夜の生き物だと思っていた。
……お前は夜の匂いがすっからさ」
一護が視線を前に縫い付けたまま小さく笑うと案外答えはすぐに返ってきた。俺も、と呟いた声は一呼吸置いて、何かを待つ。
「夜ばかりを生きてるような気がしてる」
賑やかな空気と明るい世界の中で聞く声は、居心地の悪さを表しているのかなんとなしに小さかった。
その通る声の方を一護がそろり見やると、見慣れない衣服に身を包んだ彼がかったるそうに右肩を針金で編み込まれた屋上のフェンスに預けてもたれかかっていた。網目から、眉間に皺を寄せた不機嫌そうな眼差しを覗かせ下界を見下ろしている。その限りない不満を抱いているような物腰も、険悪な眼差しも、一護の知る限り、いつもと変わらないと思えた。逆を言えば、それ以外の多くが一護にとっても彼にとってもいつもと違うことばかりで、先ほどからずっと少々変な気分だった。
静かな夜の相対を思い出せば、珍しく今日の奴は饒舌だ。きっと互いに慣れない世界で柄になく戸惑っているのだろう。どうも調子が狂う、そう思いながら一護は頭をかいた。
「それで、結局何しに来たんだよ」
軽くため息をついてから、促すように彼を見つめる。
グリムジョー。
そう名を呼べば、初めて彼は一護を見た。獣のように瞬きの少ない瞳で一護を捕まえて確かに射抜く。静かな夜の時間と同じように、互いの眼差しが誰も知らないところで触れた。
そうかこの世界でこうして呼んだのは初めてだったかと一護がようやく思い当たると、グリムジョーが互いの気持ちを表すかのように、目を細めて微かに、似合わない感情を浮かべて笑った。
……やっぱり、変な調子だ。
歯がゆさとも取れない、持て余す感情を隠すように一護はそっとグリムジョーから目を離して俯くと、奴の指に掴み殺されることなく摘まれたままの花のつぼみが目に入った。
ああ、これが奴の香りだ。
時期外れの、まったく思いがけない転校生がやってきたのは今朝のことだ。
青い髪を無造作に後ろへ撫で付け、だらしなく着込んだシャツのボタンは胸がはだけるほどに外し、ポケットに手を突っ込んで少々猫背気味に立ち、不穏な眼差しを壇上からクラスメイトたちにくれてやる様は、あっという間に教室を黙り込ませた。
破面の転校生、それがグリムジョー・ジャガージャックだった。
真正面から敵陣に乗り込んできた奴の姿を見、同じクラスのルキアや織姫、茶渡に石田が慌てふためき、緊張に身体をこわばらせたのは言うまでもなく、しかしそんな中で一護はやたらと冷静だった。
どうしてここに、とか、よくも抜け抜けとと思うよりも、普段より眉間に皺が寄って不機嫌そうなグリムジョーの顔に、朝の透明な光が眩しいのだろうかと思ったり、黒板に書きなぐられたグリムジョー・ジャガージャックという名に、偽名を使わないあたりが奴らしいと思ったり、せっかく真面目にやってきた一限目の数学の宿題が無駄になったなあとホームルームの最中、ぼんやりと考えた。
短い休み時間にグリムジョーはさっさと教室から姿を消し、一護はもっともらしい理由を探して、『グリムジョーは自分が探すから、また織姫が攫われないように、夜一さんたちもいる浦原商店へ行ってほしい』とルキアたち四人を高校から遠ざけた。
そうして一護はこの世界が夜の淵に沈んでいるのならいつもと変わらないように、屋上へ足を向けた。
夜の世界で奴と逢引きするようになったのはいつからだろう。周りに他の高い建物なんかない、空坐高校の屋上で短い夜の時間を共に過ごすようになったのは。
「気づいたか」
一護が屋上に上がってくるなり、待ち構えていたように言い放ったグリムジョーの一言がこれだ。
がちゃりと重い扉の閉まる音がするのを背後に聞きながら、何を、と一護が瞬きながら答えると、グリムジョーは手にしていたものを持ち上げて示した。手のひらで咲く深い夜の色の花。
