たった最後の嘘のつきかた
目を覚ますと、その横に三成の姿はなかった。昨日の嵐が嘘のように訪れた朝は穏やかで風が窓を叩く音さえない。外の明るさを透かして白く光る障子の向こうにはきっと晴れた青空が広がっているだろう。
家康は、三成の背を撫ぜ続けていたはずの手をそっと拾い上げ、その手のひらを見つめた。半分譲った布団にも硬い畳の上にも、もうどこにも三成の残り香はないのにこの中にはさすり続けた背中のひやりとした感触がたやすくよみがえる。
昨日三成のした幽霊の話が家康の脳裏にひりひりと自覚できない痛みを残して過ぎっていく。三成は、自分よりも前からその幽霊に繰り返し会っていた。そして触れることも出来ないその相手の言葉を必死で拾おうと口をつぐみ耳を傾け続けていた。何か自分に伝えたいことがあるのではないかと信じてずっと、ひたむきにその心を澄ませ家康に瓜二つの“徳川家康”の幽霊に向き合い続けたのだろう。三成らしいと、家康は思う。時に周りが見えなくなるほど三成は真っ直ぐだ。偽ることを嫌い、信念を曲げることを良しとせず、それを守るためなら自らが血で傷つき汚れることを厭わない。その真っ直ぐさが、眩しくて羨ましくて少し恐ろしくて、心がひりつくほどに好きだった。
三成は、自分にその幽霊の言葉を求めている。家康がそうだったように、亡霊が自分の元に現れた意味をこの再会に見出そうとしている。けれど、三成が昔から見せたあの射抜くような瞳で家康の中を探ってもそんなものは出て来はしない。それは家康がいちばんよく分かっている。三成に与えてやれるものなんて何一つこの手の中にはないのだ。出来ることならワシだって、そこまで考えて家康は目を伏せて自嘲に似たものをこぼす。手のひらを彷徨う三成の背中の残影を、家康は壊さないように柔らかに閉じのろのろと布団から這い出た。
居間へ行くと、母がなにやら片付けものをしていて自分が声をかけるより先に、三成君もう帰ってしまったわよ、と少し残念そうな表情を浮かべて言った。三成が帰ったのは今から二時間ほど前らしい。誰にも会わないよう早く家を出るつもりだったのだろう。家康がちらりと時計を確認すると九時を過ぎたところだった。
朝の早い母は起きぬけのところ、すっかり着替えて靴を履こうとする三成を玄関で見つけたのだという。用事があるのを思い出したからと三成は言い、母は朝食を取る時間もないならせめて家康を起こしてくると言ったのだが三成はそれを頑なに断った。昨日夜遅くまで話し込んでいたから起こさないでやってくれって、そう言って母は家康に微笑む。
「また遊びに来てもらって頂戴ね」
いいお友達、と言うのに家康はしんみりと頷くことしか出来なかった。
居間に父の姿はない。今も布団の中なのだろう。これから出かけるからと母が立ち上がった。友人と工芸展を見に行くらしい。帰りは遅くならないこと、朝食は台所に用意してあることなど、いくつかの言伝を残しながら居間を出て行く母のそれを半分上の空で聞きながら、明るい日差しの差し込む縁側の方に家康は視線を投げかける。嵐の後の清清しい青い空が外には広がっている。もう風はほとんどなさそうだが、庭の地面には多少の落ち葉や折れた小枝が目立つ。奥にある桜の木を見やると、その出で立ちはいつも見る姿と大して変わっていなかった。まだ若い葉の生命力は強いものなのか目立って落葉したようにも見えないし、その緑も突き抜けるような青い空の下でいつにもまして濃く鮮やかに見える。そよ風ともいえないそのふわりとしたものに、葉と枝が重なり合ってざわめくことはない。音の消えた、四角く切り取られた絵のような眩しい五月の景色をほんの少しだけ、穏やかな気持ちで家康は眺めた。
顔を洗い、出かける母を見送って朝食を取り終えた頃にようやく一度父が起きてきた。ほどよく酩酊して気分よく日付の変わる頃に帰ってきた父は三成が来ていたことに気づかなかったらしい。軽く朝食を取って居間で新聞を読んでいたが、家康が母に頼まれた庭の掃除と客用の布団干しをこなして戻ってくると、やはりもう少し休むと言って部屋へ引っ込んでしまった。二日酔いなら横になっていればそのうち良くなるだろう。
さて、手伝いも終わったしどうしようか、と思っているときだった。ぴんぽーん、と間延びしたチャイムの音がして家康は居間を出、はーいと応えながらぱたぱたと廊下を走った。何年か前にモニタ付きのインターフォンにしたのだが、どうせ玄関まで出向くかと思うと使ったり使わなかったりだ。玄関の引き戸のでこぼこした磨ガラスに小柄な人物のシルエットが透けて見える。ご近所さんでも宅急便でもなさそうだと思いながら鍵を開けると、そこには思いもよらない人物が小首を傾けて立っていた。
