「きりーつ!」
礼!とクラス委員の声がクラスに響き渡ったのとほぼ同時に放課後の教室には笑い声がこぼれて足音と話し声と物音とでいっぱいになる。授業中は元気のなさそうな顔やあくびをかみ殺して眠そうな顔を並べていたのがみんな嘘のようだ。家康は、担任の初老の教師がはしゃぐ生徒の横をゆっくりと歩き教室を出て行くのを見届けながら、机の脇にかけていた鞄に課題の出た教科書とノートを詰め込み、よしと小さく呟いた。そして鞄を持って歩き出したところで慌てて後戻りする。教室の後ろにあるロッカーへ駆け寄りトートバッグを取り出す。胸を撫で下ろしながら教室をすい、と抜けていこうとすると、自分の席の前の彼が号令に立ち上がり損ねたまま机にまだ突っ伏しているのに気づいて、一瞬起きる気配があるか探ってみてから声を掛けた。
「終わったぞ、ホームルーム」
「……おー」
背中を小突くとかろうじて起きているというような眠りの淵にぶら下がった声がして、ふらふらと手を振ってきた。横に移って部活だろと促すとようやくむくりと起き上がり、まずいすんげえ眠たいと呟きひとつ大きなあくびをした。座った目で家康を見上げ視線を下ろしていくと、それ、と手にした荷物を指差してきた。意外と彼は目ざとい。
「面白いものは何も入ってないぞ」
「いかがわしいDVDとか? つーか徳川ってそういうの持ってなさそう」
「おっと」
ひょいと伸ばされた手がバッグの縁に引っかかる。別に隠すものではないから家康もほらと見せてやった。
「タオルと、布?」
「残念、柔道着でした。今日はこのまま向かうから」
「あー徳川部活入ってないんだっけ。習い事っつってたもんな」
はいはい、といつだったか話したことを思い出したように頷いて目をこする。すると、ふと気づいたように家康の顔をじっと眺めてきた。眠そうな顔しなくなったな、と彼が言った。
「ちょっと前まで睡眠不足みたいな顔してただろ」
「ああ、」
よく見てるなあと心の中でこっそり家康は苦笑いしてさりげなく、窓の外へ目をやる。いつもと変わらない放課後の風景だ。校庭ではしゃぐ生徒がいて、気の早い部活の準備に出てきたジャージ姿の生徒がいて、そこをそっけない顔で横切る生徒がいて、楽しそうにお喋りに花咲かせながら校門へ歩いていく生徒がいる。青い空に瑞々しい新緑が眩しく映える、梅雨までの気持ちのいい季節だ。花粉症も終わったからな、と少しの寂しさをにじませて家康が呟く。返事はない。
「ほら起きろって」
「……あー、今一瞬で意識なくなったわ」
目を離した隙に再び机に突っ伏していた彼の頭を家康はため息まじりに叩き、それから黒板の上にある時計に目をやった。急いているわけではないが早く着くのに越したことはない。じゃあなわし行くからな、と起き上がったのを確認して机を離れる。
「徳川のがうつったー」
「うつらない!」
恨みがましい声が背中を突っついたが家康はもう振り返らなかった。
掃除の始まった廊下の長箒の往復する間をすり抜け、家康は軽やかに階段を下っていく。流れるようにテンポよく靴を履き替えて昇降口を飛び出した。ほんの数滴、夕暮れの色を混ぜた午後の太陽が青い空に輝き、雲の白さが洗いたてのように際立つ。日差しの入り込まない校舎から一変した明るさに、目の奥がきゅっとなって家康はぱちぱちと目を瞬く。
校門までの道のりを、喋ることに夢中でなかなか進まない女子生徒の群れの横をいささか早足で追い越す。道着の入ったバッグを肩にかけ直した。知った背中を見て声を掛ける。相手はのんびりと歩いていたのでそのまま、見送られるように校門をくぐった。
惜春の幽霊が出なくなって数日が経つ。やはりあの日の朝ここで見たのが最後で、家康の部屋にもどの桜の下にもその姿は見なくなった。校門前の桜の木はもうすっかり新緑一色になって、校舎をぐるりと囲む名前もよく知らない木々に紛れている。このまま夏が来て秋を過ぎ冬を乗り越え春が巡ってつぼみをつけ始めたころ、また人はここに桜があることに気づく。その繰り返しのように、また三成もきっと現れるだろう。そして再び桜とともに散っていく。家康は立ち止まることも見上げることもせず、桜の木の下を通り過ぎる。
