ゴン、と鈍い音がしてゴールポストにシュートが阻まれた。
「……入んねーもんだな」
呆れを通り越して感心が上回ったような表情の青峰を黒子は振り返る。すみませんと小さく頭を下げると、手持ち無沙汰にボールをもてあそびながら立っていた青峰が、別にいーけどよ付き合うって言ったんだしといささか居心地悪そうに視線を逸らした。
ウインターリーグ1回戦を終えた翌日、黒子が訪ねたのは昨日破った相手である桐星の青峰だ。自分がシュートを決めることが出来たら。そう考えたとき足の向く先は決まっていた。中学時代の自分の“光”。バスケの実力は今でも揺るぎなく信頼している。
不意に、青峰が自身の右手へボールを渡し、しなやかに腕を振り上げ手首を宙に引っ掛けるように使いボールを放った。
大きく弧を描き、吸い込まれるように夜空の彼方へ消えていく。流れるように自然な一連の動作に黒子が魅入るその背後で、シュッとポストをくぐりボールのバウンドした音がこだました。
青峰のしなやかさは豹のそれだ。
すらりと伸びた手足の躍動、無駄の二文字が排除された柔らかな筋肉、それが1枚の皮膚の下でうごめく艶かしさ。
すべてが流動的でなめらかな動きに野生動物の生々しさが息づいている。
ハ、と小さく青峰が息を吐いて右腕を振り下ろした。自分を見つめ続ける視線に気づいて頭をかく。
「何だよテツ」
「いえ、やっぱり青峰くんはすごいなと思って」
中学のころから何も変わってないです。
そう言って黒子は転がったボールを取りに走る。まずひとつ、そして二つ目を拾って青峰へ投げる。
「変わってねーって、バスケの腕は当たり前だろ」
試合から離れているときの青峰の表情は殺気だった気迫が遠ざかって、その分幼くもみえる。
拗ねたような口ぶりでさらうようにボールを右手ですくって受け取った。
まあそうなんですけど、とフリースローラインのあたりに戻りながら黒子は前置きした。
「綺麗なシュートフォームとか」
「誰に言ってんだよ」
「負けず嫌いなところとか」
「そもそも、昔から負け知らずだったろ」
昨日負けたけどよと青峰はむくれたようにそっぽを向く。そのそぶりに黒子は小さく微笑んで、
「負けず嫌いなのは僕も同じですけどね」
と首を傾けた。
それともうひとつ、と手にしたボールの感触を確かめるよう丁寧にドリブルしながら青峰に背を向けた。
トン、と跳ね上がり戻ってきたボールを両手で受け止め、構える。とっぷりと夜に包まれたコートを照らす眩しいライトに青い瞳が瞬く。
「バスケ、やっぱり好きなんですね」
「……は?」
「え」
黒子が小さく声を上げたのとほぼ同時に、自身の手元から放たれたボールが弧を描きゴールポストの真ん中を、ではなく、その真横をネットをかすめて落ちていった。コートを一度叩き壁を弾いて転々とする。
構えをゆっくりと解いて、恨めしげに振り返る。
「……青峰くんのせいです。惜しかったのに」
「惜しくねーよ! ポストに引っ掛かってもねえじゃねーか!」
「そんなことないです。感覚としては、良かったのに」
じっとりと自分を見る黒子に青峰はとりあえず、わーったよと謝罪には曖昧な返事をして手を上げる。
「テツが変なこと言うからだろ」
「バスケが好きってことがですか?」
照明に照らされた夜のコートには昼間とは違う眩しさがある。ときどき、見上げた先のその強さに目線を切ってしまいそうになる。
真っ直ぐにこちらを向いて眼差しをぶつけてくる黒子の純粋さは昔とちっとも変わっていなかった。青峰は一筋の懐かしさを感じながら、目をかすかに細めた。
「……そういうのよく口に出せるよなあ。ま、昔からだけどよテツは」
「おかしいですか」
不思議そうな顔をする黒子に、いーやと青峰は視線をコートへこぼした。手にしたボールを見やり地面に打ちつける。