「こんにちは。家康さん」
「巫殿!」
確かに先日鶴姫に住所を教えはしたがこうして家へやってくるとは思っていなかった。鶴姫はパフスリーブの可愛らしいブラウスにフレアースカートの格好で小さなバッグを肩にかけ、その出で立ちに少々似合わない大きなキャベツが二つ入ったビニール袋をぶら下げている。来ちゃいました、といたずらっぽく笑ったのに、家康ははっと気づいて頭をかく。
「すまない、そういえば昨日電話をもらっていたんだった」
「いいえ大丈夫です! ただ私も三成さんに住所を教えてしまってよかったのか気に掛かって。大事な話があるって言っていたのでそれならばと思ったのですけど」
大丈夫でしたか?と不安げに見上げてくる鶴姫に、家康は元より怒るつもりなどなかったが、いやいやと手を振って眉を下げた。
「いいんだ。大丈夫。何にも問題なかったよ」
「じゃあもう三成さん来られたのですね」
「ん、ああ。昨日、な」
別れも言わず今日帰ったとは鶴姫のほっとした表情を見るとこぼす気にはなれない。詳しく話してこれ以上心配させるのも申し訳ないから、家康は気取られないよう小さく笑顔を作り、話はできました?と尋ねる鶴姫に頷いた。そして、今一度鶴姫の荷物に目を留まらせて指差す。
「ところで巫殿、それを持ってやってきたのか?」
「いいえ!あ、はい! 私うっかりして丸のまま持って電車に乗ってしまったのですけど、見知らぬおばさまが良かったらってこの袋をくださいました」
その光景と失敗談を朗らかに語る鶴姫の様子に家康の表情も自然とほぐれる。どうぞ、と言って鶴姫が両手を引き上げてキャベツの入った袋を差し出した。
「おすそわけです。先日お話した神社の裏の畑で作ってる春キャベツ。今日獲ってきたので新鮮ですよ」
「これはこれは。わざわざ申し訳ないな。ありがたく頂戴する」
恭しく受け取って、ちらりと家康は中を振り返る。もうそろそろお昼の時間だ。住所を頼りに電車に乗っておすそわけを届けてもらってこのまま返すわけにもいかない。父と母がいないのも丁度いいかもしれないなと思い巡らせたところで家康はこちらを見る鶴姫に笑いかけた。
「もし良かったら昼でも食べていかないか。ワシが用意するから手の込んだものは出来ないが」
目をぱちぱちとさせて一瞬の間があってから、鶴姫がわあ!と両手を組み感嘆の声を上げた。
料理をしているところが見たい、というのでそのまま二人で並んで台所に立つことになった。母は出かけていて、父は二日酔いで寝ていることを教えると鶴姫は鈴の音のようなころころとした笑い声をこぼした。
大きめの鍋を出し水を注いで火にかけ、材料を取り出し並べる家康の様子を鶴姫は邪魔にならない距離で、手を後ろに組みうきうきと身体を揺らしながら楽しそうに眺めている。
「家康さんはよく料理をされるんですか?」
「いや、本当にたまにだな。得意でも好きというわけでもないんだが、我が家は昔からほんとに和食が多くて」
言葉の意味をはかりかねて鶴姫が首を傾げる。
家康が料理をするのは本当に趣味でも何でもない。家康の母は専業主婦で家事全般得意な人だから日々の食事をいつも丁寧に作ってくれる。母の料理は美味しいし何も文句はないのだが、とにかく昔から徳川家の食卓は和食が多く祖父が存命だったときはそれが顕著だった。ハンバーグやグラタンといった洋食の献立は家康の誕生日だとかクリスマスなどイベントのときに並ぶもので、普段に出ることはまずなかった。家族三人になってからは多少頻度が増えたが多いとはけして言えない。
洋食のメニューの中でもいまだに徳川家の食卓にほとんど出ないものがあって、それがパスタだ。たまに無性に食べたくなって、いつしか自分で昼食を用意する機会があるとときどき作るようになった。基本は麺を茹でて炒めた具材をからめるだけなので、ほとんど料理をしない自分でもわりと簡単に作れるのもいい。
まな板と包丁を用意し材料を刻む家康の大した腕前ではないその包丁さばきに、鶴姫が大げさに感心する様子を見せる。悪い気はしない。
「巫殿は料理はするのか」
「お手伝い程度ならするんですけど、包丁は見ていて危なっかしいって母はあんまり触らせてくれません」
「ははは、なるほど」