いつもなら学校を出てすぐ右に曲がるところを今日は迷いなく左に曲がる。行く先には自分と同じ制服が目印のように続いていた。腕時計を覗き込む。これなら早めに着くことが出来るかなと電車の時間も計算して、少し、歩く速度をゆるめた。
家康は幼いときから柔道を習っている。もう続けて十年ほどになるが、そこまでの情熱を注いでいるわけではない。上手くなりたいとは思うし身体を動かすのは好きだが、熱心に大会へ参加して成績を残したいとはあまり思わなかった。だから、中学高校へ進学するとき部活への誘いはあったけれど、そのまま自宅近くの小さな柔道教室に通い続けている。礼儀には厳しいがそれぞれのペースを大事にしてくれる先生と教室の雰囲気が自分には合っていると思ったからだ。
人通りと車の量が段々と増えてきた。住宅街を抜けて駅前の繁華街に差し掛かる。家康が今日普段は使わない大きな駅を行くのには理由がある。過去何回か、柔道教室の先生の友人が教える道場で合同練習をしたことがあった。友人の道場の方が広いからという理由でだいたい家康の通う教室の面々が出向くのだが、その柔道場というのが小さな沿線の終点にあるのだ。駅ひとつ分だが徒歩にかかる時間は一緒、ならばひとつ終点に近いほうが少し早く着ける。
その道場に所用でいないお弟子さんの代わりに助っ人として来て欲しいと頼まれた。人に教えられるような実力も器もないからと最初は断ったのだが、指導するというより数の多い年少の面倒をみて欲しいというのが肝心なところだったようで、それならと引き受けた。そういえばあの道場は小さい子どもが多かった。何故だかよく懐かれて、集まられてはあちこちから引っ張られ毎回どうしようか困り果てるのだがそれもまた楽しい。
こちらの駅は利用者の多い長い距離を縦断するもうひとつの沿線が乗り入れ、さほど大きな駅でもないけれど駅前にごちゃごちゃいろんな店があってなかなかに人も多い。学校帰りに時間を潰したい場合は皆、こちらの駅を利用している。
狭い道に車も人も自転車も行き交う。飲食店やお洒落な雑貨店の並ぶ道を、ゆっくりと走行する車の横を避けるように歩き、よたよたと歩く速度でバランスの不安定な自転車を恐る恐るかわす。駅前の狭いロータリーの近くは本当に雑然としていて歩きにくい。車のクラクション、エンジンを吹かす音、駅のアナウンス、改札口の開閉する音、けたたましく鳴る発車ベル、駅に飲み込まれ電車で運ばれていく人々の足音にざわめき。絶え間なく当り散らす騒々しさに、思わずため息をつく。
人の流れに乗って、定期券をかざし改札口を通る。入って目の前のホームへ出て電子掲示板を確認する。たいした待ち時間はない。終点の駅には進行方向にしか出入り口がないので家康はホームの端を目指した。逆方面の向かい側のホームにもそれなりの待ち人がいる。この沿線は学校が多いからいろんな制服が紛れている。スマートフォンをいじる時間もなく滑り込んできた電車に家康は乗り込んだ。
終点まではそう遠くない。十五分ほど車窓の外に流れるあまり見慣れない景色をぼんやり眺めて揺られていればあっという間だ。終着駅の周りは駅ビルも立ち背の高いビルも多く見え、都心に少し近づいたのが見て取れる。
駅を出たところで家康は腕時計を覗き込んだ。徒歩の時間を入れても十分余裕のある時刻だ。急に少しの空腹を覚えて、何か買い食いでもしてから行こうかと辺りを見回してみた。
駅ビルに寄るのは少し面倒だなと流れ込む人ごみに躊躇してコンビニでもと駅舎を振り返ったときだった。落ちる影の濃さとその隙間からこぼれる光がちらちらと目をついて見上げたその先に小さな薄紅の花がひとつ、咲いているのを見つけた。桜だ。最初過ぎたときは気がつかなかったが、少しの厚みがあって葉脈の目立つ柔らかそうな緑の葉は少し前までよく見ていた桜のそれだ。一人寂しく咲く花は家康の見上げる枝の先以外には見当たらず、やはりこの辺りのどこの桜ももう終わりなのだと家康は思った。似たような花をつける木があるとつい目で追ってしまう癖ももう引っ込むだろう。
でこぼこした細かい魚の鱗ような肌の幹は学校や家康の家の桜より少し細いような気がした。排気ガスの影響だろうか。周りをしっかりとコンクリートで固められた狭い場所に植わっているからかもしれないとぼんやり考えながら歩き始めたとき、ふと木の幹の陰に一人の後姿を見る。
