滲み出た一筋の汗が拭う間もなく、額から頬を伝って落ちた。その雫が地面に跡を残すことはない。乾いた砂に吸い込まれるように消え、絶えず地面を這うように流れている風が跡をならしてゆく。
今日でいったい何日目になるだろうか。
ライは暑さで少し遠くに感じる記憶を探りながら、身体をすっぽり覆うように被ったマントの下で指を折る。右手を終えて、左手の親指と人差し指を折ったところで止めた。7日目か、と頭に刻む。
頭上で容赦なく照り続ける太陽の日差しは、暑いというよりも痛いほどの熱を持っている。それをマント越しに頭のてっぺんで感じながら、ライはずっと俯くようにし、前を往く背中の残す砂を踏む音を獣の耳で拾い、後に続いている。細かな砂は少しの風でもすぐに舞い上がる。その砂が耳や目に入るのをライは嫌った。だから、マントから顔を覗かせているのはほんのちょっとで、目もほとんど閉じたままだ。
あたりは限りなく続く砂の海。どこまで行ってもそれなのだから、もう見なくても分かる。多少の起伏はあるけれども、この世界を支配する気まぐれ甚だしい風のせいで刻々と姿形を変える。その様子を最初は面白いと感じたけれど3日くらいで飽きた。それでもときどき足をふと止める。遠くの方で、風に吹き上げられた砂の舞がずうっと遥か先を横切って行くとき、日の暮れる砂丘から、砂の肌に残された風の波のような紋様を延々と見渡したとき、知らない世界にいるのだということを改めて知るとき、心が持っていかれるような気がした。
「(暑い……)」
ふいに洩れる独り言。どう文句を垂れてもこの暑さがどうにもならないことはよく分かっているのだけれど、黙々と砂を踏み続ける中、その沈黙に飽いたように口から零れてしまう。この不毛な一言を呟くことさえ砂漠では貴重な体力消耗だ。
砂漠へ足を踏み入れた頃は、またそれかとライの口癖を呆れ半分で笑っていた背中も、もはや反応する気配もない。
「(独り言だから、いいんだけど)」
こんな気候と歩きにくさでなかったら、肩を並べ他愛もない話を交わしながらもう少し気楽な道のりを往けるのに。
などと考えていると、ざくざくと砂を掘るように歩いていた足音がやみ、自分の前に大きな影が立ちはだかる。合わせて自分も歩みを止め、そうかやたらと前を歩きたがるのはこのためか、とライは今更気がついた。
大きな影が動きにくそうに振り返り、目深に被っていたマントの中で口元が動く。肌には砂がこびりついていた。
「水」
腰にぶら下げた水筒を探るのを窺い、二つ返事でライは手を差し出した。確かに喉が渇いている。一息ついたら交代しようと言ってやらなきゃ、と年上の顔がひょっこり覗く。
間もなく、大きな手が重ねられて小さくて軽い物がライの手に転がり出た。ちょこんと、手のひらに乗っかったのはかざりっけのない素朴な木の指輪。
「ずっと、一緒にいてくれないか」
ふわりと砂漠に不似合いな風が吹いて、ふざけるつもりなど微塵もない真直ぐな眼差しがフードの下から現れる。オアシスのよう青。
「……アイク」
既に世界の果ての覚悟でやって来ている相手の姿と、砂一色の世界を前にライは何より先に呆れた。ぽつんとどこまでも二人きりだ。
「お前ってほんと、何でも突然だよなあ」
手の中のものを軽く振ってため息をつく。アイクは、仏頂面と間違えそうないつもの顔できょとんと首を捻っている。そういう気を抜いた瞬間だけは年相応の幼さが残る。
それに笑いながらふとアイク越しに見やると、幻でないのならば、砂丘の少し先に目指していたオアシスがゆらゆらと煌いていた。
* * *
2人が待ち合わせたクリミアの首都メリオルから旅に出てもう一ヶ月前になろうとしている。行く先々で懐かしい面々に挨拶をしながらデインを横断し、死の砂漠と呼ばれる謎の国ハタリへの入り口までやってきた。アイクのまだ見ぬ場所へ行ってみたいとの言葉に快く地図をくれたのは狼女王ニケで、戦いを終え皆がそれぞれの国へ戻るときにいつでも尋ねて来いと渡してくれたのだ。きちんとしたものはまだ作っていないという話で、おおまかな出来ではあったが情報のほとんどない場所としては十分頼りになる。砂漠を横断する上で重要なオアシスの場所は細かに記してあった。命綱と言ってもいい水を切らさないためにも、アイクたちはオアシスを点として線でつなぐように移動しようと決めていた。そろそろ十分に用意してきた水も切れる頃で、今日はオアシスへ着くのが目的なのだ。
「あと少しだぞ」
