「アイク」
呼べば、マントをはためかせてゆっくりと振り返る。山を抜け、森を抜け、開けた平野の入り口にアイクは立っていた。
その様子は別段驚いたふうもなく、自分の気配に気づいていたのだろうとライは思う。
「どうした、何かあったか」
つま先と踵が半分沈みこむほどに積もった雪をしっかりと踏みしめながら、アイクはわずかに傾斜した地面を登ってライの方へやってきた。
何もないけど、とライは腰に手を当てて息を吐く。それは霧を吹きつけたように白い。
ライの横にアイクは並んだ。そうしてゆるやかな丘陵から辺りを見渡す。
「どこを見ても真っ白だな」
「ああ。いよいよこれだ、これからもっとデインの奥へ行けば行くほど寒さは増してくる」
ライも頷いて、息を吸い込みながら見慣れない世界を眺めた。
岩のような無骨な山々、枯れた木が乱立する森、凍えた草の埋もれる平野、すべてが、雪の白一色に覆われている。
太陽は薄雲に隠され、空までもが濁った白で淀み、平野と森の境目、森と山の境目、そして山と空との境目が薄れたこの世界は、どこまでも果てなく白が続いているように見え、寒さのせいだけではなく、そこに存在しようとする人間を孤独にさせるようだった。
ここはデインの南、国境でもある山の麓だ。デインの冬は寒く厳しい。それは東に聳える険しい山々から吹き降ろされる風のせいで、夏にも自然はその冬のような寒さを孕んでいる。
その気候と作物の実りににくい痩せた大地もあって、デインは貧しい国だった。
この国で生き抜いていくのは大変なことだろう。しかしその同情は今、皆が皆一様に持てるものではないのを、ライも、隣にいるアイクもよく知っている。
ライは腰に手を当てたまま、その肘でアイクのわき腹を小突いた。
「にしても、お前一人で偵察なんて迂闊だぜ、将軍」
最後の単語だけやたらと抑揚をつけて言うと、アイクが顔をしかめた。
「それはやめてくれ」
「はいはい、かしこまりましたアイク将軍」
笑ってわざとまた呼ぶと、唇を真一文字に結んで黙り込んだ。そういう顔をすると、まだ幼さの残る部分もあるのだとライは思う。
将軍という地位は皇帝サナキから一時的に与えられたもので、軍を動かすために仕方なく受け入れはしたが、アイクにとってそれは堅苦しい以外のなにものでもなかった。
その、地位や名誉、名声など、愚かな王族や貴族がこぞって欲しがるものに何の興味を示さないところがアイクの良さでもある。
そういえば3年前も同じようにアイクは将軍という地位につき、爵位を与えられもしたが、戦争が終結し、約一年ほど復興作業に手を貸した後、得たものを捨ててまた傭兵団に戻った。
そのことをライは思い出す。きっとまた、この戦いが終わればアイクは素っ気なく傭兵団に戻っていくだろう。出会った頃から随分成長してきたが、まったく変わっていない部分もある。それが、ライがアイクを信頼する理由のひとつだ。
「まあ、からかうのはここまでにして」
からりとライはひとつ笑った。
「将軍なんだからさ、軍を指揮する者が一人でふらっと偵察はだめだろ」
「む」
ちらりとアイクはわずかに視線を落とした。そうなんだが、と軽く唇を噛んでやめる。
「無傷だったのは傭兵団とラグズ連合軍だけだろう。傭兵団の皆には怪我人の手当てを頼んでいる。手が空いているのは俺くらいだったしな、これからまた先行するのは俺たちだ。だから自分で確かめておきたかった」
そう言って、アイクは遠く右手に連なる雪に染まった峰を見上げ、何もないな、と付け足すように呟いた。
「……そうだな」
ライにはそう返す以上のことは出来なかった。
数刻前まで、彼らはもう少し奥に入った山沿いの道にいたのだが、デイン軍に待ち伏せされ、ここまで撤退してきたのだ。
先行していた傭兵団とその仲間、そしてラグズ連合軍は無事だった。しかし皇帝軍と、友軍として参戦していたクリミア軍五千の兵はほとんど失われてしまっていた。
地形を把握出来ていないこちらの軍よりも、地の利は明らかにデイン軍にある。山沿いの、狙われやすい道を選んだことも迂闊な選択だったかもしれないが、進路を急がねばならない皇帝軍側の理由もあった。
しかしそれは命を失った多くの兵の骸と魂の前では良い訳にさえならない。
アイクは将軍として預かったクリミア軍の兵士たちを死なせた。それは事実だ。
アイクの横顔を、ライは見る。4年前、自分と同じくらいだった身長は少しずつ追い抜かれ、今では顔一つ分アイクが抜きん出ている。
その表情は変わらなかった。いつでも、ライや傭兵団の皆、多くの仲間が惹きつけられ信じてきた曇りのない意思の強い眼差し。前だけを見据え、迷いなどはどこにも感じられない。
実際にアイクは多くの兵を失っても、引き返そうなどと消極的なことは何ひとつ言い出さなかった。