何てことはない、家康の学校と大差ないよくある制服を着た青年だ。それなのに、なぜか、気にかかって、家康は足の向くまま木陰に寄り添う後姿に近づいた。その青年は鞄をかけた方の手に細くて長い袋のようなものを持っている。一メートル以上はあるそれに家康は心当たりがある。あれは竹刀だ。
シャツの襟から、影の下でも分かる白いうなじが覗く。俯きがちの視線は携帯電話でもいじっているのかと思われるがここからではよく分からない。つむじから流れるほの暗い影色の髪がさらりと揺れた。面が上がって、細い顎の線が辿れた。
あ、振りかえ、る。
まじまじとその後姿を見つめる気配に気づいたのか、家康が後ろめたさと気まずさに足を止め顔を逸らそうと思ったときには遅かった。青白い面差しの青年と目が合った。
その顔は、あのときと何も変わっていなかった。
薄墨を引いたような細い眉、切れ長の目、すっと通った鼻梁に、少し不満げに結ばれた薄い唇。
ひとかけらも忘れたことのない姿で三成がそこに立っていた。制服を着て、自分と同じように違和感なくこの時代この風景の一部分としてそこへ存在している。
声が出ない。自分がどんな顔しているかなど想像もつかない。ただ、目の前の三成はたいして驚いたふうには見えなかった。氏政のように前世の記憶がないのだろうかと、やがて遠くから急いでやってきたばくばくと鳴る心臓を服の上から押さえて、家康はすくんで上手く力の入らなくなった足をなんとか支えた。
会いたい、触れたいと願っていたはずなのに、鼓動が脳をも支配してろくに思考が出来ない。駆け寄ればすぐにでも捕まえられる。この手で触れてかき抱いても幽霊じゃない三成はきっと消えない。まさか、そんなはずはないと、重苦しい鐘のような音が鳴り響く脳みそが目の前の三成に惜春の幽霊の影を重ね合わせる前に、待ち焦がれた声を紡ごうと喉が動く。
「家康」
と確かに、三成が呼んだ。周りを囲む喧騒がすべて消えて、自分の世界が夜の海のように澄んだ冷たい声ひとつだけになる。それには、儚く消える幻想はどこにもなく生きる人間の血が通っている。三成が、生きている。今世の三成は、生きている。
どく、ん、と血流が滞るような気持ち悪さを残して心臓を打った。頭がぐらりと揺れる。ああ、これは、徳川家康のだ、と思うのはほんの一瞬で、脳裏を忌まわしい記憶が危険信号のようにちらついて傷みのように走った。これは、何だ?
自分を見据える静かな眼差しで、家康が惜春の幽霊にするように三成の手がこちらへ伸びてきた。自分が一歩踏み出せばきっとそれに届いた。
あと一歩。
それが、どうしても出来なくて、家康はふらつく足を引きずって踵を返し走り出した。
伸ばされかけた手ももう見えない。自分を呼び覚ます声ももう聞こえない。頭が、はち切れそうに痛い。まるで世界の終わりだと、家康は思った。
逃げおおせたと思って迷い込んだ路地はまったく見覚えのない場所で、我に返った家康はゆっくり足を止めた。全力でマラソンをしたように力の入りきらない足を見下ろして、大きく肩で息をしながら膝に手をつく。このままここに座り込んでしまいたい。そう思ったが座ったらもう立ち上がれないような気がした。まだ耳の奥で心臓の鳴る音がこだまし、頭の端っこがじりじりと痛んだ。深く、息を吸い込んで長くゆっくり吐く。おまじないみたいなものだ。何回か繰り返して、家康は腕時計に目をやった。早くについてよかった。そう遠くまでやってきたはずはないし、誰かに道を聞いて駅まで戻れば教室が始まるのには間に合うだろう。息を整えて、なんとなく膝を払ってから姿勢を伸ばした。
「おい」
「うわっ」
明らかに不満げなのに怒っているようには感じない聞き覚えのある声が後ろからして、家康は飛び上がった。くるりと振り返ってなぜだか軽く身構える。
三成がいた。同じ距離を走ってきたはずなのにあまり息の切れた様子がない。思わず、じり、と後ろへ後ずさるとその分だけ距離を縮められる。逃げるなと牽制されているようで家康も動けなくなる。
改めてみる三成は、前世の記憶と今世で見た姿とほとんど変わっていなかった。少し違うのは昔は見るからに不健康そうであった身体つきと顔色が随分ましになっていたのと、甲冑と陣羽織ではなく制服を着ていることだ。よく見ればその学校の制服には見覚えがあった。肩に掛けられた鞄についた校章で、その私立高校の名前を思い出す。今まで何回も見かけたことのある同じ沿線の学校だ。もしかしたら気づかないうちにすれ違っていたこともあるかもしれない。なんと世間の狭いことだろう。