「もう、笑い事じゃないですよ家康さん!」
頬を膨らませてこちらを小さく睨む鶴姫を家康は笑って宥め、あとは、とテーブルの上に置いてあったもらったばかりの春キャベツを取り出した。
「せっかくのいただきものだ。新鮮なうちにいただこう」
「わあ、春キャベツのパスタですか? 私はじめて食べます!」
おいしそうです、と喜ぶ鶴姫の横で家康はざるを取り出し、キャベツの葉を一枚一枚剥がしにかかる。
いちばん外側の色濃い葉と違って、直接日の当たらない部分はしっとりとした薄緑色をしている。手をかけて剥くとぱりぱりと瑞々しいその葉が上手くはがれずに裂けていく。春キャベツの巻きは少し面倒だ。冬の丸々太ったぎゅっと詰まったものよりきれいに剥がしにくい。柔らかな葉があどけない感触を残して形を壊していく。まるで前世という鎖に解け難く絡まった自分と三成のようだと、家康はふと思う。互いの行き場のない思いを不器用に解こうとして、結局上手くいかずにぽろぽろと形なく無残にしてしまう。ぷつ、と小さく頼りないものが裂けて壊れる音に、難しいな、と独り呟いた。
視線を感じて首を巡らせると、その横顔を鶴姫がじっと見透かすように見つめている。
「……なかなか、上手くいかないものだな」
何がと鶴姫が聞くことはない。そうですねと言ってほんの少し、目を細めて鶴姫は微笑んだ。
ほどなくしてにんにくの良い香りのする春キャベツとベーコンのパスタが出来上がった。皿に盛って台所にあるテーブルに並べると、もう席についていた鶴姫が目を輝かせ熱々の湯気と香りを胸いっぱいに吸い込むようにし肩をすくませる。麦茶とグラスを用意した家康が目の前の席についてどうぞとすすめると、いただきます、とにっこりして鶴姫がフォークを手に取る。くるくるっと一口分器用に絡ませて、ぱくりと口に運ぶ。それを見てから家康も手を合わせた。
「ん、美味しいです!」
「ははは、ありがとう。口に合ってよかった」
二口目を頬張ろうとする鶴姫に、家康も巻き取ったパスタを一口食べる。ベーコンの塩っけと春キャベツの甘みがバランス良く出来上がり、今まで作った中でも上出来だと家康も思った。歯ざわりの残った春キャベツは柔らかく噛むごとに甘みが増す。褒めると、鶴姫がとても嬉しそうな顔をした。
他愛もない話をしながらほとんど皿が空になったころだ。フォークを置いて麦茶をグラスに注ぎ足す家康を、鶴姫は大きな澄んだ瞳で見た。さらりと切りそろえられた髪を揺らして、目を伏せがちにぽつりと言った。
「……私ね、どうして再び神さまは私のことをこの世に作ったんだろうって思ったことがあるんです」
静かな、鶴姫の声に家康はそっと顔を上げる。柔らかな表情はいつもと変わりがなくて、そのことに安堵してから家康はうん、としみじみと頷いた。それは家康も、いや多分、この世に生まれ変わった誰もが一度は思うことだろう。
私、昔みたいな力はもうないんです、と鶴姫が言った。
「家康さんと三成さんにあったのも本当に偶然。前世の記憶はあるけれど、自分と同じ時代を生きてた人に会えるなんて思ってもみなくて、だからあのときはついはしゃいじゃいました。すっごく嬉しかったから」
肩をすくめて鶴姫が顔をほころばせる。
「本当に、予知だとかそういう力はないのか?」
「ええまったく。くじ運の良さはよく褒められます」
とんと胸を軽く叩いて笑う鶴姫に、家康はそうかと呟く。正直鶴姫に出会ったときその力のことを真っ先に思い出したわけではないが、前世とその雰囲気があまりに変わりがないからこの話を聞くまで予知能力のことを考えたことがなかった。自分が武術の腕を失くすのと、その天性の能力を失うのはまた違う感慨があるだろう。
食べかけの皿を鶴姫は見下ろして、手にしたフォークで春キャベツの欠片をつつく。
「だから、記憶があるのにその力のないことに少し落ち込んだときがありました。力があればもっと皆の役に立てるのにとか、力がある私のことを慕ってくれていたのじゃないかって思ったり」
そんなはずはない。素直で人懐っこくて心優しい少女を誰が愛さずにいられるだろう。鶴姫の周りに人が集まるのはその人となりが好かれるからだ。そう思った家康の視線に気づいたのか、鶴姫が気づいてこちらを見る。ふふっと笑うその顔には自分を恥じるものは何もない。
「でもね私の周りにいる人たち、ずーっと前と変わらずにあったかいんです。力のない私にも同じように。力の有る無しだけで私の傍にいてくれるわけじゃないってこと、私がいちばんよく知っているはずなのに、私っておバカです」