そのとき、チャリ、と繊細な金属の鳴る音がグリムジョーの手首から零れた。華奢な、白磁のような色合いを持ったブレスレットは織姫が虚圏へ攫われたときに使われた、特殊な霊膜が張られるアクセサリだ。ウルキオラの目を盗んでくすねておいた、とグリムジョーが言ったそれのせいで今は誰もグリムジョーの霊圧を探ることはできない。
そのブレスレットをさりげなく確認しながら、一護はああと表情を和らげて頷いた。
「お前を追っかけて席の近く通ったら覚えのある香りがしたからな。すぐに分かったよ」
その花の名は、孤花といった。
虚圏の乾いた砂の上、夜のうちにひっそりと花を咲かせる、眩い光の世界をしらない濃い藍色の花。
骨花とも呼ぶのだと、いつだったか興味なくグリムジョーが思いつきのように漏らしたのを一護は覚えている。
倒れ朽ちた破面の骸が腐り、肉のかけらも干乾びてすっかり土に還って骨だけになった頃、空虚と安寧に寄り添うように、それは蔓を伸ばし葉を茂らせつぼみをつける。
骨のよう白い砂に深い藍がよく映える様や、骨を覆い隠すように芽を出し花を咲かせる様を想像すれば、骨花という名が付いたのも分かるような気がした。
でも一護は孤花と呼ぶ方がふさわしいと思った。それはときどき、ほとんど日の暮れかけた心寂しい時間の窓辺に、ぽつりとその藍色の花が置かれているのを見たときにいつもじんわりと思う。
孤花は、グリムジョーが一護へ送る、『屋上で待っている』の合図だ。一護が迷わずここへやってきたのも、いつのまにかグリムジョーの席に残されていた花のつぼみに気づいたからだ。
花を合図に使うなんてなかなか洒落ているじゃないか、と一護は最初思ったものだ。自分にはそんなことを思いつけそうな気がしない。
そんなことを言ってやろうと思って、いつも、忘れてしまう。いや、忘れるというより、言えなくなってしまうという方が正しい。
夜の屋上でぽっかり、戦うというわけでなく二人きりになってしまうとお互いろくな言葉が出てこなかった。静かな、沈黙を守る澄んだ世界にいるとすべてがよく見えるように思うのに、何故だかいつもより言葉も自分の感情もよく探せない。
でも、夜の世界を共有している、そう思うだけでささやかな充足があるのも確かで、たいてい自分も夜に毒されていると一護は思う。
どうしようもねえと心の中で笑う。
「何笑ってんだ、気持ち悪ィ」
ふん、と鼻を鳴らしたグリムジョーに意識を引き戻されて、一護は少し慌てて顔を作った。どうやら気づかぬうちに締まりのない顔になっていたらしい。
「別に、何でもねえよ」
そう言うと、グリムジョーはそれこそ軽く笑い飛ばすように鼻をならして応えた。ようやくいつもの調子が戻ってきているようだった。
こうやって、陽の当たる人間の賑やかな気配がざわめく世界でグリムジョーと会うのは初めてのことだ。
闇の深みはよく奴に似合うから、まるで夜の生きもののようだと、いつも奴にはそんなイメージが勝手にまとわりついている。最初の出会いがいい例だ。夜の淵と銀の月を背負った白装束の孤立が、ずっと頭にこびりついている。
光の世界で肩を並べる。夜の世界でもそれは変わらない。フェンスの先に流れる雲と見え隠れする月をただ見守る日もあれば、フェンスを越えた建物の縁に腰掛けて、全身を攫おうとする空気の流れの中にじっと納まっている日もあった。
「で、何しに来たんだ」
何度目かの同じ問いに、ああいう登場の仕方はびっくりするだろがと一護は付け加えて息を吐く。
二人の間をフェンスの網目に引っかかるはずもない風がすり抜け、コンクリートの屋上を滑り高みを目指すために駆けていった。
