帰るのか、とはいつも言えない。
言わないと決めているのもあるけれど、すっと冴えた空気が胸いっぱいに満ちるようになるから、その言葉もつい飲み込んでしまう。
数刻前まで共有していた熱がとうに収まり、まだ夜気の名残を漂わせている空気が汗ばんでいた身体を冷やしていくのを、アイクはしんしんと感じていた。
夢のようだったとは思わない。
湿った肌も、艶をました上擦った声も、重ねた熱も、すべて自分の腕の中に存在して、貪るように欲しがる自分も、それに応えてくれる相手も、確かにここに在って、熱情に浮かされた時間と心が元に戻っても、それが儚く消えたかといえばそうではない。
過ぎたというだけの話だと思う。
薄暗い室内のベッドに横たわったまま、心地よい気だるさにまどろみながらアイクは空気を撫でるようにゆっくりと瞬きした。
遠くの地平線で太陽が頭をのぞかせるころ、ライは衣擦れの音にも気を遣うように自分の隣からひっそりと起き上がる。
短い時間でしか逢瀬を重ねられないのは仕方のないことだ。
いくら隣国とはいえこの時代、ガリアとクリミア、国をまたいでの恋路は遠い。さらに互いの仕事柄、そうちょくちょく会えたものでもない。
行き帰りの時間を差し引けば、一緒にいられるのは一日や半日といういこともある。ばかだよな、とライは冗談まじりに笑うけれど、その短い時間のためにこうして尋ねて来てくれるのだから、アイクも笑って頷き返すことにしている。
夜明けのライの背中は透明だ。薄闇に浮かび上がって在る。
それを見ると、どうにもアイクは、らしくないと思うのだけれど気後れのようなものを吸い込んで、かすれた声さえ喉を落ちる。
閉めたはずの滑り出し窓のいびつな枠の隙間から、朝靄が白い光のようににじんでいる。
夜の残滓と朝焼けの気配が共存する部屋の中では、ライのなめらかな素肌の輪郭はあいまいだ。ゆったりとその形を保っているかのように、縁がちらちらとして、瞬きするとゆるゆると目の前で解けそうに思える。
光る闇の粒子で出来ているライの背中。帰らないと、と言葉にせずともささやく。
起き上がったライはすぐにごそごそと身支度を始めていた。手探りで床に脱ぎ散らかした下着と下穿きを拾い上げ、身につけているようだった。
はじめてライを抱いたとき、細いなと素直な感想を漏らせば頭を叩かれ怒られたのをアイクは覚えている。だからそれ以来、あまり口に出さない。でも、相変わらずライの身体は細いと思う。
頼りないとか、身体が薄いと思っているわけではない。ラグズだからなのか分かりかねるが、ライの体躯は鍛え抜かれた筋肉で引き締まり、しなやかだ。服をまとわない上半身がそれをよく教えてくれる。
日焼けした肌が陰に沈んでほの暗く光る。丸めた背中で、まさしく骨っぽい肩甲骨が盛り上がり影を作ってもぞもぞとうごめいている。
こうしていつも身支度するのをアイクが眺めていても、ライはなかなか気づかない。普段なら、何でも知っているような顔をして容易くこちらを振り返るのにそういうことがなかった。振り向かないのは、起きているのを知っているからかもしれなかったが尋ねたことはない。
「羽根でも見えるか」
急にした声に、アイクは思わずどきりとして手をわずかに引っ込める。冷えた肌を指先が滑ったのを感じて、ぼうっと定まっていなかった視界を意識を引き戻して眼前に呼び戻すと、無意識に触れていたらしい手がライの肩甲骨のかたちを確かめるようにしており、視線を少しずらせば、首を巡らせ自分を見下ろすライと目があった。
ライは薄闇に埋もれるアイクを確かめるように目を細め、微笑んだ。
寝ぼけてたわけじゃないだろう、と突然背中に伸ばされた手の感触に戸惑う様子もなく、アイクに問いかけて上半身を捻って振り返る。
「……羽根?」
一呼吸遅れて届いたライの冗談をなんとなしにアイクは繰り返してみた。
ライの素肌を、肩甲骨から肩、そしてと腕と伝って辿り、ベッドへついた手の甲に触れる。自分の手の中できゅっと小さくなったライのをそっと包み込むようにする。
