さみしいね、
と五つの音を拾いその意味を理解するまでに少々の時間がいった。
「……うん?」
生返事でアイクが振り返ると、部屋のドアの近くに妹のミストが微笑んで佇んでいた。もう一度、同じ言葉を繰り返して小さく首を傾げるようにする。その様子に何か含みのようなものを感じはしたが、アイクは気に留める素振りなく戸棚から本を取り出そうとしていた手を止めた。
「何がだ」
「もちろん、会えなくて」
だってもう二ヶ月は会ってないでしょ、とミストは腕を組んだ。
ああ、とアイクは漏らして、指先で傾けていた本を押し戻した。すこん、と小気味いい音が木の棚を鳴らす。そういえばもうそんなになるのかと、頭の中の日めくりをさっと巻き戻してみてから、一人の男の姿を思い描いた。
淡い空の色の髪に、ふと触ってみたくなる獣の耳、気まぐれを表すように揺れる尻尾。左右色の違う目を細めて笑う癖、少し猫背気味の歩き方に、音をさせない足運び。復興作業中は毎日といっていいほど顔を合わせていた。
なあ、アイク――あいつは無駄に人の名を呼ぶ――と懐っこく寄ってくるベオク好きのラグズ。
そこまでしっかりと思い出してから、はたとアイクはミストを見た。しかしミストは特別な反応を見せることなく、先ほどと変わらない微笑みをたたえている。それが変なのだといくら鈍いアイクでさえ思ったものだが、何をどう言えばいいものか考えあぐねて黙り込んでいると、そんな兄の様子にミストはほんの小さく鈴のような声をこぼして、
「さみしいわね」
と言い残し部屋を出て行った。
その後姿を見送りながら、ドアがゆっくりと閉じていく合間にアイクは誰に聞かせるわけでもない返事を小さく呟いてみた。
まったく、女は鋭いものだ。ミストにも誰にも、アイクは自分の想い人の話をしたことはない。隠し通そうと思っているわけでもなかったが、言いふらすようなことでもないから誰にも言ったことがない。
核心を尋ねられたこともないのだけれど、あの顔は何となく察しているのだろうなと思う。そのことには一応アイクも薄々気づいてはいる。誰を思い描き、“会えなくてさみしい”と思っているのか、見当がつけられているのは少々落ち着かない心持ちではあったが、自分から明かすのも面倒臭くて結局そのままだ。
ティアマトもときどきああいう顔をするなと今更のように気がついて、アイクは頭をかいた。
戸棚に向き直ると、先ほどに手にしかけた本を半分ほどまで引き抜いて、やはり元の場所へ戻した。何の気まぐれか、滅多にしない戸棚の整理をちょっと前にはじめたのだが、あまり意味のないことだなと思っていたところだった。
アイクの戸棚は書物やら旅に必要な道具やらがそれなりの秩序を保って置いてある。持ち物は他人に比べると少ないから、戸棚も基本すかすかだし、そこへ置いておけばまず見失わないというような状態だ。お前の部屋は何もない、と収集癖のある猫の一言がアイクの部屋のすべてを表している。
唯一あいつが褒めたのは窓だったか。
ここ気に入ったよ、と振り返って笑ったその窓辺にアイクの目は流れる。
部屋にあるたったひとつの滑り出し窓と、そこから見える小さな風景を好きだと言った。よく分からないというような顔をアイクがすると、見透かしたようにお前にはわかんないかもなとさらに笑った。あの笑顔が今は手の届かない場所にある。
窓は、火を焚かなければならないほど寒い冬の日や依頼で家を空けるとき意外は大抵開けてある。戸棚を水拭きするつもりだった雑巾を取って窓へ近寄った。窓枠をぎゅっぎゅっと拭いてから、そこへ腕を預ける。隙間から覗ける世界は狭い。庭という意識がないから、あまり手入れをするなど思いもつかない裏手の茂みは夏翳る時期になって春よりも随分背丈を高くしている。色も、空の青を吸い込んだかのように濃い緑だ。小さな白い花、あれは薬草の花だっただろうか。
アイクにとっては見慣れた景色だ。窓枠からやっと頭が覗かせられるときから、ずっと目にしている。だけれど馴染みのある場所だからこそ、好きと言われれば自分の一部分がそう言われているようで嬉しかった。
視線を滑らせて窓枠を上に辿ると、小さな羽虫がよじよじと脚を忙しく動かして上っているのを見つけた。緩い力でぴんと外へ弾き飛ばしてやると、音もさせずに虫はふらふらと逃げていった。細く覗ける空を背景に、ふっと窓の陰にその姿を消す。
見上げた空には大きな入道雲が立ち上っていた。もこもこと綿のような雲は内に嵐を抱いている。青い空に白の雲は映え、それは夏の晴れ日に相応しい景色でなかなか雨が降るようには思えない。
思いついて、くん、と鼻をひくつかせてみたが、あいつの言う匂いは分からなかった。雨の嫌いな青い猫は、ときどき鼻や耳で敏く雨の気配を捉えた。湿った空気の匂いがする、と言うのだが、アイクにはちっとも分からない。傭兵という仕事をしているのもあって、そういった前触れなどは子どもの頃から自然と周囲から学んだものだが、やはりラグズの鋭さには敵わないのだろう。