呼び止めたくせに三成はその次をなかなか言わなかった。こちらを見定めるような瞳をして、何やら窺うような難しい顔をしている。
再び家康をじわじわと脳を侵すような頭痛と、胸を締め付けるような動悸が襲い始めた。額に手を当てて背を丸める。頭がくらくらした。まるでジェットコースターに何回も休みなく乗った後のような気分だ。そんな家康の異変を感じ取ったのか、三成が恐る恐る近づいてくるのが分かる。おい、と三成が呼びかけた。
背筋から脳髄へ、びりびりと悪寒のようなものが駆け抜ける。目の前がぐらりと眩んで、一瞬真っ暗になった。
……ああ、これは、徳川家康のだ。徳川家康の、記憶だ。
戦いにくたびれた大地には兵たちの夢が壊れて砕けて、折れた槍と刀、裂かれた旗とともに積み重なる。
これが最後だと、心を決めた自分がいる。獲物を捨てこの手にすべてを覚えていようと決めた自分がいる。
三成の心に、自分の声が届かないのは分かっていた。
いや、三成のどこまでも真っ直ぐで穢れない心が分かるからこそ、自分の声が受け入れられないのはもう分かっていた。
あとはこの関が原の地で互いに譲れぬ道に決着を着けるだけだ。
曇天の空の下、憎しみと悲しみを押し殺そうともしないで三成が揺らめき立つ。
怒号が、声にならない心の叫びが走る。
三成の刀が一閃、徳川家康を執一の心で追い捉えた先に細い血しぶきが走る。
家康の拳が一波、三成の身体を押し退けその手甲で刀を払い懐にねじ込む。
刀と拳を交し合い、互いを血と肉で汚し合う。
口の中を血の味が広がってその苦さが心を穢した。腹の血肉を掠め取られた。左腕の骨を叩き潰した。
心の痛みが身体の痛みを凌駕し、いつしか感覚が麻痺していく。
傷口から血を滴らせ、もう動けないはず身体を操ってそれでも刀と拳を掲げる。何度も何度でも。
けれど必ず終わりはやって来る。
いつのまにか降り出した小雨に足元がぬかるみ始めた。
ほんのわずか、三成が足を取られ体勢が崩れたのを家康は見逃さない。
刃にざくりと腕の肉を切られながらも渾身の力を込めた拳は三成の右肩を砕く。
三成の身体が、崩れ落ちるように泥土に倒れこんだ。
鮮血の赤が大地に染み込んでにじみ、もうどれだけの多くの者の血がここに流れたのかは分からない。
小雨に打たれながら、まだ息のある三成の前に立ち尽くす。
血で汚れたその青白い顔を、涙雨が伝い拭い去っていく。
傾げた首がわずかに動くのを見る。
薄く開けた目はすでに涅槃の淵を彷徨う色で、けれど見下ろすように確かに自分を見て一言、言った。
何と言ったのか、雨の泣く声にまぎれて聞こえない。
それでも自分は頷いた。
決するために、互いはここへ来たのだから。
「おい!」
身体を揺さぶられ、家康ははっと我に返った。見れば三成の手が自分の二の腕を掴んでいる。大丈夫だと言おうとして額に当てたままだった手を動かすと、いつのまにか滲み出た冷や汗に触れて驚いた。その感触に慌てて手を確かめる。どくん、とまた心臓が重く脈打つ。
よほど気分の悪そうな顔色をしているのだろう。三成が大丈夫かと問いかけて、腕を掴む力を強めた。
びいん、と腕が強張って、冷や汗の浮ぶ顔で家康はその手をそろそろと見下ろした。
血と、泥で汚れた手が見える。土を掻いた爪、金縛りにあったように動かない指先に、紅い血の玉が留まって今にも滴ろうとしている。弾かれるように三成を見た。何か言っているようだったが何も耳に入らない。ただ、シャツから覗く白い喉元が目に入った。
家康はその首に手を、かけた。
違う、そうじゃない。手をかけたのは、徳川家康だ。前世の、家康が。
……そうだ、何も違わない。
家康は、雨に濡れた三成の首に手をかけた。
三成はもう何も言わずただ黙ってそれを受け入れる。
三成の首は自分の大きな手で覆えるほどに細く頼りなく、まるで百合の花のようだ。
ひたりと、震える手を添える。陶器のような肌は吸い付くように冷たい。
目を閉じた三成の顔は雨に洗い流され、夜空に浮ぶ月のように静まり返っている。
