冬の気配はいつのまにかすっかり解けてなくなってしまった。目を閉じてもそれがいつまで此処に在ったかを思い出すことはもう出来ない。
かすかな春の香りを乗せていささか温い風が頬に触れ、離れていく。
机に肘を突き、その手に顎を預けたままで開け放たれた窓の向こうを眺める。授業の合間の短い休み時間ではあるが教室も外も、つかの間の開放感と活気に満ちている。笑い声と話し声が折り重なって止むことのない波のように耳にこだました。気が置けないその騒々しさに身を任せるのは少し、心地よい。
校庭では体育の授業が終わった生徒たちとこれから授業を受ける生徒とがすれ違う。ひと刷け、薄い雲を伸ばした青の濃くない空の下で白っぽく光る砂と土のグラウンドには陸上競技で使うトラックが石灰の白で描かれている。そこを自分が駆ける速度を思い浮かべてぐるりと目で追い、学校の正門に差し掛かったところで視線が縫い止る。
正門の脇には大きな桜の木がその枝を門扉の上に張り出すようにして佇んでいる。この高校が創立されたときに記念として植樹されたものだ。入学式のときには記念撮影をするのにぴったりの場所で、かくいう自分もそこで母に写真を撮ってもらった。
今年の桜は開花までに時間がかかった。二、三日前に終わった入学式のときはまだ三分咲きくらいで少しさみしいくらいだったが、最近ようやく六分咲きくらいになった。まだつぼみは見て取れるが薄ピンクの花々の陰に枝が隠れるようになってきた。
不意に桜の枝々が暖かな陽気の中でふわりとその身をよじらせた。ささやくような木々のざわめきが耳に届いて、ほころんだ桜の花びらが自身を惜しむ素振りもなくはらはらと舞い散って落ちる。
「……もうそんな時期か」
再び温い春の香りがその頬へ手を伸ばし、指先でそっと輪郭を辿り手首を返すようにして額を行き着き、後ろへかきあげた前髪をふらりと撫でつけ過ぎていった。まどろみを呼び起こす心地よさに身を任せ目を閉じていたが、自分を呼ぶ声に意識を引き戻し顔を向ける。
徳川、と自分の前に座っていたクラスメートが振り返りながら言った。
「お前、花粉症?」
さっきの自分の呟きに対するものだということに気づくのに家康は数秒かかった。花粉症って大変だよなと答えを待つ前に姉の話を続ける彼はマイペースな性格だ。適当な相槌を打つ中で教室の雰囲気が少しずつ落ち着いていく。そろそろ予鈴がなる頃だ。話はわりとすぐに終わって、家康は彼が一応答えを待っているのだということをその目を見て取る。一瞬さりげなく正門の方へ盗み見ると、薄紅の花をまとった枝々の下に仄暗い人影が透けたような気がして小さく息を吸い込んでから視線を戻す。
「まあ、そんなところだ」
予鈴のチャイムに被さるように笑って家康は小さく鼻をつまんでみせる。
十七度目の春が来た。
自分には前世がある、と家康が自覚したのは小学生の頃だ。高学年のときに社会の授業で“徳川家康”の名を見たときだ。これだ、と思った。ときどきフラッシュバックのように意識を横切っていくもの、花の香りが鼻先を漂う程度に浮んで消えていくもの、そのすべての記憶がこの人のものなのだと自分の分身に正しい名前が与えられた瞬間だった。
幼い頃から人は前世の記憶を持っているものだと思っていた。紙芝居で語られる物語を見つめるように、ひとつ前の記憶があるのが普通だと思っていて、けれどそれが他人と違うのだと聡い自分が気づくのにそう時間はかからなかった。
それよりも前、物心つく以前からだってその記憶はあったはずだが自我と記憶が上手いことつながらず宙ぶらりんの状態で、そのときの家康のことを空想癖のあった子どもだったと両親は言う。戦国時代の血と泥にまみれた合戦の夢を見て泣いていた子どもを、空想癖で笑って済ませるのだから随分大らかだけれど、神経質に自分を育てなかった両親に感謝している。
年月を経て知識と思考力が徐々に前世へ追いつこうとする中で、さまざまな記憶の一部分には微かな色がついていることに気づいた。それは消し切れなかった感情がノイズのようにちらちらと残っているようで、肌をひっかくように花香るように家康の胸をそわりとさせた。
時折見る古めかしい夢の中に、何度も何度も繰り返される夢がある。それは特に鮮明で生々しい感情を伴って家康に迫った。焼け付くような胸の痛み、心臓を握りつぶしたくなるほどに深く強い後悔の念。幾度も徳川家康が相対するその人物の名と顔を家康はしっかりと心に刻む。
石田三成。
前世の記憶の中で何度も蘇るその姿。擦り切れるほどに思い出しているのに一片も色褪せないすべて。数百年前に徳川家康がこの手にかけ何もかも終わらせてしまった清切で凄烈なひとつの魂。
三成にまつわる記憶はたくさんある。豊臣傘下に徳川家康がいたときのことは他愛もない思い出も多い。けれどその元を離れたときから少しずつ翳りが見え始める。絆の力で成す道を選んだ徳川家康の選択を石田三成は裏切りだと罵り激怒した。絆を結べる相手だと信じていたひとりの親友に家康は言葉の限りを尽くしたけれど、豊臣秀吉に忠義を捧げる石田三成にそれは届かなかった。そして二人は相対する。悪夢より血なまぐさい戦場で。
後に関が原の戦いと呼ばれるその戦いが前世の記憶から一部抜け落ちているのに、いつしか家康は気づいた。刀と拳を交し合う激突の記憶はあるのにそれは途中で途切れて、泥土に横たわる三成を小雨の中で徳川家康が座ったまま見下ろしている記憶に繋がる。
中学生になったころ、家康は歴史の本をめくるようになった。戦いの結末はその後三百年続く徳川幕府を語る記述を見ればすぐに分かる。石田三成は徳川家康に敗れた。そして徳川家康が、石田三成に手を掛けた。徳川家康が何をしたのかは、零れた雨ににじんでいく手のひらの血の跡を見ればすぐに分かった。夢か現か胡蝶の夢か。家康はいつもその眩暈を覚える白昼夢のような眠る夢のような記憶をまぶたを閉じるか、まぶたを開けることで終わりにする。自分の手のひらがその感触を想像してしまう前に。
その亡霊が、出るようになった。
家康が中学生になった春のことだ。最初はぼんやりと白装束のそれが桜の木陰に立っているのを見た。顔もよく見えないのに、ああ知った顔だと直感的に感じたのを今も覚えている。それが三成だと確信するのに大して時間はかからなかった。見上げた桜の枝の向こうに真昼の月のような白々とさざめく髪と青白い面差しを見るとき、木の陰に白装束をまとった細い肢体のつくりを見るとき、それら全部の形は徳川家康がよく覚えている三成のそれでしかなかった。
