すっと、部屋の空気の流れが変わるの感じる。一筋の冴えた空気が頬をなで首筋から背中へそっと入り込む。いまだにこの村のそこここへ潜む冬の気配のように。
結城夏野は寒さを覚えた背筋をちらりと震わせ雑誌から顔を上げると、ベッドに腰掛ける人物に声をかけた。
「徹ちゃん、寒い」
呼ばれたその人物は、夏野の視線に気づいて咥えていた煙草を口から外し、悪い悪いと小さく笑った。
腰掛けるすぐ傍、ベッドの頭上にある窓が薄く開いている。
絨毯の床にうつ伏せになって雑誌を覗き込んでいた夏野は肘を突いてその手に顎をのせ、わずかに眉をしかめた。
「徹ちゃんてヘビースモーカーだよな。そんなに吸ってると肺癌になるよ」
これはいつも夏野がこの部屋の主でもある、武藤徹に言っていることだ。
夏野はよくこの武藤家にやってくる。母親曰く、どこの家の子だか分からないほど、らしい。
何をするわけでもなく徹の弟である保も交え、ついでに保と徹を訪ねてくる(そこに夏野が入らないのが二人の関係を表している)正雄も加え、遊ぶというよりかは集まっているというような状態だった。
保と正雄は同級であるが、夏野はその一つ下の中学三年生、徹は十九歳だ。
しかしその間に歳の差を気にするような素振りはない。その気兼ねなさも、気ままにだべっては過ごし、あるいは各々好き勝手して過ごす奔放さに繋がっているのかもしれなかった。
徹は、そうだなあとぼんやり呟きながら、今はもうほとんど使うことのなくなった勉強机に置いた灰皿に、ちょんと指先で小突いて煙草の灰を落とした。
そして身体を折り曲げるようにして手を伸ばし、窓をぴたりと閉めた。
部屋はすでに随分と外の空気に侵犯されて、ひやりとした山の空気が部屋に漂っている。
「寒い」
恨みがましそうに夏野が言うと、笑いながら徹は悪いと繰り返す。
「だって煙がこもると、それはそれでお前文句言うだろう」
「家に吸う人いないから匂いに慣れてないんだよ」
「そうか」
やけに得心のいった顔で通るは頷くと、まだじりじりと火の付いたままだった煙草を灰皿に押し付けて消した。
そして何気なしに煙草の箱を持ち上げると、あれ、最後の一本だった、と空になったのを示すように逆さまにして夏野に見せた。
それを見て、夏野は身体を横向きにしながらため息をつく。
「もう? 昨日だか一昨日だか買ったばっかりじゃなかった」
「仕方ない、お前が帰るときに買いに出るよ」
「そういう問題じゃねえっつうの」
話聞いてんのかなこのオッサンは、と夏野はごちる。ははは、と徹は人の良さそうな顔で笑う。再び深く、夏野はため息をつく。
徹は夏野が武藤家から帰るとき、ついでにこの外場村にある数少ない煙草の自動販売機へ出かける。
その行動は、自分を途中まで送るためなのか、ただ単に煙草を買い求めたいだけなのか、夏野にはよく分からない。温和な部分に隠されて、徹の少し飄々とした部分は、夏野が越してきて一年経った今も把握しかねる。
わかんね、とうつむき加減に口の中で呟くと、何がと上から声が降ってきた。本当に、こういうところはよく気が付く。
「なんでもねえっつの」
横柄に言って、夏野は読みかけの雑誌を引き寄せぺらりとめくった。
今日は珍しく保と正雄はいなかった。二人とも村の外へ遊びに行っている。徹の部屋より保の部屋に集まる方が多いのだが、そういうこともあり、会社が休みだった徹の部屋に夏野はいるのだ。
二人だからといって、やはり過ごし方は変わらない。少し前までは他愛もない会話をしていたのだが、いつのまにか、そこら辺に置かれていた雑誌をどちらがともなく拾い読みし始めたときから途切れ、それぞれ雑誌を読みふける時間を過ごしていた。
徹も読んでいたはずだと夏野がちらりと見上げると、読みかけらしい雑誌はベッドの上に無造作に投げ出されていた。煙草を吸い始めたときに放り出したのだろう。煙草も消して、雑誌にも興味が失せたらしい徹は、手持ち無沙汰に空の煙草の箱を弄びながら窓の向こうを眺めていた。
ふと、徹がこちらを向いた。目が合う。
「なー夏野」
条件反射のように、夏野は眉を寄せる。
「名前で呼ぶなって言ってるだろ」
「お前のそれな、すっげえ頑固。でも毎回ちゃんと反抗するところには感服、いや敬服する」
ははーっと畏まった真似をして、徹は平伏してみせた。そっちこそ、と夏野は独り言を言うように低い声を出す。
「これだけ言ってもいちいち名前で呼ぶんだから、徹ちゃんたちこそ、ほんと懲りないよな」
「だっていい名前じゃんか。俺は好きだよ」
起き上がった徹は眉尻を下げて笑った。武藤家の人々は笑った顔が皆似ている。それが夏野は嫌いじゃなかった。
徹の笑顔に不服そうな顔を作ったが、結局何も言わずに雑誌に目を戻す。どうにもこの顔には弱い。がつんと起こる気にはちっともなれなかった。
まったくさ、と残り少ないページをめくっていると、また声が降ってきた。
「なあ夏野ー」