盗み見するように見た、グリムジョーの横顔はいつもより透けてみえた。光の具合と日に当たらない肌のせいなのだとも思えたが、手品のように消えてしまう不思議な魔法でもかかっているように一護は感じた。
なあ、と思わず手を伸ばして言いかけるのをわざと遮り、グリムジョーは首を巡らせ、
「俺がしたいことをするだけだ」
と尊大な笑みで一護の動きを阻んだ。一瞬の沈黙を見せて、そうかよ、と一護はぶっきらぼうに答えて黙り込む。
奴の答えは傍若無人ぶりを表すのにぴったりで、だからこそとても分かりやすかった。
……それって、俺に会いに来たってことだろ。
けれど口に出しては言えなかった。伸ばそうとしてやめてしまった片腕の戸惑いに困って、自分の太もものあたりを緩く掴む。
風は、夜と何も変わっていなかった。太陽の光を鈍く透かす曇り空の下で、それは夜風と同じ冷たさをはらんで二人を包む。ああ、風がよく冷える。
「そろそろ、行ったほうがいいんじゃねえのか」
柄にもなく、深くを息を吸い込んでから、奴を見据えた。
グリムジョーが教室へ乗り込んできたときから、ルキアがポケットの伝令神機を気にしていたのを一護は知っている。グリムジョーは例のアクセサリを見につけているから尸魂界から破面出現の一報が入らず、やきもきしていたのだろう。けれど、もうルキアから応援要請の連絡はいっているだろうと思われたし、とりあえず一護の霊圧を探って死神たちがここへ駆けつけることは容易に想像できる。
二人きりでいたことの言い訳はいくらでも一護はできるが、グリムジョーを手助けするような真似は出来るはずもない。
自分と奴は対する者だ。夜の逢引きを何度重ねても、それは心の芯に変わらず在る決意だ。
グリムジョーには今の事態が分かっているのかいないのか、はたまた分かっていてその余裕ぶりなのか、やけにのんびりした構えで、てめえの取り巻きに見つかる前に帰れってかと、気だるげに首筋を掻いた。
そうして急に思いついたように、フェンスから身体を離し片手をポケットに突っ込んだまま、低く喉を鳴らすようにして顎をしゃくってみせる。
「手」
差し出されたのは、ずっと持っていたあの藍色のつぼみだった。
「なんだよ」
つぼみと、グリムジョーの顔を一護は交互に見やる。けれどグリムジョーはまた顎で促しただけで何も言わない。
はあ、とその強情さに折れる形で一護が手のひらを受け皿のように前へ差し出すと、奴に似合わない優しい動きでつぼみをぽとりと落とした。
その所作に黙っていると、やる、と簡潔な一言を残してグリムジョーは顎を逸らし、自分の腕を引き戻した。そして、両手をポケットへ突っ込んでぐっと深くしゃがみ込んで腿へ力を入れると、ガードレールを飛び越える軽やかさで、有刺鉄線に縁取られたフェンスをぽーんと飛び越え、小さく靴の鳴らす音をさせて向こう側へ着地した。
「帰るか」
飽きてきたしな、と笑いの滲む声でグリムジョーは呟く。
金網に阻まれた少々猫背気味のその背中に一護は不満の声をぶつけて、
「何なんだよ、お前勝手に来ていきなり、」
とまで口に出して、それ以降は飲み込んだ。こんなことを言ったって仕方もないことなのだけれど、ああもう、と何が言いたいのかしたいのか分からない自分に口の中で呻いて茶の髪をかき混ぜる。
グリムジョーが肩越しに一護を振り返る。風のよく似合う蒼い髪を揺らして、網目に遮られた視界の中でにっと形よく口の端を歪めた。
「なんだ、帰ってほしくねえって顔かそれは」
そのはぐらし方にため息さえ出ず、一護は額に手を当てる。
「あのなあ、散々かき乱すようなマネしておいてこれかって言ってんだよ」
少しの苛立ちに大きく腕を振り回すと、指先が金網に引っかかってかしゃん、と揺れた。奥歯を噛み眉間に力を入れるようにして奴を見る。その眼差しをたっぷり受け止めた後でグリムジョーは何度か足踏みし、振り向いた。得意の、見下ろすような視線と笑みを一護にくれ、かわいいこと言うじゃねえか、と高らかにで笑い飛ばした。
