屋の小さな電球の下で、眩さのきらめきを頬に乗せ運命を待つことなくすっかり起き出した顔がある。微笑んでいるように、黒尾には見えた。
あれは、確かに、



fin.(2015.11.22)
……映画『INCEPTION』のパロディでした。
ほんとは、黒尾の目の前で赤葦が幻影の“赤葦”に刺されて目が覚めるシーンや、黒尾が“赤葦”の夢を見ているときにその夢に赤葦が勝手に入ってくるところ、及川さんが仲間に加わるところで岩ちゃんと及川さんがタバコのやりとりをしたり、黒尾さんがタバコを吸わない理由を話したりとか、書きたかったシーンはほかにもあるのですが、長引きそうなのでざっくりカットしました……(正解)
コブが黒尾、アリアドネが院生赤葦、モルが黒尾の中にいる高校生のままの“赤葦”、アーサーが岩泉、イームスが及川です。
一応、映画を見ていなくても設定など分かるようにちょこちょこ説明を挟みましたが、映画を見てるほうが分かりやすいし、何より、下手なパロディでネタバレしてしまうのが申し訳ないので、映画を見た上でああこんな感じね〜って頷きながら見てもらえたらいいかな、という気がします。(汗)書きたいシーンだけ書いてるので、やっぱりいささか駆け足です。
これ以降の話で明らかになるので触れていませんが、黒尾が、高校生の“赤葦”の幻影に囚われている理由は“赤葦のことを捨ててしまった”と悔いていることによります。だから「もう二度と赤葦を捨てたりしない」と無意識に心の奥底で思っていて、幻影の“赤葦”が「一緒にいたい」という願いのもとに暴走し始めてもを振り切れない。黒尾にとっては、“赤葦”も赤葦なんですよね。捨ててしまったときの姿をしてるから余計に。……ってやっぱりこれを乗り越えるとこなんか書いてたら長編どころじゃない!
赤葦の部屋に飾られていた機関車の模型、そして黒尾を轢いた機関車は“ペンシルバニア鉄道GG1形電気機関車”です。かっこいい列車を探していたらなんとなく目に留まって、「口紅から機関車まで」の有名なデザイナーの作ったものだそうで。
赤葦の父が興味がないのになんとなく買った模型なので、赤葦も興味なくて型番とかうろ覚えで、適当に黒尾に教えたものは実はその機関車によく似た形の別の型番で、でも黒尾は模型がその型番だと思っているから模型の姿はそのまま、違う型番が機関車に刻まれている、という無駄な設定があったのですが出番がないので削除でした。文章中の描写は○○っていう列車で書いてあるんだけど、黒尾が口にしてる型番は△△△っていう列車のもの。誰も気づかない叙述トリック。(?) 別にミステリーじゃないので謎が潜んでるわけじゃないんですが、やってみたかった。いつか違う場所で。
映画のストーリーをすべて追って最後まで書く気はなかったので、終わりかたはだいたいこういう感じ、というところに落ち着けました。階層をどんどんくだっていくような、箱庭の中に入っていくような、ループのようなそうでないような。最後まできたら、もっかい上に戻ってみていただけると、少しおもしろいかもしれないです。
映画の雰囲気をちょっと楽しんでもらえたらうれしいなと願いつつ。
This fanfiction is written by chiaki.