ひとつ音がして吸い寄せられるように手元へ帰る。控えめに自分を呼ぶ声がした。ぴたりと一瞬手のひらにとどまらせて、もう一度。
「だって、青峰くん、やめなかったじゃないですかバスケ」
ぱしん、とボールが地面を跳ねる。思わずボールから目を離し顔を上げた先には澄んだ瞳が相変わらず自分を見つめていた。昔はそんなこともなかったのに少し前までは触れるのが億劫で、今は、どうだろう。
「っとあぶね、」
呟きながら逃しそうになったボールを指先で引き寄せすくい上げる。お前のせいで手元狂った、とそれを抱え張りを確かめるように手のひらで押してみる。
「さっきから変なことばっかり言いやがって」
「全然、変なことじゃないです。だって、」
そこまで言って黒子は黙り込んだ。珍しく、小骨でも飲み込んだような顔をして青峰に背を向けた。テツ?と呼びかける声にも口をつぐんで先ほど外したシュートのボールが転がる方へ歩いていく。
青峰が気づいているかは分からないが、桃井が桐星へ入学したのはバスケへの情熱を失いかけ不安定になっていた青峰を心配してのことだ。そのことを黒子は知っていたし高校へ行っても青峰の状態が続いているのを察していた。
かといって自分が青峰のために何をしたわけでもないし、今さら野暮なことを聞きたかったわけでもない。
転がったボールの傍に座り込む。自分のくっきりした黒い影が落ちるそれに人差し指を立てる。
「……青峰くんが、バスケやめなくってよかったです」
それは唯一の本心だった。ボールを拾って立ち上がる。こちらの様子を窺うようにしていた青峰に笑いかけると、その不意打ちに青峰は目を瞬かせた。変わらない眼差しに昔からときどき、たじろぐことはあっても、今、それを重く感じることはもうない。
「テツ」
「はい」
何ですかと答えるのにかぶせて青峰はパスを出した。あのころはほとんど自分がパスをもらう方であったけれど、この感覚はどこかくすぐったかった。気持ち良い音をさせて黒子がしっかりと受け止める。
「なんだか、懐かしいです。そんな前のことでもないのに」
ほら、すぐにこいつは口に出さなくても良いことを言う。青峰は笑った。やめねーよ、と付け足して。
ゆっくり息を吐き冷たさの染みる夜気を吸い込んだ。わずかに前へ重心を預ける姿勢をとって、右手を上げる。ぱちぱちと目を瞬かせてそれから黒子は小さく頷いた。
ぴゅっと宙を横切って、鋭いパスが浮かび上がる夜のコートを走る。速さもありながら正確なコースを狙う慣れ親しんだパス。
スリーポイントラインを斜めに踏み込んで、青峰は軽くジャンプする。すぐ頂点に達したの同時に、自分の構えたところへボールがちょうど収まる。手のひらの感覚で、縫い目を探りわずかに持ち直す。あとは力まず腕を伸ばし、左手をそえ右手首のスナップをきかせ押しやるようにボールを送り出すだけ。
ゆっくりと、回転するボールが三日月の縁を描いていった。ちらちらとライトを受けて光るボールを見上げながらひとつの確信を得る。白さの際立つバックボードのまばゆさに一瞬顔をしかめた。ボールがリングに差し掛かる。
正直、やめようかと思ったことは何回かあった。それでも自分から奪うことをずっと先延ばしにしてきたのはとても簡単な理由だ。さっきの黒子の眼差しを笑えなかったようなとても単純な。今さら気づいたことだけれど、そう遅くもない。
やめねーよテツ。
そう心の中で青峰は呟いた。
ゴールポストの方へ伸びる自分の腕。
切りそろえられた爪の先が遠いボールのシルエットに触れる。
青い髪が先を遊ばせて、もはやシュートの行く末ではないものを見つめる瞳の前をちらついた。
「やっぱ、……おもしれーわ」
fin.