いつも長い前髪に隠して目を合わせようとしない、ひとかけらの声も聞かせてくれない、桜とともに現れる惜春の幽霊。
呼びかけたことも駆け寄ったことも、その手に触れようと手を伸ばしたことも何度もある。けれどいつもあと少しのところでまるで夢から覚めるようにその姿は家康の目の前から失せる。けれど三成は再び家康の元に現れる。毎年桜のほころび始めた季節はその繰り返しだ。
見るたびに、徳川家康が覚えている記憶がじりじりと家康の中で焦げ付いて、頭の端がしびれるようになる。何故自分の元に化けて出るのかななんて簡単すぎて考えるべきことでもないのに頭から離れない。だからこの時期はなんとなく寝不足気味だ。
一日の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響き、ほどなくしてホームルームが始まった。もう教室の空気は放課後の色を含んで落ち着きがない。家康のクラスの担任は教師生活30年以上のベテラン先生で、ざわついた雰囲気を今さら特にとがめるわけでもない。どことなく先生も今日の授業が終わった安堵感を少し漂わせるようににこにことしていて、穏やかに締めくくられるこの時間が家康は好きだ。連絡事項を読み上げる委員長の声を拾いながら頭の上に腕を伸ばし手を組んでぐっと伸びをした。耳の奥がわなないてひとつあくびをする。起立、と歯切れの良い声がしてがたがたと机と椅子の鳴る音の洪水が起きる。慌てて家康も立ち上がった。今日という一日がゆっくりと終わっていく。
掃除当番も頼まれた用事も今日はない。習い事はひとつしているが帰宅部だ。荷物をまとめて学生鞄に押し込み、賑やかになった教室を掃除当番に追い立てられる前に縫うように泳いでいく。
「徳川、もう帰んの」
「ああ」
「じゃあな」
「また明日な。部活頑張れよ」
何人かのクラスメートと似たような挨拶をかわして教室を後にする。廊下も昇降口もホームルームの終わった後は人が多かった。捉えどころのないこの放課後のざわめきを肌と耳で少し遠くに思うこの感覚を、家康は学校を出るまでぼんやりと味わう。ひとつひとつは聞き取れない話し声も笑い声も横をそっけなく走り去る足音も確かに自分の近くにあるのに、自分を構うことはない。世界はここにあるのに自分がいなくても世界はそのまま回っているような感覚、はずいぶん大げさで、放っておかれることに少しの自由を感じるような、透明人間というのはこんな気分だったりするのだろうか、と考えを巡らせてみる。善人ぶるわけではないけれど、多くの人の普通の幸せの形を垣間見てほっとするような心持ちはこんな感じかもしれない。
そんなことを考えているうちに正門までやってきた。覆いかぶさるように花の重みでいささかしなった枝を伸ばす桜を見上げて、今年入学したばかりと思われる女子生徒が何やらささやき合いながらこっそりとスマートフォンで桜の写真を撮っている。こんなに大きくて見事な桜だと、足を止める生徒もやはり少なくない。
奪われそうになる視線を意識的に引き戻そうとして足早になった。この時分、なるべく家康は早々に帰路に着きたくなる。
……なぜってこういう目に遭うから、だ。
結局見上げてしまった桜に一瞬目を見張って、家康はゆっくり息を吐いた。
白い左腕が、ぶら下がっている。手を伸ばせば届くか届かないかという中空に女のものではない細く白い手がだらりと、花まとう桜の枝にまぎれる素振りもなく伸びていた。その後ろには、長い前髪を垂らした無表情の顔と白装束をまとった身体が花隠れている。枝の上に横たわっているようにもみえるが、質感がないから髪や裾が風に微塵も揺れることもなく、その姿は桜の花の中に埋もれているとしかいえなかった。
心構えがあるとはいえ、悲鳴を出さなかったことに胸を撫で下ろしつつ、さっそく出会ってしまった幽霊にどうしたものかと思案する。こんなにも分かりやすい幽霊だが、誰も悲鳴を上げていないところを見るとやはり自分にしか見えていないらしい。
ふわりと桜の花びらをもてあそぶように風が吹いた。舞い散る控えめな桜吹雪に女子生徒が可愛らしい声を上げて喜ぶのを家康は背中で聞く。よく見ると幽霊は微かに透けていて、ひらり舞う花びらが積もることなくその身体の中を通り抜けていく。それと対照的に、左腕だけはやけに生々しい。ぴくりともしないのに、もし触れられたら血が通っていることが確認できる程度の温さと皮膚の押し返す感触がこの手に蘇りそうだと思う。親指と人差し指のあいだに切り傷の跡が一筋浅くついている。それにもよく見覚えがある。
ぎこちなく手を伸ばす。ロマンチストだと思われたりするだろうか。そうかもしれない、と家康は思う。幽霊に触れたいと思うなんてよっぽど感傷的だ。触れようとすると消えるなんてことは分かっているのに、あの腕を持って帰ってしまいたい、と狂おしいほどの想いがふつと湧き上がる。このままブレザーの内側に抱えてさらってゆきたい。白くて生々しい幽霊の手の指先に、桜の花びらが一枚ひっかかって落ちた気がしたけれど、それも気のせいだろう。
自分の指先とそれが触れることはない。
満開にはまだ先の枝々の隙間から日が沈むには早い午後の曇り空を見、家康は眉を寄せた。行き場のなくなった腕を引き戻して、ふうっと息を零しながら頭を振る。強すぎる徳川家康の想いにときどき目が眩んで、困る。
学校から最寄り駅へは住宅街を抜けて歩きで数分、そこからゆるやかに湾曲した小さな沿線の電車に揺られて1回乗り換え、あとは朝夕のラッシュには大変混み合う沿線にがたごと揺られて家康は自宅の最寄り駅に着く。南口はロータリーやほどほどの規模のショッピングセンターがあり、人も多く賑わっている。大きい駅ではないが生活に必要な施設はわりと駅の近くに集まっているから住みやすいところだ。
家康は北口から駅を出る。南口と違ってこちらはすぐにマンションや戸建ての並ぶ住宅街に近いので人の流れもそれほど多くなく静かだ。並木道をしばらく行って脇道に入る。この辺りは何代か昔から住んでいる家が多く、建て直しや新築の家も見かけるが古い家も多い。南口の店に客を取られてしまって閉めたところもあるが小さな商店街は残っていてそこそこの活気はまだある。そこを抜けなくても良いのだが、なんとなく足が向いて家康はちょっと寄り道をすることにした。十字路でまっすぐではなく右に入る。