こつりと自分の頭を小突いて舌を出す。今は、小っちゃな小っちゃな神社の娘で幸せです。胸いっぱいの気持ちを表すように、その声は少し上擦って言葉の端っこがきらめいていた。
「私、普通を生きるためにもういっかい神さまに機会をもらったのだと思います」
鶴姫の真っ直ぐな想いが胸に染みていく。前世なしでは自分たちのすべては語れない。けれど、前世に勝手に縛られる必要はない。今世に生まれ変わることが神からの贈りものだとしたら、前世の記憶ももしかしたらそうなのかもしれない。そう思うことができたら、どんなに良いだろう。
鶴姫がいつのまにかフォークを置いた手のひらを家康に見せるようにし笑う。
「知ってますか? これね、神さまが縫い合わせた跡なんですよ」
左の人差し指で自分の手のひらの皺をなぞって、私の好きな本の言葉です、と付け加える。鶴姫の顔を見てぱちぱちと目を瞬いた家康は、つられるように手をテーブルの上に開いてその縫い目を見る。深く刻まれたものに細かくぎざぎざと残るもの、絶対に消えないそれは家康にとっては己の罪が刻まれたようにふと思われて、そのあまりに哀れな思い込みを打ち消すように、素敵な言葉だな、と独り言のように言った。
「ね、人間の身体でこんなに継ぎ目のあるところって他にないでしょう」
そう言って鶴姫が視線を落とし家康の手のひらの皺を指で辿った。つぎはぎの線をひとつひとつ丁寧に優しくなぞる。
それはまるで道程のようで、一本道をやってきたかと思えばその先は大きくうねって遠回りになっていたり、よく見れば小さな寄り道だっていくつもあった。迷って引き返して、出会って別れて、その道を、一人で行って、その先には。
辿る指が、人差し指と親指の間から落ちる線をなぞってすっと止まる。それに気づいて家康は顔を上げた。大きな瞳がそれを受け止める。
「きっとね神さまはこの手を作るのによっぽど苦心したんです。ああでもないこうでもないって、合わせてつないで縫い合わせて、自分のものと似せてそっくり」
この手が自分と同じように何かを創れるように。
そっと目を閉じた鶴姫の紡いだそれは願いだ。きらきらと輝いてこぼれる星屑のような、はかなくきれいで落とさないようにそっと大切にしたくなる想い。それはきっと多くの人の心の中にある。眩しさを覚えて、少しの胸の切なさに家康は目を細める。
「大丈夫です家康さん、きっと今世は大切な人との未来を作れます。だって、」
ねっ、と小首をかしげて今度は手のひらを広げて家康の前に掲げるようにする。にこりとする目に促されて家康も戸惑いながら鏡合わせのように同じポーズを取る。別れ際に手を振り合うのを静止したような状態だ。すると、ぱん、と気持ち良い音をさせて鶴姫が家康の手のひらに自分のを重ねた。
「手と手を合わせて、」
「「しあわせ」」
「……だろ?」
「そうです!」
子どもの頃に見たテレビコマーシャルのコピーをすぐさま思い出して、二人で笑い合う。その家康の顔にほっとした表情を滲ませて鶴姫がぐうっと小さく力をこめて家康の手のひらを押した。
「今世は、二人ですもの。きっと大丈夫」
穏やかな海のように優しい笑顔に、四百年前自分と三成のことを想って泣いたその顔が重なる。大切なものほど何も変わらない。野菜のおすそ分けにわざわざ来たのも口実なんてものではなくて、昔のように自分のことを心配してくれている心にも偽りがない。四百年分以上の思いやりに、それ以上のものを込めるのはとても難しいけれど家康がありったけの想いでありがとうと言うと、合わせた手のひらの向こうで大きな瞳瞬かせて鶴姫がはい、とこっくりと頷いた。
さ、残りも美味しくいただきましょう、と鶴姫が食べかけのパスタにフォークを差し込む。その様子を窺ってから、家康は先ほどまで鶴姫と重ねていたその手のひらを見つめる。あんな形で昨日触れることになった三成の手は前世と同じく長い指で、自分と同じく戦を知らないきれいな手をしていた。平和な世に生まれてきたのだなと今さらぼんやりと家康は思う。自分が創ったなどという自負はひとつぶもないけれど、四百年前の戦国時代は確かに終わった。鶴姫の言ったとおり、普通を生きられる世の中なのだ。手をつなぎたい人と一緒にいられる普通が、どんなにかけがえのないことだろう。
巫殿、と家康はその手を握り締めぐっと顔を上げる。強い想いの溢れた双眸に鶴姫が目をぱちくりさせている。