これがなかったら噛み付いてやんのにな。
目を細めて、前かがみに言われたその一言はやたらと夜の雰囲気を潜ませていて、今更ながら打ち明けられた秘密のような熱を一護は感じた。
アホか、と一護は胸の奥を掴まれた心持ちで独り吐き捨てると、今度はもう無駄なことは一言も言うまいとフェンスに鼻の先をくっつけるほどに近づき、奴に渡されたつぼみを潰さないように軽く握った手を金網に押し付けた。視線だけは目の前の、触れられない夜の化身に縫い付ける。捉えて、瞼を下ろし、目を開ける。
グリムジョーがゆっくりと一護の方へ手を伸ばす。瞳だけを触れ合わせてあと少し、指先を伸ばせば頬にだって髪にだって、唇にでさえ、触れるというほどなのに、グリムジョーはそっと風に触れただけだった。
まるで手品でも始めるように、一護の目の前で広げた手を握りやさしく掬い上げる。そして、その手を自分のほうへ手繰り寄せると、
「……お前も、夜の匂いがする」
と孤花の澄んだ香りに酔ったように、顔を歪めた。
その芝居がかったすべてを、瞬時に笑い飛ばせなかった代わりに一護は、行けよ、と短く言い放って目元に力を込める。
ああやっぱり似合わねえ、とその饒舌さと表情をかみ締めるように、思った。
「一護!」
よく知った声がして、一護はフェンスから身体を勢いよく剥がして振り返った。
水色、と人懐っこくにこやかに手を振る友人の姿を確認して、とりあえず安堵する。どうやら死神たち援軍がやってきたわけではないらしい。改めて周囲の霊圧をさっと確認してから、あっと思わず小さく声を上げつい先ほどまで、ここで相対していた相手の姿を求めた。
フェンスの向こう側、奴が立っていたはずの建物の縁にはもう何の姿も認められずいつもの風が一護の顔にぶつかってくるだけで、ぐるりと屋上を眺めてみたけれどそれは無駄に終わった。
何やってんの、とそんな一護の様子に首をかしげながら水色が駆け寄ってきた。ん、と曖昧な返事をして友人に目をやると、水色の後ろにはきょろきょろと心配そうに身をかがめて辺りを窺う圭吾の姿があった。何やってんだという一護の視線に気づいて、水色があれはね、と笑う。
「転校生の後を追って一護が屋上行ったのを見たって、なんかヤバそうだったって言うから来たんだけど」
いないね、と水色が辺りを見回して言う。マジで見たんだって! と圭吾がいつもの騒々しさで慌てた。
「一護、カツアゲとかされてないか! 脅されてないか!」
「いや、なんつーか……」
「大丈夫大丈夫、一護は浅野さんと違って強いから」
「あー! また浅野さんって言った!」
ばっさりと切り捨てる水色の微笑みに、圭吾が心底傷ついたふうに眉を下げる。これが彼らの日常だ。
ぎゃあぎゃあと賑やかに会話を続ける友人の傍らで、なんだか一護は久しぶりにこんな空気に触れたような気がしていた。
夜の世界の空気がゆっくりと一護から離れていく。奴の霊圧を探ることはできないけれど、触れられるほど近くにあった冴えた気配がすっと引いて拡散してく名残が今もまだ感じられた。
人知れず小さく唇を噛んで一護はフェンスの向こう側を静かに見つめた。
グリムジョーがいた空間にさえ触れることは出来なくて、手を伸ばせない代わりに一護は目を放つ。そうして奴の姿をそこに思い描いた後で目を閉じた。瞼の裏に形作った奴に手を伸ばし、鼻先に頬に唇に触れるほど精一杯近づけて、触れたいと願って、一護はそこでおもむろに目を開けた。それが、答えだった。
「な! そう思うだろ一護!」
よく通る、圭吾の声が自分の背中へぶつかって滑り落ちる。光の下の日常が無遠慮に夜の場所を取り返していく。
一護は、うん、そうだな、と孤独のなじんだ背中で頷いた。
fin.