商店街の並びの端っこの方に小さな骨董店がある。長方形の古い二階建ての建物に立派な木彫りの看板が出ている。店主の苗字に縁がないので由来を尋ねたことがあったのだけれど、百年以上続く由緒ある何がどうとか長い話を聞かされたのは覚えているが中身は忘れた。歳のせいで早くに目が覚めると八時頃に店が開いていることもあれば、お昼過ぎまでシャッターの開かないときもある。持病の腰痛が悪化すると随分早めに店仕舞いすることもあるし、突然仕入れに行ったり常連客との約束が舞い込むことも多いから不定休だ。老人の道楽じゃよと笑う店主はその店をもう半世紀近く続けている。
からんころん、とまろやかなドアベルの音を転がして家康は“小田原骨董店”とレトロな字体がガラス面に描かれたドアを開けた。こじんまりとした店内は壁周りには膝下の高さの戸棚があり壁には数段棚板が打ち付けてある。真ん中には腰より少し低いくらいのテーブルのような什器が置いてあり、そのすべてに売り物が並んでいる。この店で扱っている主な骨董は器だが刀剣や書も客の要望があれば仕入れることもある。入る前に器の並ぶショーウィンドーから覗き込んだので店主が居眠りしていないことも客がいないことも確認済みだ。
「こんにちは」
「おお、徳川の坊か。ちょうどいい。茶を淹れるところじゃ」
「それはありがたい」
茶菓子もあるぞと手招かれて家康は肩にかけていた鞄を下ろし一礼して破顔する。店奥の一段上がった板の間に座布団を敷いてちょこんと正座する店主は、家康のことを“坊(ぼん)”と呼ぶ。もうそんなふうに呼ばれる歳ではないからとやんわり遠慮したこともあるが、基本はこの呼び名だ。少し腰は曲がり小柄で細身だがかくしゃくとしていて、言葉にも動きにも緩慢さがない。ちょこちょことした仕草にせっかちが見え隠れする。伸びた白いひげは先がくるっと外側に小さく跳ね、白髪の上にいつも乗せているハンチングやベレー帽のような背の低い帽子はよく似合っていた。家康の祖父の知り合いで家康のことも子どもの頃から知っている。そして、徳川家康もその顔をよく覚えている。
店主の名を北条氏政といった。徳川家康の記憶の中でもどこか憎めない老将といった印象で、幼少の自分は初めて会ったときから既に知り合いの気分でよく懐き、そのまま今も縁が続いて可愛がってもらっている。まさか祖父の茶飲み友だちとしてこんなにも近くに生まれ変わりがいるとはと、前世のことを自覚したその後改めてびっくりした。
用意してもらった座布団を引き寄せ、家康は氏政の隣に腰掛けた。背後の暖簾と障子で仕切られた向こうには座敷、そして小さな台所と続き、右横にはトイレと二階へ上がる急な階段がある。台所で茶の用意を引き受けたこともあるので間取りはもう把握している。
「どうじゃ学校は」
目元に細かな皺を寄せ、髭の先を弄びながら氏政が家康の顔を覗き込む。
「はは、もうみっちり授業が詰まってるよ」
「よろしい。学生の本分は勉強じゃからのう」
「翁の持病の方はどうなんだ」
数年前から氏政のことを“翁(おきな)”と呼ぶようになった。小さい頃は北条のじいちゃんなどと呼んでいてそれも氏政は喜んでくれたが、翁と呼ぶのもたいそう嬉しそうにする。気に入っているのだ。氏政は眉を下げて表情を作りとんとんと腰を叩いてみせた。
「ううーむ、寄る年波にはかなわんわい。のらりくらりと騙し騙しじゃな」
「今年に入ってからは店休んだこともないだろう。まだまだだよ」
「そうかのう。そういうふうに言ってるとな、急にぐきっといくんじゃ」
「弱気だなあ」
「わし、もう七十越えてるもん」
「老年の人間は“もん”なんて使わないから大丈夫。翁は若いよ。ご壮健でナニヨリナニヨリ」
「なんじゃ、最後みたいに唱えおって」
茶目っ気のある老人と他愛もない会話で笑い合う。さて、と氏政が鼻を働かせた。
「茶にしよう」
音もなく暖簾が上がり盆を片手に持った人影が気配もさせずに現れた。緑茶の良い香りに家康が振り向くと、暖簾を捲り上げた手も盆を乗せた手も微動だにさせず無表情の顔をさらに濃い色付きの眼鏡で隠した長身の男が立っていた。相変わらず人間らしい素振りがない。けれど、徳川家康の記憶より多少は人間味が出てきたように思う。風魔小太郎だ。
「おおっ、ナイスタイミングじゃぞ」
心待ちにしていたというふうに、いそいそと氏政は座り直し家康の方へ身体を向ける。前世では忍だった風魔が今世でも使えるべき主に片膝をつき丸い木製の盆を氏政と家康の間へ静かに置いた。その上にはきちんと二人分の茶と菓子が用意されている。いつもこうだ。だから氏政もわざわざ風魔に声をかけることをしない。今世もよくよく風魔のことを信頼しているのが垣間見える。
家康に茶をすすめ、氏政は湯のみを持ち上げ美味そうにすする。いい香りじゃわいと幸せそうに一息つくその様子に口元を緩めてから、家康は風魔を見上げて小さく礼を言った。
「いただくよ」
「…………」
前世と変わらず風魔は喋らない。衣擦れの音も残さずに立ち上がり身を翻すようにして暖簾の奥へ消えていった。必要なときにしか姿を見せないのはいつものことで、表に姿のないときは奥で何かしているか住まいとして宛がわれている二階へ引っ込んでいるらしいが家康もよくは分からない。気づけば、風魔は氏政の元にいた。幼い頃はいなかったように思うが、氏政の傍には風魔ありきだろうと思ったらそう不思議でもない。
淹れたての温度を感じる熱い湯のみをそっと両手持ち上げ、家康はふうっと息を吹きかけ澄んだ緑の水面を静かに波立たせる。茶葉の爽やかな香りが鼻先に立ち上る。一口飲むと、その熱い液体が喉を伝って落ちていくのが分かった。つい、肩の力を抜いて息を吐いてしまう。じじくさいのう、と氏政が小皿に乗った練りきりに楊枝を差しこみながら笑った。
「ところで、出るようになったか?」
ぽろぽろと物忘れもするのは前から変わらないが、鋭いというか絶妙なタイミングで物事を思い出すことがある。
自分を窺う氏政としばし目を合わせた後、家康は出された和菓子に目を落とした。それはほんのり薄紅色に染まった桜を模った練りきりだ。さっそく今日会ったよと柔らかな桜の菓子を半分、楊枝で切る。
「校門の桜に手がぶら下がってた」
「ほう、今年も来たか。好かれてるのう件の幽霊に」
「うーん。どうだろうなあ」
「嫌な感じがしないと言っておったろ。ということは坊に好意があるんじゃ、その女は」
家康は笑って頭をかく。数年前うっかりと春に出る三成の幽霊のことを話してしまったのだが、氏政はそれを真面目に聞いてくれた。祖父にも家族の誰にも今まで打ち明けていない話をこぼしてしまったのはやはり同じ生まれ変わりという安堵からだったのもしれない。