「頼みごとをしてもいいだろうか」
ごくんと口の中に入っていたものを飲み込んでから、鶴姫はこの日いちばん晴れやかな顔で笑って、もちろんです、と言った。


 ***


数段の短い石段を上がって朱色の鳥居をくぐった向こうに、石畳の参道が続いている。五月晴れの午後の日差しの下の、木々の開けたその場所に小さな社が見えた。その前には長身のひょろっとした人影がある。家康はそれを認めてさざめき揺れる緑の影を踏み、小走りに駆け寄った。
鶴姫の家である神社は家康の通う高校の三つ先の駅にある。鶴姫に書いてもらった地図がざっくりしたものだったので申し訳ないがスマートフォンで地図を検索してやってきた。駅から歩いて十分ほど、家康の住む街と似て昔から住んでいる家の多そうな閑静な住宅街の一角に、こじんまりとした森のような雰囲気でその神社はあった。駅の反対方向の出口を行くと鶴姫の通う学校があるらしい。毎朝楽でいいだろうなと家康は思う。
石畳の靴音に気づいて、賽銭箱の近くにいた人影がほどなくこちらを振り返った。まだ三回目だというのにその制服姿を見るのにももう違和感がない。三成だ。
「すまん。呼んだのはワシなんだ」
家康の顔を見るその表情とが納得とほんの少しの諦めで出来ていて、驚きが一寸たりとも混じっていないのに家康は表情を崩す。
「巫女の謀とはな」
いや神のか、と三成が視線をわずかに逸らして少しの侮蔑を込めて呟く。それが三成自身に向けられているのを家康は気づかない振りをした。
鶴姫に頼んだのは三成と会う約束を取り付けることだった。もちろん最初は自分から連絡してみたのだが、何も言わずに帰ってしまった三成が自分の電話にはなかなか出るはずはなく結局鶴姫に頼むことになった。話せるものならなるべく早くにと思っていた家康の気持ちを汲んでくれたのか、鶴姫が火曜日の学校帰りに会えるようにどうにか約束を取り付けてくれた。
「そういうわけでもない。巫殿は本当にお前に会いたがっていた。今度は三人でと言われたよ。それと伝言が」
ひょいと家康は賽銭箱の裏を覗く。確認して、仏頂面をしている三成を手招きする。三成が眉間の皺を深くして回り込むと、社の階段の一番下にビニール袋がひとつ置いてあった。家康は手提げに手を引っ掛けて中を覗き込む。笑って三成にも見せてやった。
「……キャベツだな」
「先日ワシももらったよ」
そのまま三成に受け渡して、袋の下敷きになっていたメモを拾い上げた。かわいらしい鶴の絵が目印とばかりに隅に書いてあるのを見る。
「お前宛だ。おすそわけだってさ」
ここの裏で作っているらしいぞ、と家康が差し出す置き書きと手元のキャベツを見比べてから三成は黙ってそれを受け取った。文面を目に含んでから面倒臭そうな顔をするのとは裏腹に、丁寧な所作でメモを半分に折りポケットへ仕舞う律儀さに家康は三成らしさを見て取る。
「……昔のお前なら捨てていたかな」
「なんだ?」
「いや」
不思議な感覚だと思う。時代もまったく変わって、姿も少し違って中身もそのようでいてそうでなくて、違うものの中に昔を見ることもある。三成の言う今世で過ごした十七年間を家康は一片だって知らないのに、その変化でさえ三成らしいと思うことがある。新しいのに懐かしい、それがとても愛おしく思えた。
音のない風が抜けていく。ぐるりと敷地を囲う木々が参道の方まで枝を伸ばし、生い茂った葉の影がちらちらと揺れて落ちる。緑多く少し鬱蒼とした雰囲気あるこの場所は五月の明るい日差しを遮り、漂う空気は少し冴えてときにはひやりと感じることもある。神聖な場所に相応しく、周りとは切り離されたような静かで穏やかな時間がここには流れている。地面に落ちる色濃い影と石畳に落ちる眩しい日差しのコントラストに、影の中にいるのに慣れた目が少し、ちかちかした。
「幽霊の話、出会ったときにしなかったのには何か理由があるのか」
居心地悪そうに微かに唇を噛むようにする三成を、家康は見つめる。三成はゆっくりと家康を見つめ返した後で視線を落とし、お前が生きていたからだ、と静かに言った。
「それならばもう言う必要はないと思った。あの幽霊が私に何か伝えたかったのなら今度は私の前に現れた家康、お前自身が何か私に言いたいことがあるのだろうと思った。だが、」
そこで言葉を切って苦く歪んだ口元か細く呼吸する。
「貴様は私から逃げてばかりだ。前世の一欠けらさえ私に言うことはない。そればかりか私の名さえ呼ばない」
家康。