こうして一人偵察にやってきたのも、行動の根底には将軍だからという理由はなく、今の自分がすべきことを考えているだけなのだと知っている。
悔いてはいるだろうとライは思う。しかしアイクは、悔いや怒りを理由に踏みとどまる人間ではない。
この戦争を収めることが死んだ者にとって何よりの手向けだと、胸を張って前へ進むだろう。そしてそれを本当に果たしてみせる。
そういう奴だと、誰よりもライは信じている。
やはり、とアイクの口が動いたのを見て取り、うん? と合いの手を入れる。
アイクが今まで見つめていた右手の方を指差し、起伏のある平野とその向こうに見えるまばらな森の影を指の先で撫でた。
「セネリオの言うとおり、隊を分け平野を行こう。また同じ道を行くのは危険が大きすぎる。何より兵の士気にも関わるだろう。今は慎重さも大事だが、それと同じくらいに迅速さも重要だ。石橋を叩いて渡るような、及び腰で進んでいる時間の余裕はない」
迷いのない口調と同意を求めるその眼差しに、ライは神妙に頷く。
引き上げていったデイン軍を追跡した鳥翼族の兵士によれば、敵方はここより東に進んだ川近くのノクス城に逗留しているとのことだった。
デイン軍はこの状況において、多くの兵を失った皇帝軍がすぐに攻め込んでくるはずはないと考えているに違いない。アイクたちは今、その裏をかこうとしている。
「少人数で先行して、今度はこちらから奇襲をかける。身軽に動ける者と人数がいい。傭兵団と、ラグズ連合軍の中から獣牙族の選りすぐりを貸してもらえないか。残りは皇帝軍とクリミア軍を援護する形で、後ろを頼みたい」
「分かった。お前が決めたことなら俺は力を貸すよ。それに、お前のとこの優秀な参謀の策でもあるからな、鷹王もスクリミルも納得してくれるだろう」
にっと笑うと、アイクも少しだけ表情を柔らかくした。
「それにしても、真っ白だ。どこを見ても」
先ほどと同じように、アイクはどこまでも続く雪景色を見やった。
「まったくだな。ウチの若い奴には雪を見たことない奴も多くってさ、ほら、ガリアには冬はあってないようなもんだろ。だからはしゃいじまって困る」
「そうか」
ライが大げさにため息をついてみせると、今度はアイクも少しだけ声を零して笑った。
白で埋め尽くされた退屈な世界に、夏の空のような海のような、深い青の髪の色はよく映える。
まるで、目印のような。
「……見失いそうだ、」
「え?」
ふと拾った呟きに、ライはアイクを見上げた。その横顔は遥かを見据えて動かない。
「何を」
短く尋ねると、一呼吸置いた後でアイクはそっとライに視線をやり、目を細めて、自分をと答えた。
その顔は少しばかりのいたずらっぽさを含んでいたものだったので、ライはどことなく安堵してから、
「それはない」
ときっぱり笑い飛ばしてやった。
風が啼いた。駆け抜けた一瞬、あたりからすべての音が攫われ、過ぎ去った後には残滓が冬山に微かにわだかまる。
雲が動き、太陽の姿がほんのかけらだけ覗いた。靄のような雲の衣に覆われてはいたが、その淡々とした光は雪に覆われた地上をぼんやりと照らした。冬枯れた木々と岩山に影を与え、平野に落とす。
よく見れば、平坦にみえた平野もでこぼことした陰影が浮かび上がり、緩やかではあるが起伏も見て取れた。デインはなだらかな平野が少ないのだ。雪の下には、痩せた土にごろごろと大小の岩埋まっているのだろう。それだから田畑にできるような土地が少なく、この国に住む人々の生活は苦しいのだ。そう言った背景も少なからず、この戦争の始まった積みに積み重ねられた理由を形作る根底にあるのかもしれなかった。
ライがそんなことを考えていると、アイクがすっと顔を寄せてきて、ほら、と平野を指差した。
いつからか自分の目線に合わせるように少し屈んだようにするその仕草が、少しだけライは気に食わない。そういうことにおいて、アイクは気を遣うということを知らないから気にすることはないのだけれど、その気にしなさ加減も含めて、悔しい、と言ったほうが正しいだろうか。
「あの影、」
近づいた横顔を素っ気なく見、何が、と返す。アイクは急に不機嫌を装ったライの様子に気づいたが、原因が自分にあるとは露知らず小さく首を傾げた。そして意に介さず、影を落とすすっかり雪を被った岩の陰を示し、
「お前の髪の色に似てる」
と言ってちらりとライを見た。その瞳はそれこそライの髪のような色をしていた。
雪に落ちる陰影は、大地に落ちるそれよりも淡く白っぽい。黒にはほど遠く、灰色とも言いがたい、まるで空の青を吸ってにじんだような何とも言い表しがたい色をしている。
確かに、水色に見えなくもなかった。そうかな、と呟くと、似てるとだけアイクから返ってきた。
伸びをするように、アイクは屈んだ姿勢を元に戻す。