しかし、細身で白装束をまとった幽霊、としか説明していないのに氏政は最初からそれが女の幽霊だと思い込んでいる。昔から伝わる怪談話に着物姿の女の幽霊は定番なので、確かに男の元に現れるのが男の幽霊だとはなかなか思い浮かべないかもしれなかった。今さら訂正するのも気恥ずかしい気がして、そのままにしている。
「好意は、ないんじゃないかなあ。化けて出ているわけだし」
「では坊に前世で縁でもあったのじゃないか」
どきり、とする。
「すまんすまん、怖がらせるつもりはないわい」
思うよりも力強く家康の二の腕を叩いて、氏政は笑った。もう氏政の皿は空になってしまった。甘い菓子を平らげて満足したふうに茶を飲んでいる。その氏政に装う素振りはない。家康も残りの菓子をゆっくりと口に運ぶ。口に入れるとやさしい餡の甘みが広がって舌の上でほどけた。
氏政には前世の記憶がない。徳川家康の記憶にあるそのままの容姿と知る限りの性格は一緒なのだけれど、ただ前世の記憶だけ持ち合わせていないようだった。
和菓子の最後の一口を飲み込んで、ちらりと座敷に繋がる暖簾の方を見やった。風魔のことは、分からない。家康にはやはりその気配は感じることが出来なかった。二階に居るのだろうか。少し冷めた茶に口をつけて、その冴え冴えとした緑を見つめた。
「翁は、どう思う」
「ん、何がじゃ?」
「もし本当にその幽霊がわしの前世に縁があって出てるとしたら、でもわしはその前世とやらを覚えていないから想いに応えてやることができないだろう」
「そうじゃなあ。困ったのう。幽霊には未練があるが、坊はもう未練がないということだものなあ」
そういうことだ、と思う。氏政は、前世での生を全うしたのだ。だから前世の記憶というものを今世に持ってこなかった。何はどうあれ前世の人生に満足していたということなんだろう。氏政がしわくちゃの顔で笑うと家康はほんのちょっぴり胸が苦しくなって、少しの羨ましさと悔しさと、今在る小さな平穏に心が満たされる。だから前世の記憶のことを、氏政に話すことだけはしないと決めている。氏政にとって今世での家康は茶飲み友だちの孫でありたかった。
うーん、と腕を組み首を傾げ続ける氏政に家康は笑いかけた。
「前世で縁があると決まったわけじゃなし、まあ、どうにかなるさ」
「はああ。そやつ悪意がない分、性質が悪いかもしれんのう」
「呪い殺されそうになったらそのときは言うよ」
茶を一気に飲み干して家康は立ち上がる。ごちそうさま、と奥にも届く声で礼を言って鞄を拾い上げた。今度知り合いに拝み屋のことを聞いておくと言う氏政に曖昧な笑顔で返して、また来るよと手を上げる。
「おお、ちょいと待たれい」
「ん?」
足踏みして立ち止まるあいだに、氏政がよっこらっしょと膝に手をつきゆっくりと立ち上がってお盆をまたぎ暖簾をくぐっていった。ぶつぶつと独り言が暖簾の向こう側から聞こえるのを聞きながら、家康は店内を眺めてしばし待つ。ととと、と畳を小走りにする音が聞こえて振り返った。小さな四角い箱を手のひらに乗せて氏政が現れる。ちょいちょいと手招きされ、家康は期待されたとおり手のひらを差し出した。
「そのままで悪いが」
と、氏政が家康の手のひらに先ほどの桜の和菓子が入った透明な小箱をそっと置いた。たまには古狸にみやげじゃ、と小さく片目をつぶってみせた氏政に家康はありがとうと頭を下げて微笑み、店を後にした。
家康の家は、これぞまさしく日本家屋といった木造の大きな家で敷地も広い方だがこの辺りの家は同じような家が他にもあるから特に目立つわけでもない。三世代も住み続けるといろいろとがたが来ているところもあって、まあそれも慣れだし自分の家を気に入ってはいるが、今の便利で綺麗なつくりのマンションにちょっとした憧れがあったりもする。
そこそこに広い庭の端っこには桜の木が植わっている。曽祖父がどうしてもと家を建てた当初に植えたものだ。庭に面した居間からでもその桜の綺麗な立ち姿を十分眺められるのだが、離れからは真正面にその桜を見ることができた。元々その場所には蔵が建っていたが潰して増改築という形で離れを建てた。母屋とちゃんとつながっているのになぜか離れと呼ばれている。
庭の桜は祖父のお気に入りだった。離れを作ったのは祖父で、満開の桜を、散りゆく桜を近くで心行くまで眺めていたいといちばん眺めの良い部屋を陣取った。
家康は家に着くと一直線に居間へ向かった。廊下を挟んで隣の台所からは何かを刻む包丁の音と夕餉の良い匂いがする。ただいまとそちらに投げかけると、母のまあるい声でおかえりなさいと返ってきた。それを聞きいてから居間の戸を開け隣続きの仏間へ足を踏み入れる。氏政にもらった和菓子を仏壇にそなえて手を合わせる。並んだ位牌を見つめてから、振り返る。隣の居間の開け放たれた障子の向こう、ガラス窓越しでもここから咲き始めの桜はよく見えた。
「……今年も咲きましたよ。じいさま」
ご満悦に笑う目のない狸に似た祖父の顔が思い浮かんで、家康はまた目を閉じて手を合わせた。
いつだったか、この家を売ってマンションを買おうという話が一族で持ち上がり話し合いになった。祖父が昔からの急な作りの階段で転んで足をひねったのが事の発端だ。大事には至らず近くの病院に通う程度で済んだのだが、古い建物だから老人にはやさしくないとか、何かあってからでは遅いから立て直してはどうかとか、それならいっそのこと、ということでここを売ってマンションにという話になったのだと思う。家康の両親はそこまで乗り気ではなかったように見えたが、周りの勢いに押されて話し合いに参加しているといったふうだった。
親族たちが好き勝手に話している中、ずうっと黙っていた祖父が会話の切り目を拾うように一言、あの桜は切られるんじゃろうなあとそちらを見やりながら言った。のんびりとした物言いだったけれど、一族皆それに答えられるものはいなかった。家康も、少し離れたところでそれを見ていた。親族たちが顔を見合わせ居心地の悪さを感じはじめたころ、祖父が振り返ってこう言った。
したらば、出るぞ。
したたかな古狸の顔でそれきり縁側に座り込み茶をすすって何も言わなくなってしまったので、その集まりもだんまりになってお開きとなった。それ以来その話は出ていない。
祖父が亡くなった後、あのとき売っていたらねえと母がたまにこぼすことがあるが、桜を眺める目を見れば本気ではないことはすぐに分かる。祖母は既に他界して祖父もいなくなって、家康と両親の三人だけになった家族にこの家は大きかった。さみしいとはこういうことだ。