すべてを覚えていよう。この手で。
絶え絶えにうごめく喉元をゆるゆると家康は絞め上げる。
もう三成が見えない。目の前が霞んで滲んで、見届けたかった最期がどうしても映らない。
だからせめて、この手に三成のすべてを刻み込む。
この罪の形を自分は永遠に忘れないだろう。
柔らかい肉の潰れる音と骨の砕く音が、手の中に落ちた。
すべてが、家康の心を踏みにじって過ぎていった。思い出した手の震えはいつしか止んでいる。血で滑る指先の感覚も、もう消えるだろう。頭をぐらぐらとさせる痛みが少し引いた代わりに今度は視界が白く霞んできた。強い日差しに意識を持っていかれるのと似ている。
三成が眉根を寄せてこちらを見ていた。不機嫌そうな顔だ。けれど家康にはあれが心配しているのだと分かる。
ああ、こんなにも三成のことを知っているというのに。
「どうした?」
「…………」
吐いた。
手によみがえった感覚を思い出したときから、どうしようもない気持ち悪さを覚えていた胃を押さえながらすべてをぶちまけた。貴様ァァー!と頭上で怒鳴りつける三成の声が久々で懐かしくて、喉の焼きつきに家康は少し、涙が滲んだ。
あの後、三成とはろくに話も出来ずに別れた。三成はどこか名残惜しそうな顔をしていたが家康の顔色の悪さと、見たままの悲惨な状態に突っぱねることなくすんなりと連絡先の交換に応じた。連絡する。そう言った手前自分からそのうちメールなり電話なり入れなければいけないのは明白だ。そもそも走って逃げ出してあまつさえ突然嘔吐して、再会を台無しにしたのは自分だという自覚と自責の念もある。
しかし再会を果たして本当によかったのか、家康はよく分からなくなっていた。そういえば三成も怒るふうもなければ、手放しで再会を喜ぶふうでもなかった。当たり前か、と自嘲的に思い直す。
三成には駅まで送ってもらった。幸い自分の服も三成の服も汚すことはなく、近くにあった公園の水のみ場で口をゆすぎ顔を洗った。三成は、黙って靴の爪先に引っかかったものを洗い流していた。よく知らない街で無我夢中で走った家康は自分がどこにいるかも分からなかったが三成は多少この辺りに土地勘があるようで、先に行く無言の背中についていった。背はほんの少しだけ三成の方が高い。昔はもっとその差が分かりやすかった。ああ本当に自分はどんなことでも覚えている。
別に迷子になったわけでもなし、それなのに駅まで着いたときの安堵感といったらない。立ち止まった三成に礼を言い連絡を約束して、駅舎に入った。ちらりと振り返ると、家康が曲がり角に消えてしまうまで三成はこちらを見ていた。その表情は遠くてよく分からなかった。
改札口を通ってホームに着いたところで柔道教室に連絡を入れた。今日食べたものはほとんど消化され、吐いたのは胃液のようなもので思ったほど体力は減らなかったのだが、それ以外がもたらした疲労感の方が身体を蝕み今日はまともに動けそうになかった。頼まれごとということもあり心底迷ったが、駅まで来たけれど体調が優れなくて、という自分の声はよっぽど酷いものだったらしい。先生は、友人にはこっちから連絡しておくからと言ってくれた上、誰か迎えを寄越そうかと大層心配してくれた。申し訳ない気持ちで電話を切り、まだこめかみの奥にくすぶる痛みにひとつ息を吐いて、家康は停車したままの電車に乗り込んだ。
ほどなくして発車ベルが鳴りすべてのドアが閉まる。がたり、と電車が動き出す。始発駅でもあるから空席を見つけやすいのは運がよかった。小さな沿線の端から端まで、これで当分身体を休ませることが出来る。少しの虚脱感と重苦しい疲労感が乗っ取った身体をシートに沈ませるように預ける。レールの上を走る振動にときどきこつ、と後頭部が車窓に当たった。肺いっぱいに吸い込んだ息をか細くゆっくりと吐き散らす。少しだけ喉の奥が痙攣したように震えた。うっすらと開けた瞼でぼんやりと見た車窓の景色は、いつのまにか夕暮れの景色に変わっていて、傾いた太陽が柔らかな橙色の光を空に滲ませていた。通り過ぎ行く家々にぽつぽつと明かりがつき、踏み切りで渋滞する車のテールランプの赤が目立ち始める。
遠慮がちにポケットを探り、押し込んだスマートフォンを掴み出す。この中に三成の電話番号とメールアドレスが入っていると思うと不思議な気分だ。昔は書簡くらいしかないのだから随分と便利になった。よほど辺鄙な土地にいない限り、この国では時間の壁も距離の壁もほとんどないと言っていい気がする。