「何色というんだろうな、あの色は」
「さあ」
腕を組んでじっとあの影を見つめる。そういえばさ、とふとライはひとつ思い出した。
「今もいるかは分からないけどな、デインのもっと雪深い北の方に暮らす民族は白い色を十以上の名で言い表すらしいって聞いたことがある」
「ほう」
「一年の半分が冬に閉ざされていて、どこを見ても雪の白ばかりだからなんだろな。そういう民に聞けば、あの影の色の名前も分かるかもしれないぜ」
ライが話し終えると、アイクは真面目な顔で、ふむと少々考え事しているような様子を見せた。
どうした、とライが尋ねれば気の入らない返事を寄越した。
そうして見渡す限りの深い深い冬の世界を目に映し、
「なんとなくな、俺たちにとってはここは何もない寂しい場所に思えるが、ここに生きる者たちにとってはそうではなく、親しみを覚えるようなそんな場所なのだろうと今更思っただけだ」
と静かな声で言った。
「ああ、うん」
分かるよ、とは口にせず、深々とライも頷く。
微かな風はやむことはなく、遠く山の向こうからひそやかに駆け下りてやってくる。撫ぜる風の手が行き過ぎるとき、雪の表面に細かな雪の粒のまじった空気がさあっと舞って流れた。
時折聞こえる、空気を裂くような音は鳥のものによく似ていて、実際啼き声が混じっていたのかもしれなかったが、よく分からなかった。
雪原にただ二人、この世界は果てを知らず、広い。
「……随分、遠くまできてしまったような気がするな」
沈黙を破る聞きなれた落ち着いた声がして、ライはその方を見る。アイクが小さく笑っていた。その顔に、本当だというようにライも目を細めた。
そっと頬に触れてみた。
風にさらされた肌は冷えた指先を拒むことはなく、乾いた氷の表面を撫ぜるように滑った。ライも冷たさに躊躇はせず、アイクも身じろぐことはない。
「寒いか」
と尋ねれば、アイクは目を瞑り、添えられたライの指に甘えるようにささやかに頬を寄せた。
「ここは冷える」
いつになく大人しいその声音に、それはきっと瞼の裏にクリミアの春を思い描き、心に掠めた微かな郷愁の念が寂しさに似た感情をにじませているのだとライは思った。
ほんと寒いよここは、と、少し腕を伸ばしてアイクの頬を手のひらで包む。首筋のあたりに指先で触れると、アイクの肩が小さく跳ね、目を開けた。
「俺寒いの苦手なのに」
「俺の上着に予備のマントを貸してるだろう」
ライの長い指を持つ手に剣を振るう大きくたくましい手が添えられ、頬から剥がされる。その手をアイクは握り直して手をつないだ。
満足そうにオッドアイの瞳を瞬かせてライは笑う。戯れるように、アイクの手に指を絡ませる。
「そうだけど、寒いもんは寒いの。蒸し暑い我が祖国が懐かしいぜ」
ふうと白い息を吐きながら言うと、その雪の残り香のような跡が消えてしまう前に、アイクが繋いだ手を引っ張り傾いだライの身体を引き寄せ、空いた手で肩を抱いた。
冬の空気にすっかり馴染んだ衣服は冷気と湿気を含んでおり、アイクの肩口に寄せたライの頬にごわごわした感触を与えた。
アイクの口元がライの髪をいとおしむ。唇が耳を掠めたくすぐったさでライはそれに気づく。
いつもなら感じる押し付けられた頬や唇、握られた手のあたたかさが、冬に感化されてしまった身体からは奪われてしまったかのように遠い。
感傷に似た時を過ごす間を、この雪の国は許してくれないようだった。
「そろそろ戻ろう」
半刻のうちにはここを発たないと、とライが見上げると、アイクはああと意を決したように頷いた。
その顔にはもう、雪原の中一人屹立する孤独や、自分だけに見せる幼さはなかった。それが少し寂しいだとかつまらないだとか思うことは、ときどきアイクに抱く独占欲だ。たいがい大人気ないとライは思うのだけれど、その気持ちを凌駕して、いつでも前を見ているアイクが好きなのも本当だ。
お互いなかなか離れようとしない身体を、名残惜しそうに一度ライは剥がしかけてから、やはりアイクの胸に俯いて頭を押し付けた。
自分たちはここへ、大きく広がりすぎた戦いを収めるためにやってきた。
今までにもどうにか生き抜いてきた戦は多くある。しかしこれからの戦いはさらにその比ではないかもしれない。
また、数え切れないほどの骸がこの冬の大地に身を横たえ、魂は故郷を求めさまようのだろう。この冷たい風のように。
それを見届ける者が誰であるか、この世に生きるすべての者に知る術はない。
啼き続ける風にまぎれて、アイクがそっと名を呼んだような気がした。それはひどくやさしい。
大丈夫。
一言、誰ともなく言い聞かせるように呟く。
「……あと少ししたら、帰れる」
その言葉は自身の心に染み込んで、風のように音なく心を引っかき、跡形もなく消えた。
fin.