自分が死んだらお前に譲ると言われてそのとおり家康が離れの一室をもらった。本来なら一家の主である父が受け継ぐところなのだろうが、トイレやら何でも遠いことと花粉症を理由に父が首を振ったためだ。
八畳ほどの広さの畳の部屋には、入って左に勉強机と本棚が並んでいる。右手の押入れには毎日上げ下げしている布団一式と、クローゼット代わりに服を収納している。右奥には小さな床の間があり、祖父が飾った掛け軸がそのままになっていてときどき母の生けた花もある。今は、手折った桜の枝が一本挿してあった。
正面の障子を開け放ち板の間を挟んだガラス戸の向こうを見れば見事な桜の木が目の前にある。太くずんぐりとしたこげ茶の皺の寄ったような幹に、しっかりとした枝が上へと伸びている。日当たりと土壌の違いからか、花の咲き具合は学校のより少し遅い。ほんわりとした花の集まりがぽつぽつと薄紅の小さな綿菓子のようにつぼみの多い臙脂色の部分と半々に混じり合いながら枝にくっついている。春霞のように花々の影が枝を隠すようになるのはもう少し先だ。
祖父がよくしていたように、板の間へ腰を下ろして胡坐をかいて桜を見上げた。暮れかけた夕焼け色の混じる空がその後ろに映って、ちらついたその眩しさに目を瞬く。
三成の幽霊のことを祖父が知っていたとは思えないがマンションの一件を思い出すたびに、切らなくても出てるよじいさま、となんとなく恨み言でもないが言ってみたくなる。もしそのことを打ち明けていたら、じいさまはどんな顔をしてどんなことを言ったろう。
そのままごろんと後ろへ身体を倒した。明かりのついていない部屋の陰る天井はよく知っている色と質感が沈んでそこに在る。考え事の向こうに少しずつその視界はぼやけていく。
三成はどうして自分の元に出るのだろう。その答えは簡単だ。自分を殺めた徳川家康を恨んでいるからの一言に尽きる。家康だって自分が誰かに殺されたら自分の意思とは反して幽霊になるかもしれないと思う。もしくは死ぬそのときに理由が出来上がるかもしれない。氏政の言う未練というやつで。
化けて出る理由など小学生の自分でさえすぐに思い当たったから、最初から家康は三成が自分を呪い殺そうとして出てきたのだと思った。そしてそれを覚悟した。お前を殺めたのは徳川家康のしたことだと弁解する気は不思議なことにこれっぽちも湧かなかった。あのとき首を絞めた感覚さえこの手に覚えていないのに、その業という荷物を背負う覚悟はあったのだ。
他人より少し荷物が多い。最近はそう思うようになった。人間五十年、いや徳川家康は七十過ぎて逝ったからそれよりもずいぶん多いが、人生ひとつ分をこの身に預かっていると思うとそれは随分重いけれど、放り出すことは出来なかった。少しずつ、前世の記憶で見る三成に歳が追いついていく中で、記憶を持ち続けることは何か意味があるような気がしたからだ。意味があってほしい、と願う自分もいる。
しかし覚悟しても三成は一向に何をするわけでもなかった。そもそも最初から殺気や恨みの気配はなかったのだ。その顔を姿を心根を知っていると、肩を並べた時代もあった徳川家康の記憶があるからだけでなく、恐怖を感じなかったおかげであれが三成だとすんなり受け入れることができたのだと思う。
何が、したいのだろう。ただ自分の前に現れて少し驚かせるようなことをして、それで満足だとは思えない。その程度ではあの恨みは晴れないに決まっている。恨みを晴らす気がない? ならばなぜ幽霊になる?
氏政の言ったことはたぶん正しい。三成は何か未練があって幽霊になり自分の前に現れる。
そして、前世の記憶がある自分もきっと何か未練がある。だからここに、持ったまま今世にいるのだ。
「……お前は、どうしたい」
いつのまにか随分部屋の中も暗くなってしまった。夕日が沈むのはあっという間だ。目の前にかざした両手にピントを合わせる。恐る恐る動かして、ぎこちなく、何かたよりなく細いものをとらえ、手を、添えるようにする。喉仏がぎくりと鳴るのを聞いたのに身体を強張らせ、家康はやがてすべて吐き出すように全身の力を抜き血塗られてないはずの手を放り出して大の字になった。
どこか急かされるような想いで、桜の季節は答えの出ない考え事にいつも心がどこか焦っている。手放せない意識を自覚しながらまぶたを閉じた。
これは夢だと、無意識に探り当てる気配に家康は大抵そう思い込む。ぼんやりと眠りの淵から浮かび上がった思考力にとろみあるまぶたを持ち上げようとする意識が追いついて、見慣れた暗い天井がこの目に映った。身体を転がし枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。拾って確認すると、ぼんやりと光る文字盤が二時過ぎを差していた。丑三つ時だ。あまりいい予感はしないな、と時計を戻して仰向けに直る。
ひとつものを考えるたびに少しずつ目が冴えてくる。今日は、帰ってきて宿題に手をつけてそれから夕食を取った。風呂に入る前に残りの宿題を片付けて、そういえばパジャマがなくてじいさまの浴衣を借りた。丈が足りなくて脛のあたりが今も心もとないが、仕方ない。布団の中で自分の脚をこすり合わせ紛らわせる。ゆっくりと、瞬きを繰り返した。風呂の後は居間でテレビを眺めながら少し涼んで、自室に引っ込んだ後は適当に時間を潰してそれから布団に入ったはずだ。ここにいるのは、夢ではない。当たり前のことを確認して安心したのも束の間、薄闇の天井からすっと現れたものに家康は心臓が口から飛び出しそうになった。人は心底驚いたときには一片の声も出ないらしい。
瞬きを忘れた瞳に映ったのは、三成の生首だった。
正確に言うと、生首ではなかった。家康の見つめる虚空にぬるりとなめらかに出でた白っぽい三成の顔が提灯のようにするすると下がってくる。その後ろにはちゃんと白装束に包まれた身体もあったが、認識するまで少し時間がかかった。長い前髪の張り付いた生気のない顔が手を伸ばせば届くほどの距離まで来たところで一瞬動きを止める。次に何が起こるのか、息を止めて身構える。
三成が家康の部屋へ出るのはこれがはじめてだ。数年前から、少しの変化は嗅ぎ取っていた。最初は桜の木の陰に立っているだけだったのに、いつしか脚や腕が木の上からぶら下がっているの見るようになった。爪先が障子越しに板の間を歩いているのを見たのは少し前からのはずで、枕元に立ったのは去年ことだ。段々と距離が近くなっていると思ってはいたが、桜の木が目の前にある部屋だからだろうとあまり深く考えていなかった。