アドレス帳を開いて繰って、“三成”の二文字を眺めた。ずっと、ずっと、触れたくてたまらなかった相手の名前。何度も前世の記憶から引っ張り出しても色褪せなかったその姿。それが今世に生きている。
触れられる距離にいる。手を伸ばせばきっと届く。それが分かるのに、自分はこの手で触れる資格がないことも家康はもうすっかり分かってしまった。急に、そわりと手のひらにあの感触がよみがえりそうになって鞄の中へスマートフォン放り込み、紛らわせるために手のひらをこすり合わせた。
ちらほらと吊革の前に乗客の立ち始めた隙間から、車窓に映りこむ半透明の自分が夕暮れ色に染まっている。少し前まで見ていた何の変哲もない世界が、今家康にはどこか違うように目に映る。何がとはとても説明しがたい。細かなことのようで、すべてに通じることでもある。電車に乗る手順も、スマートフォンの操作のしかたも、車窓から見える景色も、身体に染み込んでよく覚えているのにいちいちそのひとうひとつに目が留まり、気にかかる。それは刹那よりも短い瞬間で、ふと手が止まったり、ことさらに心が動かされるようなことはない。まぶたを開けて見ている世界のその先の、もうひとつのまぶたが開かれたような感覚と言ったらいいだろうか。
その開かれたまぶたの持ち主に名前があるなら、徳川家康でしかない。
家康は膝上の鞄に突っ伏すした。車内のアナウンスがぼんやりと遠くに聞こえる。
思い出したくなかった。そう後悔するくらいの気持ちになるほどだから、きっと前世も涙が枯れ果てるほどに後悔したのだろう。その念の強さがあの戦いの記憶の一部を閉じ込めていた。あとひとつ、自分はいつも前世に追いついていない気はしていた。紙芝居を見るように、だなんて、それはとても他人事だ。
汗ばむ両手を強く、握りしめる。ずっと分かっているような気がしていただけだった。前世の想いも、今世に生まれた意味があることを願うのも、三成に何かしてやれると思い込んでいた自分も、あの記憶がないからこそ身勝手に出来たことだ。
ワシが、殺した。
この手の感触を自分はもう二度と忘れられないだろう。
三成を殺したのは、ワシだ。
***
次の日、久々に隈のできた寝不足の顔で家康が学校へ行くと前の席の彼がひどいぞ、と顔を見るなり人を指差して言った。
「……うつった」
「まじで? だから俺眠くないのか」
やけに納得のいった顔で彼が頷くのを見て、そのマイペースさが少し羨ましく思えて家康は眉を下げる。席について鞄からあれこれ取り出して、その合間にぽろっとスマートフォンが机の上にこぼれ出る。拾ってなんとなしに確認したがメールも着信もない。そのことにちょっぴり安堵して家康は小さく息をこぼす。それを取り留めのない表情で彼に見られていたのに気づき、家康は促されているわけでもないのに言い訳がましく口を開いてしまった。
「昨日、古い知り合いに会ってな。また改めて会おうってことになったんだが、まだ連絡取ってなくて」
「ふうん」
興味がないというわけでもないがあるふうでもない。ああそうだ、彼はこういう個人的なことまで不躾に探るよう人ではなかった。家康はいたたまれなくなって、ロッカーへ行くのをちょうど良い口実にして席を離れた。ロッカーを開けて教科書を探しつつ、どうしようか、と三成の件を思いあぐねる。
昨日の今日なのですぐに連絡しなくても、と思う自分がいる。けれどそれはただこの億劫さを先延ばしにする理由でしかない。会いたくない、というのが本心だ。だってどんな顔でどんな話を三成とすればいい? 三成は、きっと前世の記憶をすべて持っている。あの顔はそういう顔だ。それでいて、前世の自分を殺した相手と会いたいと思うだろうか。……ああそうだ。ごつ、と閉じたロッカーの扉に頭を押し付ける。
もし、三成がわしを殺したい思っているなら。
それだけで自分に会いたい理由は成立する。安易で単純でどうしようもなく愚かだけれど、自分にも三成にもその理由は圧倒的のように思える。前世の三成はその願いひとつを抱えてひた走った。今回もそうだとしたら、自分はそれを愚直に受けなければならない。そう惜春の幽霊に覚悟したはずだ。