ちらりと外へ目を落とす。
一度、ここで顔を合わせたことがあった。急に訪ねてきたあいつが外から顔を覗かせて、丁度こういう形で向き合った。驚きながら出迎えた瞬間、雨が降る前に着いてよかった、と笑い、その顔を両手ですくって、アイクは誰にも見られないように優しく口付けた。上手く説明出来ないけれど、形づくるものすべてが、ただ、愛しかった。
するり、とささやかな風が部屋へ入り込み、アイクの髪を撫ぜる。その風が幾分冷たいものを含んでいるようにも感じたけれど、見極める前にあたりへ紛れて消えてしまった。
さみしい、か。
こういう感情はいつまで経ってもなれないな、そう想いながらアイクは頼りない笑みを浮かべ、いるはずのない想い人へ手を伸ばし、もし触れられたならそうしただろうというように、
「……ライ」
と、小さく名を呼び、触れた指先をそっと握り締めた。
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さみしい、という感情にはもう慣れている。
仲間もいる、友人もいる、大切な人もいるけれど、変わり者だという自覚はあるから、いつだったか人に自分を揶揄したように魚みたいにぷかぷか周囲から浮いているのは理解していたし、孤独という感覚はすでに飼い慣らしているところがあった。そして最近、自分とベオクの時間の流れが違うということも実感として感じるようになっている。
いつかは自分を置いていく。
それを想像するようになったから、さみしい、という感情には余計に慣れてしまった気がする。
ぴく、と獣の耳が動く。改めて探ることもなかったが、やっぱり近く雨が降るな、とライは窓の外を振り返ることなく思う。ペンを持つその手は休むことなく、文字を綴っていく。
ライは、書類仕事を自分に家に持ち込んでこなしていた。復興後のクリミアとの国交が盛んになったため、こういった仕事が最近増えているのだ。公用語を読み書き出来るラグズは今もまだ少ない。その上、獅子王の信頼が厚いのは光栄なことだが、真っ直ぐだけれど粗野で乱暴者のお目付け役にもなってしまったから、やたら仕事が増えた。
こんなんじゃ全然会いにいけないよなあ。
心の中でぼやいてライはペンを走らせる。あ、間違った、と巧く形にならなかった文字を見つめてから、とりあえず二重線を引いてそのままにしておくことにした。簡素な机の下で脚を組み直して、また紙へペンを下ろす。三つほど単語を並べて、ああそうだと近くへ山積みにしてあった書類をあさる。目的の一枚を引き抜いて睨めっこしたかと思うと、ふあああと大きくため息をついてライは大きく椅子へ仰け反った。
逆さまになった視界に、開け放たれた窓が目に入る。いつもより心なしか暗く見える森がその奥にあった。やがて訪れる雨の気配に感化されているのだろうか。
そのまま、ライは目を閉じた。いやでも感じ取ってしまう、雨の気配がさらに身体へ染み込む。
次は俺が会いに行くから、そう約束したのはいつだろう。確か、二ヶ月前に会ったときだったと思うけれど、会えばたいてい片方がそう言うから毎回のことともいえる。
あいつが、窓の外から手を伸ばす。見送る自分の頬をとって、またなと微笑んで背中を見せる。互いに心が苦しいから、けして振り返ったりしない。自分もなるたけ早く窓から離れてしばらく家に閉じこもるのだ。たいがい女々しいと最初はよく思ったが最近は諦めるようになった。さみしいものは仕方ない。
別れ際のすべてをまぶたの裏にそっと思い浮かべて、ライはゆっくりと目を開けた。よいしょっと声に出して、姿勢を元に戻す。ちゃんと座り直して背筋を伸ばす。頭の端っこがぴりりと気持ちちよく震えた。
そう、仕方ない。さみしくても一緒にいたいと決めたのだ。オレも、あいつも。
息を吐きながら手を下ろして何もない宙を一点見つめた後、まったく好きにもほどがある、とライは照れることなくからりと笑ってペンを拾った。これが早く終われば会いに行けると単純には考えなかったが、前倒しになるよりいいだろう。隙間だってそのうち出来るというものだ。
するりと、風がそよぎひそやかな冷気を運んだ。
ライは振り向かなかった。いよいよやってくるなとぼんやりと思いながら、新しい羊皮紙を引っ張り出して書きつける。
そのとき何かの気配を拾ったようにライの耳がぴくりと動いた。
「……アイク?」
後れ毛に触れられたような気がして慌てて首筋を撫でる。指先でそろりと髪をすくわれて撫でられる感覚。呼ばれれば何度だって心揺さぶられるあの声がささやいたような気さえして、目を見開き素早くライは身体をひねり窓を振り返った。
ああこれが、さみしいというものかと、予期していたはずの訪問者を目にしながらライは目を細めて口元を歪ませる。
外は、訪れた雨がやさしく、地面へ手を伸ばしていた。
fin. アイクとライで20のお題 “9. 離れていた時間”