いつのまにか頭の向こうに中空からすべて現れていた身体がゆっくりと床の方へ降りてくる。前方宙返りを巻き戻して見ているみたいだと、そんなことを考えていると、突然ふわりと身体ごと後ろへ跳んで三成が家康の視界から消えた。慌てて肘を使って跳ねた心臓の支配する身体を起こす。
居た。
今度は家康の身体をまたぐように四つ這いになって鎌首をもたげている。目が合った。いや前髪で隠れているから本当はそうでないのだが、確かにその向こうから見られている、と感じた。もし覗いたその瞳が暗闇のうろ二つだったらどうしようか。そんな怪談話のようなことを考えたら少しの現実感が自分に戻って身体の強張りが解けた。ひたりひたりと、着物の袖と裾から覗かせる白い手と足を使い自分に忍び寄る三成に、家康はじりじりと後ずさり布団から這い出ていく。何か考えがあるわけでもない。触れさえすれば消えるのだとそう思う自分もいるけれど、まさかこんなふうに三成が自分の部屋へ現れると思っていなかったことへの好奇心の方が、ひやひやする心持の中で少し勝った。
聞こえるのは自分が動くたびに擦れる布団と畳の音だけで、三成の手が畳を引っかこうとも裾から白い脛が覗こうとも、乾いた音や衣擦れは残らない。枕を乗り越えごつりと背中に目覚まし時計が当たったのに気づき、家康は静かに息を吐いた。浅く掛けていた布団を半分以上抜け出したところで三成を待つ形になる。
ひた、と家康を追い続ける三成が細く長い指を持つ手を操ってゆっくりと自分に迫る。その手に、我ながらしょうもないことを考える。やるせないことを想像したのが伝わったように、身体の半分に覆いかぶさったところで三成が動きを止めた。家康の腹の横あたりについた手に少しの力が入って指がしなり爪先が畳を掴むようになる。腰を引き、頭を低く下げた。そのまま飛びつき噛み付かれるのか、と思ったが、そうではなかった。ためらいなく口付けるほどに家康の浴衣の腹へ薄い唇を近づけて、静かに口開く。ほのかに赤い舌が下唇の後ろに覗き、幽霊とは思えない生々しさに改めて息を呑む。するとその唇が帯紐の端をぱくりと食んだ。象牙のような艶やかな歯をきり、と立てて帯を噛み、細い顎を引いて斜めに引き上げていく。
腹底から湧く緊張に研ぎ澄まされた聴覚が、する、する、と解かれようとする衣擦れの音だけをやたらに拾って、他は何も聞こえなくなる。帯をくわえた三成の表情は相変わらず能面のようだ。障子から透く夜更けのほの暗さにぼんやりと肌と髪の白さが浮き上がって、作り物ののように思えたりもするのに、自分の耳の奥を突く心の臓の鼓動が三成から聞こえてくるようにも思う。梳いてやれば軽やかに溶けそうな髪の毛が、つつつと帯を引くごとにその面をなぞっていく。大雑把に仕上げた蝶々結びの目があと少しでほろり崩れそうになる。
少しずつ持ち上がっていく顎に、このまま三成が帯を引き抜いてしまえばその顔が窺えるのではないかと、家康は一瞬それを願った。
ぱた、とそっけない音がして帯の端が腹の上へ落ちた。瞬きの間だった。いくら目を凝らしてみてももう三成の姿はない。
自分から誘って焦らして、最後はこれだ。家康は静まり返る暗闇の中でゆっくりと身体を起こして、手持ち無沙汰に後ろ髪を手で払いながら胡坐をかいた。解けかけた結び目は帯を手にした途端、はらりと消えてなくなる。紺地の縞模様の帯の端っこに指を絡め秘密をひとつ仕舞うように口元へ引き寄せる。それは残り香も嗅ぎ取れず、誰の温もりもなくひやりとしていた。
まずいな、と誰ともなく呟いて首筋をかく。帯を放り投げいそいそと布団へ潜り込んだ。別の意味で襲われかけるとは思ってもみなかったはずのに案外たやすくそれを受け入れている自分がいる。夜這いされても構わなかったのにと思うのはどちらのだろうか。
被った布団の中で家康は身体を丸め心臓の上をさすった。落ち着きを取り戻し始めた脈拍が耳から遠ざかっていく。眠ろうと思った。目をつぶってゆっくりと数をかぞえる。あながち、氏政に言ったことは間違いでなかったかもしれない。頭から離れなくさせるなんてまさにそうだ。ああ、とこぼれ出たため息にも似た声は布団の中でくぐもって聞こえ、自分がどこにいるか分からなくなる。
呪い殺されそうだ。
満開になってからの桜の足は早い。特に今年は咲き始めてから春の陽気が続き、つぼみが次々開いていくのと同時にはらはらと散っていくゆくのも早かった。六分咲きの桜はあれからあっという間に見事な咲きっぷりを誇ったかと思うと、見ごろは過ぎてやわらかで眩しい新緑が枝の先に混じり始めている。桜の満開とは一般的に八分咲きのことを言うらしい。すべてのつぼみが咲き切ったころには葉桜になり始めていて、桜色だけで染め上げられたいちばん綺麗な状態を過ぎているからだそうだ。だから、あとはもうゆるやかに休まず、確実に散りゆくだけになる。
家康は五日ぶりに小田原骨董店へ顔を出していた。やってきたとき、氏政は伝票と仕入れ一覧表照らし合わせの真っ最中で、邪魔しては悪いとそのまま踵を返すところだったのだがもう少しで終わるからと引き止められ、大人しく家康は板の間に腰掛けた。紙の繰る音を聞き店のショーウィンドーから見える景色を眺めながら時間を潰す。学校帰りのこの時間は商店街も夕飯の買い物でそこそこ混みあう。ビニール袋を下げた母親と跳ねるように歩く小さな子どもが店の前を通り過ぎていく。時折、会社帰りのスーツ姿のサラリーマンも見かけた。皆家路を急ぐ途中で、当然ながら骨董店をちらりと覗き込む気配もない。
そろそろ仕事の終わりそうな様子を窺って、家康は件の幽霊がはじめて部屋に出たと打ち明けた。
前世の記憶がないからこそ前世の因縁のあれこれに巻き込みたくないと思うのだが、変なところで氏政も察しがいいから全部黙っていて心配をかけさせるよりかは良いかと最近は思うことにしている。少しでも聞いてもらいたくてここへ足が向いてしまったのも事実だ。
店のカウンターへ丁寧に紙の束を仕舞いこむ氏政が手をとめ、老眼鏡を指で少し押し下げぎょろりとした目で家康を見た。
「まさか……、ついに襲われたか!」
自分の首に手を当てて氏政が目を見開く。ああいや、そうではないんだが、と慌てて家康はそれを否定する。違う意味で襲われかけたとは口が裂けても言えない。そうじゃないんだと首を振る。
夜更けに四つ這いで襲われかけて以降、三成は家康の部屋へ遠慮なく現れるようになった。数日前は夜中に枕元を爪先が歩いていた。見上げる前に消えてしまったから白装束の裾と足しか見ていないがあれも三成だ。部屋の片隅でこちらを見ているだけのときもあった。家に帰って部屋へ入った瞬間、板の間に俯きがちに立っている後姿を見て久々に悲鳴を上げたのは今日だ。他にももろもろあるが、すべて話すと氏政が拝み屋をすっ飛んで連れてきそうな気がしたのでそれらは黙っておくことにした。