顔を上げた三成が家康に強い眼差しを投げかける。
「私の名を呼べ、家康」
私の名だ、と拳を握り締め低く吼えるように三成は言った。その細身の身体をぴんと伸ばし大地を踏みしめ、真っ直ぐに見るその双眸は今確かに家康を見ている。
「私の名を呼び、そして私を求めろ。前世でお前がしたようにその手を伸ばせ」
私はここにいるんだ、貴様の目の前に。そう言って三成は自分の胸元を掴んだ。シャツの隙間から覗く白い喉元に反射的に家康は目を逸らしたくなるのに、なぜか出来なかった。その素振りを見逃さない三成が地面を鳴らして、家康に一歩詰め寄った。
「私が怖いか家康。怖いのだろう。それは私が、お前に殺された亡霊だからだ。私は今ここで生きているのに、なのに貴様のせいで、いつまでも私は、四百年前に殺された亡霊のままだ」
切れ切れになった言葉の最後には、はたりと血色のない頬を伝って涙が落ちた。乾いた土の上に音もなく一粒吸い込まれていったのをとても儚く思って家康は消え入りそうな三成へそっと手を伸ばし、ためらいがちにその腕へ触れた。
「……亡霊なんてそんな悲しいこと言うなよ」
「言わせてるのはどいつだ」
今のお前に殺された覚えはない、と掠れた声で言い切って三成は手の甲で涙を拭う。そうか、と家康は空いた手を見つめる。
「お前は、前世で自分を殺した相手を本当に恨んでいないというのか」
「ない」
「早いな、随分と」
苦笑いして見上げると、三成が澄んだ双眸でこちらを見ていた。
「十年近く考えたんだ。お前の幽霊は見る、前世の記憶はある、その中にまたお前がいる。そうしたらどうしたって考えるだろう」
私が貴様にしてやれることを。
それは言葉にはしなかった。自分が生まれ変わった意味を三成だって考えてこなかったわけではない。恨みはないと言ってやることで頑固な家康がそう易々と納得などしないことなど予想できたことだ。罪を背負って生きようとする家康に自分が出来ることなどあるのか、三成には正直分からなかった。それでも、家康が今世にいるならば、自分だって何か生まれ変わった意味があるのだと三成は信じたかった。
頬の、乾ききらない涙の跡がひりと冷たく肌を焼く。昔は気づかなかった、とぽつりと三成は言った。前世の逆巻く心の前に、家康の声も心もすべて自分には届いていなかった。だからあの幽霊の声は聞こえなかったのだ。今世の自分によくよく心を澄ませてみせるために。
聞いてくれ、とやがて家康が三成の腕を掴む手に力を込めた。昔、その眩さに目をそらしたくなったその瞳が三成を映している。その眼差しに射抜かれるのはまるで、今世では初めてのような心持に三成はなった。力強さと気高さを耳に残す声が改めて脳みその端に響いて甘く痺れる。
「再会したとき、お前が恨んでいないと言ってワシは本当にびっくりしたんだ。けれどその一方で、殺されることはないと心のどこかで思っていた。それは多分、ワシもお前の幽霊を見ていたからだ。あいつはワシを恨んでいる素振りがなかったから」
あの幽霊はそれだけを伝えたかったのかもしれないと今家康は思う。三成を殺したという罪の形を思い出させるためではなく、三成がそれを恨んでいないのだということを訴えたくて自分の傍に現れたのだ。
「今は、本当にお前がワシを恨んでいないことがよく分かる。ワシのことで以前のように憎しみで心をいっぱいにしていないのだと、それが分かっただけで、ワシは」
もう結構なほどしあわせなんだ、と家康は言った。小さく笑いかけて視線を落とす。
「なのにお前が辛そうな顔しているとどうにかしてやりたいと思ってしまう。会わないと決めたのに心にひっかかる。けれど、」
お前への罪は忘れられない、と言って家康はいつのまにか頬に熱いものが滑り落ちていたのに気づいた。三成が自分の顔を見ていたのに、それを手のひらを押し付けるようにして拭う。すると三成がその手を力強く捕まえて引っ張った。力強い双眸が家康を射抜く。けれど気圧されるのは一瞬で、寂しさと焦がれの色がふっとその瞳に滲んで三成がその息苦しさに目を細めるようにした。小さな掠れた声が家康の鼓膜を震わせる。
「それでお前は、また私を手離しにきたのか」
そうじゃない、と言いたかったのにそれは言葉にならなかった。その代わりに別の言葉がこぼれてやっと形になる。

三成。