「分かってる」
少し早くなった歩調にきっちり着いてゆきながら、ライは少し前から水場の匂いを嗅ぎ取っていた。数時間前にはなかった、焼けた砂の匂いの中に混じるわずかな湿った空気。
砂漠にもさまざまな表情があることを、2人はこの旅ではじめて知った。
渦巻くような風の日もあれば、地表を撫ぜるだけの穏やかな風の日もある。今日は比較的ゆるやかだ。こういう日は歩くのが楽で助かるが、嵐のような日は身動きすら出来ない。丸一日、吹きすさぶ砂嵐の中頭からマントを被って縮こまり、石のようになってやり過ごしたことがあった。あれにはもう二度と遭遇したくないな、とライは思う。耳に砂が入るのが本当に嫌なのだ。きれいに払ったつもりでもなんだかいつまでも気になるのが好きじゃない。
最後の砂丘に差し掛かり、張り切った足取りで2人は斜面を登った。砂漠でも影のある場所は幾分か涼しく感じる。ガリアのように湿気がほとんどなく乾燥した気候のせいで日差しを避ければまだ過ごしやすいのだが、砂漠で影のある場所を探すのはなかなかに難しい。
登りきって、ライは膝に手をついて一息ついた。ふわ、とフードの中へ爽やかな風が入り込む。思わずフードを外し身体を起こした。
長くゆるやかな砂丘の坂を下った先にあるのは、木々に囲まれ澄んだ水を湛える小さな湖と広がる緑の大地。乾いた砂色になれた眼が突如現れた豊かな青と緑に囚われて、思わず息を呑む。先ほど少し涼しく感じたのは、湖の水面を渡った風がこちらへやってきたからなのだろう。
隣へ、並ぶ気配がする。
「やっと落ち着いて一休みできるな」
見上げると、アイクが微笑んでいた。そして坂をすべるように駆け下りていく。
「あ、ずるいぞお前!」
慌ててライも追いかける。舞い上がる砂埃を掻き分けて滑りきると足元に草の感触が訪れた。踏めば沈み崩れかける砂とは違う感触にどこか安心する。1週間ほど前には土の上に立っていたというのに、それが少し懐かしく思える。草木のある大地などよくよく見てきたというのに、鮮やかな色合いに溢れた生命力を感じたりする。
不毛の地に幻のように存在するオアシス。楽園のようだよ、と女王ニケが笑っていたが冗談ではなく、ここを往くものにとってはそんなふうに目に映るのがライにも身を持って分かったような気がした。
湖はだいたい大股で測って20歩分といったところで、そこを中心に緑の絨毯が広がり、背の高い同じような木が群生している。長く伸びた幹の先にナイフのように鋭い葉先を持つ葉があちこちを向いて生えている。中には両手よりも大きい硬そうな実が生っており、幹が重そうにしなっていた。食べられるのだろうかとそんなことを考えながら、ライははじめて見る植物の影の下でしげしげと観察していた。木々のおかげで影が出来、湖の周りは随分涼しい。
気づけば、アイクが手早くマントを脱ぎ荷物を下ろしている。そして湖の縁まで行き、残り少ない水筒をたゆたう水の中へ入れた。それを見、ライも同じように荷を下ろす。今日は落ち着いた場所でテントが張れそうだ。既に顔や手を洗っていたアイクを真似る。水を掬って顔を拭い首筋を洗う。ついでに少し水をすすると、乾いた唇が潤う気がした。水温は思ったより冷たくない。それでも砂にまみれ汗をかき、火照った肌には気持ちが良い。腕と手を水に浸すと随分さっぱりした。
「あ」
水に透ける手のひらを広げてみる。左手には先ほどアイクにもらった指輪がはめてあった。とりあえずなくさないように身につけ、話は後でゆっくりということで先を急いだのだ。
おっと、と呟きながらライは手を水から上げる。木製の指輪は乾いた色から水を吸って濃い茶色に変わっている。雫がぽたぽたと落ちて、水面に跳ねる。
「なあこれ、水に濡れても平気?」
「ん」
じゃぶじゃぶと水を浴びるような勢いで顔を洗っているアイクに話しかけると、水気を拭うことなくこちらに顔を向けた。砂埃で汚れていた顔が随分きれいになっている。その代わりずっと手入れする暇のなかった無精ひげが目立った。ライの左手を見ながら、ああ、と思い出したかのように呟く。
「多分平気だと思うぞ。丈夫な木だから百年持つとかなんとか」
「どこで買ったんだよ」
「メリオル」
ぽいぽいとライはブーツを脱ぎ捨てる。ひっくり返すとさらさらと砂がこぼれた。いつ?と尋ねると、お前を待ってる間、と返ってきた。
「そっか、待ち合わせにお前の方が先に来てたんだっけ」
「俺の方が近いからな」