「……あんた、さっきの話、覚えてるか」
「だから好きだって言っただろ、呼ばなきゃもったいない。ところでさ夏野」
「……なあんだよ」
とりあえず今日のところは諦めようと決めて、夏野はもったいつけてから返事をした。うん、と返ってきた相槌はあっさりしたもので、こだわってるんだかなんだか分かりゃしない、と夏野は少しだけ拗ねた気持ちで思う。
徹は、また窓の外を見ていた。二階にある徹の部屋からは外場村を囲む山々が遠く上の方に見える。
「春だなあ」
「はあ?」
やけにしみじみしたように言ったその様子に、夏野は力の抜けた声を出した。
雪国と言われる土地ほどではないが、この村も冬は長い方だ。その代わり夏はやはり涼しい。
村を囲む山々には冬、雪が降り積もり、深い森に積もった雪は四月に入ってもまだ残っていることもある。
今年は暖冬だったこともあって、あまり雪が積もることもなかったが、常緑樹である樅の木が屹立する鬱屈した黒い山は冬の気配を潜ませて常にこの村を包囲している。その気配は夏でも時折感じるものだ。
自分たちを見下ろすそれからしずしずと運ばれてくるひやりとしたその冷気のようなものが、夏野は好きではなかった。この村をいつまで経っても好きになれないのはそれも理由のひとつだと思う。
何者かにそっと見張られているような、居心地の悪さ。
首筋を撫でながら、夏野はのっそりと起き上がった。短い髪の頭を掻き、立ち上がる。
お? とそれに徹が気づくより先に、徹の膝に片膝をのっけて体重をかけ、窓に手を伸ばした。
「なんだなんだ」
笑いの含んだ声で身体を引く徹を尻目に窓を勢いよく開ける。山から吹き降ろされる微かな風が夏野の頬を掠めた。
「んだよ、何もないじゃん」
窓枠を掴み顔を出して外を眺めてみたが、特に変わった風景はどこにもなかった。飽きるほど見てきた寂れた田舎そのものだ。過疎化で少しずつ空き家も増えてきているし、手入れの行き届かなくなった雑草の生い茂る田畑も目立ってきた。
錆びたトタン屋根の農具小屋、コールタールの塗られた木造の家屋、冬枯れた雑草。村にあるすべての色は、使い古されたように摩滅され、とても頼りない。そこにどうみても、目の引くような花の色などは見あたらなかった。
危ないぞ、と後ろで声がする。乗り出した夏野が誤って外へ落ちないようになのか、いつのまにか履いているジャージのウエストの部分を徹がしっかと掴んでいた。
「なあ、どこが春らしいんだよ徹ちゃん」
振り返ると、どこがってあそこ、と徹も身を乗り出してきた。並べて窓から顔を出す。
「どこ」
「ほら、あそこ」
ぐい、と徹は空いた右手で夏野の顎を掴んで上に向けさせた。いって、と呟きながら夏野は固定された方向を見やる。それは村の奥、樅の木の山の方だ。夏野は大仰に顔をしかめた。
山になどなおさら、春のかけらはない。あるのは樅の木の深い緑だけ。
「どこがだよ、普段となんにも変わんないじゃん」
「そうかあ。ほら、少しだけどさ、山が明るくなってる気がするだろ」
「……そうかなあ」
微笑んで言う徹に促されて再び夏野は山を望んだが、やっぱり徹の言う、明るいの意味が分からなかった。陰鬱な気配を含んだ山々には春の息吹など訪れていないように見える。
さっぱりだと一人呟くと、徹の手が夏野の頭に伸びてきて、くしゃっと撫でた。
「ほんとにちょっぴりだけど樅の緑が鮮やかになってるように思えるんだよな、気のせいかもしんないけど」
「きっとそうだ、徹ちゃんの気のせい」
「ははは、かもな」
きっぱり切り捨てる夏野の言葉も徹は意に介さず、からりと笑うだけだった。
それが少しだけ腹立たしくて、夏野は遠くの山を睨むように見つめた。
夏野にはずっと同じように見える山が、徹の目には、自分よりも随分長く村に住んでいる者の目には少し違うように映るというのだろうか。そう思うと、本当に少しだけ、残念のような気もした。村を早く出たいと思っている自分には、必要のない感情だと思いもしたけれど。
絶対に自分は、そんなことが分かる前にここを出て行くのだ。だから、いい。
何か考えているふうな夏野に気づいたのか気づかないのか、徹が顔を引っ込めた。
っつうかさ、と後ろで声がするのと同時に、そわりとした感触が自分の腰にまとわりついて、夏野は慌てて振り返った。
「夏野、お前腰ほっそいのな」
ちゃんと食ってるか、と父のようなことを言う、ある意味鈍感な発言と行動をする男を見、まったく何を考えているか分からないと思う。そして、きっと何も考えてないに違いない、と持て余した気持ちを感じながらそう決めた。
そうじゃなきゃ、自分は振り回されてばかりになる。
「いきなり抱きつくなっつうの! こんのセクハラ親父!」
夏野は、腰にひっついた温もりと回された腕の感触のくすぐったさ、徹の何気なさが面映くてみるみる熱くなっていった赤い顔で、そこそこの力を込めて徹の頭を殴った。
fin.