溢れた想いが震える唇から滑り落ちて花のように香った。はっとして三成の顔を見つめ直すと、静かでやさしい穏やかな顔をしていた。それに吸い寄せられるように、捕らえられた手を剥がし伸ばして月の面影のような顎を震える指でなぞり、触れたいと焦がれ続けて遠ざけたその白い頬をつかまえる。血潮の透けそうな陶器のような肌に、深い冬に散る雪のようにさらりとした髪、すっと通った鼻梁に、強い意志と光を湛えた切れ長の瞳。前世と変わらない三成のかたちが自分の手の中に、そして目の中にある。忘れたことのない、壊したくなかったすべてが今ここにある。
触れた箇所がじんわりと温かくなる。冷えた三成の肌の温度が自分の手のひらをやさしくあやし、三成のきれいな顔がほんの少し歪んでそれが家康の心を締め付けた。
「三成」
惜しくなって、熱く痛む喉をこらえてもう一度呼んだ。両手を髪に差し入れて額を引き寄せる。こつりとあわせた額から自分の声が骨を伝って互いに響きひりひりした。
「……今世のお前は酷く臆病だ」
と三成が目を閉じ悔しがるように言う。うん、と家康は静かに頷いた。
「一度失うとこんなにも臆病になるなんて思ってもみなかった」
長く、息を吐く。その間に三成の手が家康の首筋に伸び、後れ毛に手を差し入れて慰めるように撫でた。
「三成」
「ああ」
「ワシが今世で望むのはたったひとつだ。それが許されるというのなら、お前に頼みたい」
家康は三成の頭に添えていた手を滑らせてその背中に回した。離さないようにくっつけて抱きしめる。
きっとこの罪は、罰では償えないのだろう。そもそも家康が考えうる方法のどれも三成は賛成しないし、自分自身に罰を与えること自体を三成は望まない。それならばこの罪の形を、たとえ赦されてもけして忘れずにいようと家康は思う。それを決意した上で今日は三成に会いに来たのだ。
前世の記憶を持ったままこの世に生まれ変わった意味をずっと家康は考えていた。多分三成もそうなのだろう。互いの幽霊にそれを思って長い間ずっと、互いのことを考え続けていた。それは、少し自惚れかもしれないけれど、こんなふうに歪にもつれて解きづらい縁でも互いを想う絆だ。それにやっと気づかせてくれたのは鶴姫だ。そして長い間見守ってくれた氏政と風魔も。
怖くて、身の程知らずだと思って、ずっと口にすら出せなかったその形。それは一人で叶えることは出来ない。この罪を持ってなお、そのひとかけらを望むことが許されるのなら。二人で今世に生まれ変わった意味は、それ自体にあるのかもしれない。
そうであって欲しいと願って、家康は抱きしめる手に力を込めた。臆病な気持ちに情けなく手が震えないように三成のシャツを握り締める。
「三成、お願いだ。もしワシが、この手でお前を傷つけ突き放そうものなら、今度はお前がその手で、どうか、」
救ってくれ。
三成の耳元に唇を押し付けて家康が掠れる声で、でも確かな声音で告げた。
「ワシを繋ぎとめてくれ三成。何度でも救い上げて、引き戻してくれ。もう二度と間違えないように」
これは身の程知らずの願いだ。ずっと一緒にとはまだ真っ直ぐには願えない自分の、嘘のような願い。何度でもなんて、結局三成をずっと自分に縛り付けるわがままなのにこの卑怯な心がそれでも一緒にいたいとしたたかに願う。
しん、と空気が静まった後で三成の喉の奥がひゅうと鳴ったのを聞く。いつのまにか自分の頭と背に回された手にぎゅっと力が入ったのを感じて家康はその答えに笑おうとして、少し失敗した。嗚咽をこらえて乱れた息のまま三成のこめかみに唇を落とす。すまない、と小さな声で謝るとそれを咎めるように少し強めの力で拳が背中を叩いてきた。臆病者、とすべてを察したその声は怒ってはいなかった。
「……殺してくれと言うかと思った」
そしたら、殺していた、と三成のきらめくようにかすれるその声が家康の耳へ届く。
「そうだろ、だから言わない」
ひりつく喉でむせるように笑ってから、家康はもう一度名を呼ぶ。
「三成」
「ああ」
「良い、名だ。昔は、しつこいほどに嫌がられるほどに何度も、呼んだのにな」
そう言うと、急に家康は黙り込んでしまった。三成を抱きしめる力をぎゅっと強くして縋りつくようにしたかと思うと三成の肩口に顔を埋める。三成が理由を尋ねる必要はなかった。堪え切れない嗚咽に肩のシャツ越しに伝わる熱の感触、震える背中を受け止めて、三成はいつだったか出来なかった代わりにゆっくりとその背をさすった。