ついにか、と氏政が大げさに眉間に皺を寄せ、考え込んでいる。
「このまま風呂やトイレにまで邪魔してくるかもしれんのう」
「ははは、それは困ったなあ」
「わしが言うのもなんじゃが、坊も器がでかいというか呑気というか、いやいやすまん」
「ま、どうにかなるさ」
何の確信もないけれど、家康は氏政に笑ってみせる。自分の近くに現れるようになった分、驚きはする。けれど恨みがましい雰囲気は相変わらず感じ取れない。怖いとか気持ち悪いとかそういった感情を三成に抱くことも不思議とない。家康は、よくよくこの幽霊は変わっていると思った。距離を少しずつ縮めて夜這う真似までして、でもやっぱり消えていく。いつでも取れそうな首を取る気配もなく、だからといって何を家康に求めるわけでもない。だって声の限り呼び止めても千切れるほどに腕を伸ばして触れたいと願ってもそれは届かない。
黙り込んだ家康の肩を氏政がぽんぽんと叩いた後で背中をしわがれた細い手でゆっくりとさすってくれた。何も言わないのがただやさしくて、ありがたかった。あと一時間ほどで小田原骨董店も店じまいだ。夕暮れのほんのりとした切なさが胸にしみ込んですとんと落ちるのも待ってから、家康は大丈夫、と自分に言い聞かせるよう言ってさすってくれた氏政の腕を取った。ところでと姿の見えない風魔のことを尋ねると、氏政も微笑んでもう少しで帰ってくるじゃろ、と言い家康の肩に手を突いた。
「さ、お茶でも淹れてやろう」
「わしが淹れようか」
「いやいや大丈夫じゃ。そうだ役に立つかは分からんが渡すものがある」
「はは、なんだろうな」
よいっしょと立ち上がる氏政の腕を支えてやる。よたよたと固くなった身体で歩き出し、暖簾の向こうへ消えようとする氏政の背中をつい家康は呼び止めた。ん?と氏政が暖簾を捲り上げたままで振り返る。目が合って、結局家康は半分怖気づいた。
「……わし、重症かもしれん」
「寝不足がか。仕方ないのう。巧いこと居眠りするんじゃな」
「それ、学生の本分は勉強っていうのと矛盾してないか」
「ときには息抜きも必要じゃ」
かか、と笑って氏政が畳の部屋へ消える。ぱち、と音がして明かりがつき、それから台所の方で物音が続く。暖簾の隙間から針のように細く差す光に逃れるように背を向けて、家康は膝に肘をつきそのままため息混じりに目をつぶって両手で顔を覆った。肝心なところはやっぱり言えやしない。睡眠の足りていない身体がこめかみや眼球の奥をじりじりさせてそれを訴える。
こんなになってもやっぱり会いたいなんて、どうかしていた。驚かされても、必ずはかなく消えると知っていても、自分の元に現れることを願うなんてこの脳みそは侵されているとしか思えない。待ち望むのは徳川家康なのか、それとも家康なのか、距離の近くなった三成を前にすると心臓の音がうるさくて記憶の境目も、心の境目も、その向こうにあやふやになる。
ひと目会いたい。触れられたら、その先はどうするだろう。徳川家康にその記憶はない。家康の胸を時折引っかく色付いた記憶は当然、三成がいなくなった後はひとかけらもない。
この手にかけた相手に会いたいなんて本当にどうかしている、と家康は奥から緑茶の良い香りが漂いはじめたのに気づいて、ごしごしと手のひらで顔をこすった。桜の季節があと少しで終わろうとしている。
その夜、夢を見た。
布団に横たわる自分の顔の傍で何か気配がある。頬に触れそうになる距離に息遣いを感じて、家康は思わず目を開けそうになったがそれはかなわなかった。金縛りとはこういうものかと意外と冷静に考える頭で、足と手を動かしてみようとしたがやはり無理だった。自分の横にいるのは、枕元に顔を寄せているのは三成だ。人であれば感じるはずの、吐息にまじった熱を先ほどからまったく感じないからこそ、家康はすぐに確信する。
声にならずとも呼びかける。聞こえているだろうか。徳川家康が残した眩むような想いも、会いたいと思う心も、触れたいと願うのも、三成は知っているのだろうか。
ひやりと、頬に冷たい手の感触を感じた。長い指は頬骨にひっかかるようにして、手首に近い掌の部分は顎の縁に押し付けられている。生ける者の体温ではやはりないのに、吸い付くような心地よさに背筋が凍ることはない。吐息がほろりとこぼれて消えていく。硬質で少し物悲しさの混じった懐かしい声がそれにまじることはなかった。
ゆっくりと、頬から手のひらがはがれていく。消えてしまうのかと思われた指が留まって頬そして顎の輪郭をそっとなぞっていく。柔らかい蝋のような細い指先がすべらかに家康の首筋を辿り鎖骨をなぜる。その窪みで一瞬止まってそれからすっと下った。パジャマの合わせの境目を探るようにして胸の上で止まったかと思うと、するりと躊躇なく合わせから手のひらを差し込まれた。心臓の上にその手をそっと押し当てて、三成の漂わせる雰囲気がほんの少し柔らかくなったように感じた。
三成の冷たい手の下で、家康の鼓動がとくとくと鳴った。触れ合った温度が溶け合って春の夜のようなあたたかさが互いに移る。もらって譲って、同じものを今自分たちは持っている。その心地よさに目が覚めてしまうのが心から惜しいと思った。降り積もる暗闇と静けさに切々と胸が苦しくなって喉の奥がひりひりする。
こめかみにふわりと触れたものに気づいて、それが三成の額だとさらりと流れる髪の感触に思う。深い漆黒の夜空に朧月がにじむように、家康の黒髪と三成の銀髪がきっと混じりあう。ふ、と小さくこぼされた吐息が頬に当たって、家康はああ三成が微笑んだのだと思った。その顔を前世の記憶から引っ張り出そうとして出来なくて、徳川家康が本当に守りたかったものの正体が少し分かったような気がして、家康は泣きたくなった。今この胸をいっぱいにするものには、徳川家康の持つ三成の記憶と同じ色が付いている。まぶたの裏は明かりのない部屋の薄闇を真似て色がないはずなのに、今目の前に思い描くものには埋もれることのない色がついている。たとえていうなら、それは慈しむ心にとても似ている。
三成の輪郭を、耳を鼻を目を口を形作るものを思い出して、微笑むその顔を家康が想像するのは難しい。歪んでにじんでかすんで巧く出来ずに子どものように途方に暮れる気持ちになった。消えないでくれと、行かないでくれと言いたくて口を動かそうとするのにどうしても動かない。桜の終わりが近いのを、自分も三成もよく分かっている。行くな、と念じたそのとき、ふわりと小さく花香った。