どうやらこの旅に出る前に購入したらしい。そういえば3日くらい早く着いたって言ってたなあ、とライは思い返す。湖の縁に腰掛けて水に足をゆっくり浸した。水面はとても静かだ。透明な水はすべてを見渡せ、底は不思議な青色に揺れている。空や海とも違う宝石のような青。水草がそよいでいるけれど魚の姿は見当たらなかった。軽くかき混ぜるように足を動かす。こんなのんびりした気分になったのは久しぶりだ。
「つうかお前、これ1ヶ月近くずーっと持ってたの?」
「そうだが」
振り返ったライをちらりと見やりながら、マントを引き寄せ鉢巻きを外し、水洗いできるそうなものを荷物から出してアイクはまとめている。そうして先ほど汲んだばかりの水にやっと口をつけた。
「……、いつ渡したらいいかと思って」
眉間に少し皺を寄せる。アイクなりにずっと考えていたらしい。無言で差し出された水筒を受け取りながら、くくっとライは喉を鳴らして笑う。
「それが今日とは」
なあ、と感心するように漏らして指輪を見やる。彫りも施されていない指輪はなめらかな手触りだ。大きさはほぼぴったり。こういう勘だけは冴えているらしい。ラグズは基本的に鉄の匂いのするものは好まず、特に装飾具は身につけない。そのことをアイクは覚えていたのだろう。鼻先に薬指を運ぶ。けしてじゃまにならない素朴さと匂い。
「ところで何で指輪? お前が装飾具を贈り物に選ぶなんてさ」
ちょっとは洒落てるじゃないか、とライは水から足を引き上げ草の上で足を伸ばした。
いつのまにかアイクもブーツを脱いであぐらをかいている。その顔は一瞬ぽかんとして、その後で難しい顔になった。いや、と頭をかき、そうか知らないのかとなにやらぶつぶつ呟いて、ごそごそと首元を探った。アイクの首には紐が巻かれているのが見えた。それを引っ張り出すと、ライのと同じ作りの指輪がぶら下がって出てきた。
お揃いじゃん、とライが指差すと、うん、とアイクが少し困ったように頷く。
「ベオクの間では、将来を誓い合った物同士で揃いの指輪をする風習があってな。俺もよく知らなかったんだが、それで、どうかと思って」
最後の方はなんだかごにょごにょして分かりづらかった。ライをメリオルで待っている間、買い物に寄った市場で偶然足を止めた装飾具屋で勧められたらしい。この指輪は、クリミアでよく婚礼の贈り物の材料として使われるユクの木で作られている。二つに分かれた幹が螺旋のように絡み合い育ってゆく珍しい植物でとても縁起が良い。これで作られた装飾具を身につけた2人は永く離れることがないとの言い伝えがある。そんな話を延々と商人に聞かされ、半分勢いと流れで購入したようだ。ちゃんと説明するために覚えていたらしい様子でアイクはそのことを話した。
よく忘れなかったなあと長い説明はいつも端折る癖のあるアイクに感心すると同時に、ライは改めて自分の指にはめられた指輪を見た。
「じゃあお前に悪いこと、したな」
アイクの顔が眉をわずかに上げて瞬きする。
「後でなんて言っちゃっただろ。ベオクにそんな風習があるって聞いた気もするけど、覚えてなかったからなあ。悪かったな」
手を空にかざしてみた。木陰を逃れた手はこれから沈みはじめてゆく太陽の光に透かされて血管の赤にほのかに染まる。尊い希いの込められた贈りもの。知らなかったなあ、とライは独り呟く。知らなかった。一緒にってそういうことだったのか。思い返して、ゆっくりとその希いが自分の心へ届いて沁みこむ気がした。この気持ちはなんていうのだろう。
「ありがとな」
振り返ってアイクを見ると、差し込んだ太陽の光がちらちらと踊ってライの視界を眩くさせた。その中でアイクが嬉しそうに笑う。受け取ってくれただけでいいんだ、と満ち足りた声音が緑の影が瞬く視界の中で響く。
「こうやって首にぶら下げておいてもいいぞ」
邪魔じゃないか、とアイクが訊く。どうやら自分自身、戦いの最中に気になるから指にはめていないらしい。うーん、とライは薬指にすっかり納まっている指輪を見ながら考え込む。
「いや、いいよ。せっかくだから当分着けておく」
木の手触りを味わって右手で指輪にそっと触れてみた。上手く、言葉に出来ない気持ち。
心なしかやさしい風が、はじめてこの地を吹くようにオアシスに訪れて、遥かに駆けていった。全身を透かして心の大地にそっと吹く。すべてが新しくなるような穏やかな風。これがアイクにも届くだろうか。
「……一緒にいるよ」
そんなもの似ているとライは思った。
fin.