微かに震える手を家康は誰にも見つからないように握り締めて、挨拶と笑い声の響きあう朝の教室へ意識を引き戻した。
一日、また一日と先延ばしにして、結局会う約束を交わしたのは三日後の土曜日だ。しかも連絡したのは家康ではなく、三成の方からだった。珍しく昼近くまで寝ていた家康が布団の中で、寝ぼけ眼で取った電話が三成だったのだ。一気に眠気の覚めた家康がスマートフォンの画面を三度見返すくらい、びっくりした。連絡すると言ってすぐにしなかった旨を謝ると、別に怒ってなどいない、と三成は言った。電話越しの声はいささか遠くて慮るのが難しいが、確かに三成の声にとげはない。気が進まないとはもう言い出しづらく、そのまま日にちと場所を決め、少し黙してから電話は切れた。いくつか聞きたいこともある。言わなければならないこともある。それでも、休みが明けなければいいのにと心底思った。
週の始めの月曜日、互いが知っている場所ということで再会したあの駅で制服のまま待ち合わせた。十分ほど前に着いて、駅舎を出たところできょろきょろ辺りを見回すと、既に三成が目印にはちょうど良いあの桜の木の下に立っていた。三成の学校の方がこの駅には近いものな、と家康はちょっと納得しながら駆け寄る。その足音に気づいて三成がこちらを見た。
「……久しぶり、だな。このあいだは申し訳なかった」
「再会早々、貴様の嘔吐する姿を見るとは思わなかったが、別にいい」
睨むようにみえるその強い眼差しは変わっていない。制服姿というのに少し違和感を覚えるがそれはお互い様のようで、三成も家康の立ち姿を爪先から頭のてっぺんまで眺めるようにしてから、噛み応えのないものを食べたときのような何とも言えない顔を一瞬浮かべたので、思いがけず家康の心も和む。
「どこかに入ろうか。と言ってもわしこの辺りには詳しくないんだが、駅ビルでいいかな」
「騒がしいところは好かん。……仕方ない」
ついて来い、と身を翻して三成が歩き始める。そういえば三成は土地勘があるのだった。ああ、と曖昧な返事をして家康はその後に続いた。
駅前の大通りを少し歩いて小さな繁華街の路地に入る。多くの人で賑わう綺麗な駅ビルの周りに比べてこの辺りは少し古びたふうで、地元の客が多いのだろうと思われる小規模な店が多い。その一軒の店の前で三成が足を止める。家康が言葉を挟む前にもうその店のドアをを開けていた。からころとレトロな音をさせてドアベルが鳴る。なるほど、ここならファーストフード店にたむろするような学生は来ないだろうなと家康は思った。
少し薄暗く感じる控えめな照明に、つやつやと光るこげ茶の木のカウンター。テーブルと椅子も同じ素材で、ソファはくすんだ緑色のベルベット。店内にはスローテンポの音楽が耳障りにならない程度に流れている。内装も外見を裏切らない、家康の祖父母の時代に流行ったような一昔前を思い出させる喫茶店だ。入ってすぐ右手レジにも、奥へ伸びるカウンター席の中にも誰もいない。客はカウンターに一人、その後ろに並ぶテーブル席に二人。どの人も年配で一人の時間を楽しみに着ているといった感じだ。三成はカウンターの方に目をやった後、左の方へ入った。そちらは路地に面した窓際の席で、二人用のテーブル席が三つ続いている。奥へ続く席との間に仕切りがあるので、カウンターの方から少し見えづらくなっている。いちばん奥まった席に三成は陣取った。通路側の椅子に三成が座ったので、家康は自然と窓際のソファ席になる。
「よく来るのか」
一応遠慮がちに店内を窺いながら、家康はこの雰囲気に慣れているような三成を見る。すると三成は、少し眉根を寄せ考えるようにしてから口を開いた。。
「知り合いの、バイト先だ」
「へえ」
「そういうほど仲良くしたつもりもないが」
そう言って、家康にメニュー表を差し出した。三成はもう決まっているらしい。どうしようかとメニュー表を覗き込みながら、ちらりとカウンターの方を見やる。白髪頭の男性がゆっくりとコーヒーを味わいながら新聞を読みふけっているのが仕切りの影に半分隠れて見えた。その向こう側に店員の姿はまだない。三成がそれに気づいて浅くため息をこぼす。
「今日はいない」
「あ、そうか」
「居れば呼ばなくとも勝手に出てくる。あの、さ」
「さ?