アイクは、記憶の中から引っ張り出してみた鳥翼族の姿をぼんやりライの背中に重ねてみた。
そういえばと、昔初めて目にするその翼を不躾に見つめる自分に、親切にも生え際を触らせてくれた鷺の王子のことを思い出してやっぱり不思議だなあと思ったりする。普段じゃまになったりしないのだろうか、寝るときはやっぱり横を向いているのだろうか。
「お前、なんか違うこと考えてんだろ」
「ん」
ベッドについた手に体重をかけ、ライがアイクの顔を覗き込むようにした。暗闇で光を持つ瞳は心を見透かすようにきらりとする。
意外とやきもち焼きな猫だけれど、その目元がからかうような表情をしていたので、どうやら本気で疑っていたわけではないらしい。
少しの間を置いて、鳥のことを考えてたと目を閉じて言うと、
「きれいでおしとやかな鳥のことか」
とゆっくりとした声音が返ってきた。その声は硬くないが、アイクは首を振って否定しておく。
「羽根ってもの自体が不思議だなと思って」
さほどアイクの返事に期待していなかったらしいライは、その答えにふうんとそっけなく相槌を打ってとらわれていた自身の手をアイクのからするりと逃がした。座り直して片足をベッドの端へ乗せ、アイクへ向き直る。
「お前に羽根があったらよかったかな」
と笑いかけてライはアイクの額と頬に触れ撫でた。汗のひいた肌に引っかかることなく、ライの細い指が滑る。
「どうして」
「訊くか、それを」
声を殺して幾分か機嫌が良さそうに笑ったライに、いや、とアイクは口の中で呟いた。
ライの手を再び捕まえ、上体を起こしそのまま片腕でライの身体をぐっと引き寄せた。首筋に顔を寄せると、後れ毛のあたりがほのかに湿っていて汗の匂いがうっすらと鼻先をかすめた。
引き止めたいとは思わない。実際、思ったことはあまりない。引き止めたところで、別れがなくなるわけではないからだ。
ふ、と鼻から抜けるように甘く、ライが小さなため息のようなものをアイクの裸の胸に押し付ける。
「やっぱり、お前に羽根はだめだ」
アイクの腕の中で、ライは背を縮めるようにして自分の額を肩へこすりつけた。
鳥のようにいなくなる、と続けて小さく呟き、アイクの二の腕をゆるやかに掴んだ。
その、静かなライの弱音をアイクは見ないふりだけして、さっきよりも固くライを抱きしめた。
真っ直ぐに投げかけた視線は、白み始めている空から降り落ちる粒子がひっそりと窓の隙間から零れ落ちるのを捉える。
薄闇がひとつずつ、そのヴェールを剥がされていく。朝と、そして一日が目覚めようとしている。
もう夜の名残のない背中をひと撫でした。
前しか見ない自分も、背中しか見せないライも、強がりなのは一緒だ。離れたくないなんてことは、言わなくたって、言わないからこそ、沁みるようによく分かる。
「帰るな、って言ったらどうしようか」
ひとかけら、どうにも我慢ができなくなって口にしたのは冗談にならない冗談だ。戸惑うように滑らかな背中が小さく身動きする。ためらいがちの声が静かに胸へ届いて響く。
「……ばか言うなよ」
「うん、だから、返事はいい」
次は俺が会いに行く、と背中をあやすように撫でた。朝焼けの光が静かにライの背を滑って色をかすませる。
困らせたい、と思うほど、自分はもう子どもではない。年上の大人と張り合うわけではないけれど、ライとは対等でありたい。
ライがやさしいのを自分はよく知っている。自分が本気で欲しいと言えば、ライはいろんなものを犠牲にするだろう。
しばらくして、背筋を伸ばし自分の顎をくいっと持ち上げたライが、アイクの肩へそれを乗せた。片腕をアイクの腋の下から差し込んで回し、肩をぎゅっと抱く。
そうして、飛ぶようにやってこいよ、ぜったいだ、と乗せた顎でアイクの肩をしっかとはさみ、アイクの背を、翼の名残をそっと手で辿って離さないように掴んだ。
fin.