すり寄ったおでこが離れがたい気持ちを伝えるように、こつ、と鳴った。耳元で息づく静かな吐息がひとつずつ、声はないけれど確かな形を持って家康の耳に囁きかける。
「…………み、!」
呼び止めるのは間に合わなかった。ばねのように跳ね起きた身体は気づけば自由がきいている。呼吸するのすら久々なような気がして、家康は乾いた喉にこびりついて残った名前を結局言えずに飲み込み、深く静かに深呼吸した。
見下ろした枕元にはやはり誰もいなかった。必死で見回した薄暗い部屋にある熱源は自分だけで動き出す気配のものさえ、ここにはない。かちかちと無機質な時計の秒針の音だけが静けさを訴えている。三成が居たはずの畳には晴れた夜空の色が映り、障子の格子が薄く影を落としている。その畳をひと撫でしてから、家康は布団を這い出て立ち上がった。障子を開け板の間に出ると、そっと掃き出し窓に手をかける。小さくカラカラと乾いた音がして、ほのかに温い夜気がするりと部屋へ忍び込む。
雲ひとつない夜だ。見上げれば、月のない夜空に白くぼんやりと咲き誇る桜の木がある。屋根の庇に届きそうに伸びた枝に垂れ下がった小さな花がたわわになりひとつひとつの花の形をなくして、桜は、花をまとって霞む。その溶け合う曖昧さに人は酔って魅入るのかもしれないな、と家康はふと思った。桜のまわりに漂う夜気がほのかに光っているように見えた。
いちばんの見ごろは過ぎてしまってもまだ十分に美しい。芽吹いた緑をところどころに見つけながら、家康は縁側に腰掛けた。手を後ろについて、自分の上にかぶさるような薄紅の大きな桜の傘の下で目を閉じる。しん、としていた。無音が耳に降り積もってその中に桜の散る音さえ聞こえそうだ。
肌をくすぐる程度の風の中で、それでもはらはらと桜はその身を散らしていく。潔く、その足はけしてとまらない。後ろを、振り向くことはない。家康の中に残る色のついた夢か現かその境のないものは今も胸をいっぱいにしたままだ。数百年前に徳川家康が三成のために流し続けた涙はもう枯れ果てて家康が代わりに泣くことも出来ないらしい。舞った花びらが何枚か風に吹かれて板の間に散ったのを、家康は気づかなかった。
三成の吐息を耳元に思い返す。あれに声という色がついていたら、たぶんそれは人の名前になっただろう。何回も前世の記憶で蘇らせた、擦り切れることない夢が耳の奥でこだまする。
たしかにそう呼んでいた。三成が、自分を求めていた。後ろ髪を引かれる思いで何度もそれを反芻した。頭の片隅が熱に浮かされたように痺れる。
夢を見た。それは胸がしめつけられるほどに甘い、春の夜の夢だった。
あれから、家康の部屋に三成が現れることはなくなった。この二日間で三成を見たのは追いかけることも出来ない遠くから桜を眺めているときだけで、白っぽい影のような姿を数度見た程度だ。おかげで睡眠不足は解消されたが、頭のすみがぼんやりとする感覚はなかなか抜けない。硬質で清清しい花の香りが今も近くに漂っているような気がした。
その日いつもより三十分早く目覚めた家康は、布団で時間をつぶす気にもなれず朝の支度をして家を出た。何かしらの行事で朝練などがない限り乗らない早い時刻の電車は普段乗る時間帯より混んでいる。けれど学校の最寄り駅で降りた乗客はそう多くもなかった。家康の通う高校は二つの最寄り駅を利用できる。家康が使うの小さな沿線の小さな駅でそもそもあまり利用者が多い駅ではないのだが、三十分違うだけで普段見る景色っと違うものだと、同じ制服を着た生徒が数人改札に向かうのを見て家康は歩き出した。
早朝の住宅街はとても静かだ。車の通りも多くないから余計にそう感じるのかもしれない。駅に向かうらしき何人かとすれ違った。少し雲の残った青い空に小鳥のさえずりが響き渡る。彩る音も動くものまだ少なくて、半分くらいこの街はまだ眠ったままのように思える。ただ太陽だけが眩しい。
朝の空気を味わいながらゆっくり歩いているうちに校門が見えてきた。学校を囲う白い壁を目で辿っていく。時折、ラフ板の上を踊るように目覚めたばかりの太陽が乱反射してみせて、家康は顔をしかめる。始業ベルが鳴る十五分前くらいには校門に立っている教師もこの時間にはまだいない。追い立てられることもなく、ぽつぽつと生徒が大人しく校門へ吸い込まれていく。
何も遮るもののない日当たりの良いところにあるせいか、校門横の桜は家康の家の桜よりも緑が芽吹き若葉の茂るのが早かった。花よりももはや緑の占める割合が多くなって、太陽の下でぴかぴかと無垢に光る緑の葉の中に小さい薄紅の花と花落ちて実に変わる赤いめしべがところどころ彩っているというふうだ。すっかり葉桜になった桜の木に誰も足を止めることはない。咲いたそばからその身を削っていく遣る瀬なさに立ち止まる季節は気づけば過ぎていた。
それでも家康は足を止めずにはいられなかった。自分を引き止めるように、目の前を忘れ形見のような一枚がはらりと散っていく。頭上に枝を伸ばし張り出した桜を何の迷いもなく見上げる。重なり合う枝々のまとう緑の陰の中に淡い花の薄紅がちらちらと揺れた。それは惜春の幽霊のまとう着物の裾を想わせて、ゆるゆると心臓の端っこを引っかいていく。
ふわりと、新緑の香りをさせてひとつ風が吹いた。葉と枝の擦れあう柔らかな音のさざめきに埋もれた向こうに、はらりと前髪の解ける面差しと白い爪先を見る。
徳川家康も、色のない残りのときを生きていく中で惜春の幽霊に出会っていたのだろうか。それともその幽霊に会うことすら叶わずに伸ばしたくでも出来なくて、自分はそのために今世にいるのだろか、何度も何度も繰り返し、幾度でも繰り返し、零れ落ちる春を求めるために。
これが最後だと無意識に感じて、恨みがましいほどに潔く散りゆく亡霊に手を伸ばした。ふと、この胸を焦がすものの正体が目の前を横切ったような気がしたけれど、それはうっかりつかみ損ねてしまった。今ここで、微笑んでいるように見える三成の冷たい頬をとらえたくて、手を伸ばす。
忘れるはずも、忘れることも出来ないのに、忘れるのが怖くて、何度もおまじないのように散りゆく花びらすべてに重ねて唱えた。声にならない声をちりぢりになった想いをかき集めて何度でも求めたかった。
、
無遠慮に通り過ぎていくそよ風にすべてがはかなくやさしく、静かに押し流されていく。君を形作るすべてがもう、やがて始まる新緑の日々に居場所はない。誰がためにひとしきりの花の雨が散り、音もなく家康の頬に伝って落ちた。
continued...