もう泣き止め、と言ってやさしく身体を引き離そうとしたがしがみつく力の強さに一度拒まれる。もう一度あやすように背中をひと撫でしてゆっくりと解くように背中から手を外し、家康の腕の力がゆるゆると弱まっていくのを確認しながらその顔を覗き込んだ。思わず目を細めてしまう。手を伸ばして、親指でその涙を拭ってやる。
「酷い顔だ。まるで、」
遠い、雨の日の記憶がじんわりと胸を過ぎって一瞬、何もかもが持っていかれそうになる。けれど息を深く吸いゆっくりと吐く中で案外それはすっと収まって、心が静かな湖のように冴えて穏やかに正された。
それはあの日と瓜二つの顔だった。ぼろぼろと溢れ出る大粒の涙をひとつも拭わずに、後悔と懺悔と哀しみと恋慕とでぐちゃぐちゃに歪んだ顔。横たわる自分を見下ろした顔がまるで残影のように重なる。四百年前、自分を殺めたその泣き顔。
三成は、ことさらゆっくりに瞬きをしてまぶたの裏側によみがえる記憶を静かに押しやった。
「……忘れた」
ああこれが私の役目だったのかもしれないなとぼんやり考えて三成は目を伏せた。最初で最後の、けれどずっと続く一生の自分のしごと。
とす、と家康が三成の肩口へ頭を預ける。嘘つき、と声になっていない声がしたような気がしたので、心外だなといまだに震えるその背中を出来るならその咎を払ってやるようにやさしく、手を滑らせた。
空いた手をそろそろと探って家康のふっくらとした手に重ねる。それは心地よい体温で三成の手のひらを温めた。ふ、と息をこぼし三成は微笑む。
「嘘は、今でも好かない」




fin.
……やっと終わりです。
どうにかこうにか、自分の中で決着がついてくれました。ほっとしています。
「罪と花」のあとがきで、“家康の物語だったらもうここで終わり。”と書いたように、やっぱり家康が自分を赦せない限りこの話はそこで終わるべきだったのだと思います。
でもそれじゃ哀しい。それではゲームのEDと同じで、どこかに一緒に同じ道を歩む話があってもいいんじゃないの?って思って書き始めたのがこの話で、どうにも蛇足的に続いてしまったような気もするし、とても都合がいいようにも見えるかと思いますが、家康と三成の“二人”の話として、なんかこう、自己満足ですがちょっとは救いのあるものが書けたことがじんわりとうれしいです。ここまでお付き合いくださいましたかたがた、ほんとうにありがとうございました。
いくつか、この話を考えた理由はあるのですが、最後のひとつが“三成が家康にしてあげられる一生のしごと”を書く、でした。しなくちゃいけない、でもいい。家康が罪を背負うのと同じ覚悟で、三成もそれを背負って欲しいと思ったのが今回の、終わりかたです。
何回か日記で書いてるので、またこの話だーと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、学生時代、授業でパレスチナの紛争で家族を亡くした女性のインタビュー記事を読んだことがあって、その中に“赦すのは一生の仕事”と書いてあったのが今でも忘れられなくて、たびたび、思い出します。
家族を殺されたのはとても哀しくて憎いことで、犯人は赦しがたいけれど自分たちはそれをしなくてはならない、一生の仕事だ、というふうに書いてあって。
わたしは戦争と無縁の国で生きているけれど、たとえばニュースだとか、もっと身近なときでいえば、喧嘩話を聞いたときとか“赦す”ってどんなことだろうって考えます。本当に“赦す”って難しい。でも、だからその人にとっても一生の仕事なんだろうなと思います。ずっと向き合わなければならないことなんだなーと。
憎しみってどこかで誰かが赦さないとずっと延々に続いてしまう。『ペイフォワード可能の王国』という映画もある意味似たようなテーマで、善を受け渡し続けるのはとても難しいのに、憎しみはそれよりも容易く人につながり広がっていくということを描いていて、“赦す”ということを考えるとき、よくこの2つのことを思い出します。
だから三成にも、自分を四百年前に殺めた家康を一生をかけて赦してほしいなあと。家康のことを想っているならなおさら。
家康が罪を忘れられない心で許してほしいと言った嘘のような願いごとも、三成が自分を曲げてまで家康のためについた赦しも、どちらも、とてもとてもやさしい相手のための嘘。
最初で最後のやさしい嘘が、どうか一生叶い続けますように。
最後まで読んでくださいましてありがとうございました! 言葉に出来ない、“感謝”をこめて。

2014.7.18
This fanfiction is written by chiaki.