「……何でもない」
余計なことを言ったという顔をしたので家康も大人しく黙り込んだ。メニュー表に目を走らせて顔を上げる。じゃあアイスコーヒーで、と言うと三成が立ち上がりカウンターの方へ歩いていった。それを目で追うと、タイミングを計ったかのようにカウンターの奥からエプロンをした年配の女性が出てきた。二言三言、愛想のない三成とにこやかにやりとりして、三成がこちらへ帰ってくるあいだに家康の存在に気づき小さく笑いかけてきたので家康も会釈を返した。
がたり、と椅子を引いて三成が再び席に収まる。
「おっと」
壁に立てかけられていた三成の荷物が倒れかけ、家康は慌てて手を伸ばし受け止める。先日会ったときも持っていた袋を今日も三成は持ってきていた。深い紫色の細長い袋。こちらへ置いておこうか、と家康がソファの上に寝かせるのを三成は止めなかった。
「竹刀か?」
「ああ」
「そうかやっぱりな。この前も持っていたろ。部活か?」
「いや。この近くの道場に通っている」
「だからこの辺に詳しいんだな」
「貴様も何かしているんだろう。前世ほどではなくても、身体つきを見れば分かる」
おや、と家康は目を瞬かせる。昔の三成だったらこんな些末な話題に付き合うことはなかったように思った。自分と同じくらいの時を今世に生きてきた生まれ変わりなのだと、少ししみじみした。
「ワシは柔道だ。お前と同じく部活じゃなくて家の近くの道場に行ってる。剣道も、勧められたんだがな、父がやっていたから」
でも選べなかったな、と家康はぽつりと昔を思い出す。何故だと三成の曇らない瞳が先を問う。
「知ってるだろ。ワシの獲物は槍だった。刀はあまり得意とするところじゃない。……それに、そういうのはもう捨てたんだ。四百年前に」
武術を習えと言い出したのは祖父だった。祖父も父も剣道をしていて、だからといって剣道を強制するわけではなかったが、家康は最初武術を習うこと自体にあまり乗り気ではなかった。とにかく獲物のある剣道は苦手に感じて、どこかのんびりとした雰囲気の教室を選んだ。人を傷つけるのが怖いと、この平和な世の中で今さら思うことはないが、柔道にそこまでのめり込めない理由にはなるかもしれない。
「お待たせしました」
会話の切れ目をちょうど拾って、カウンターにいた女性がアイスコーヒーとホットコーヒーをひとつずつ運んできた。はいどうぞ、とそれぞれに差し出し、見やることもない三成に気を留めることもなく、目の合った家康に軽く笑いかけて去っていく。変にお節介ではないのに親しみやすい雰囲気のある、程よい距離のとり方を知っている人なのだなと家康は思った。だから三成もここに誘ったのだろう。
湯気の出るコーヒーを前に三成は黙っている。ああ、猫舌だったなと思い当たって、自分は添えられたコーヒーフレッシュをひとつと、ガムシロップを半分傾けて入れた。カラカラ、と涼しげな音を立てて掻き混ぜる。
「ひとつ聞いていいか」
「なんだ」
「秀吉殿と半兵衛殿に会ったことはあるか?」
「……ない」
目を伏せて、三成は言った。大谷殿と左近はと尋ねたらそれにも三成は首を横に振った。ふとまぶたを上げ、家康を見る。
「本田は」
「ん、ああ忠勝か。ないなあ一度も。会えばすぐに分かると思うんだが」
「そうか」
かちゃ、と乾いた音を立て三成がコーヒーカップを持ち上げる。慎重に息を吹きかけてから、一口すすった。苦味ではなく熱さに舌を少し噛んだようにしたのを家康は見て取って微笑む。手の中のグラスをストローで弄んで、下へ沈んだクリームをゆるやかに撹拌する。忠勝はな、と呟いた。
「たぶん、今世にはいないように思うんだワシは。勝手な思い込みかもしれないが、今世くらい一人で頑張れと言ってくれてるような気がするんだ」
それは家康の本音だ。氏政の傍に風魔の姿を初めてみたとき、正直幼い自分はどうして自分の傍らに忠勝がいないのだろうと寂しく思った。でも少しずつ時が経つに連れ、未練なくこの世に生まれ変わることもないというのも良いことじゃないかと思うようになった。もちろん生まれ変わって会うことができたら心から嬉しい。けれど、忠勝が生まれ変わるとしたら、自分という未練があるからだと家康は思わずにはいられないだろう。だから忠勝が今世にいないということは、家康を信じてくれている、ということなんだと思う。
ふん、と三成が物思いに更けそうになる家康を引き止めるように小さく鼻を鳴らす。
「おそらく、秀吉様と半兵衛さまは今世にはいらっしゃらないだろう。私はそう思っている」
「……なぜだ?」
「覇道は貴様に邪魔されたがその信念は最期まで貫き通された。悔いはあっても、納得されているだろうと、今は思う」
湯気の薄くなったコーヒーに自分の姿を映し込み、別に貴様を慰めるつもりは毛頭ないが、と三成が前置きする。
「秀吉様が憂いたこの世の行く先は結局、貴様の治める三百年で形になった。それは秀吉様の思い描く形とは異なるが、この平和を今さら秀吉様が乱そうとお考えにはなるとは思えん。ならば、未練はあっても生まれ変わる必要などないだろう」
きっと貴様の作った平和な世をどこかで見定めている、と言ってから、三成はコーヒーに口をつけた。そうか、と家康は染み入るように頷く。家康が言うのは違う気がするから言わないが、二人が今世にいないだろうとはなんとなく、家康も思っていた。三成はきっと知らない。家康も後々、前田慶次に聞いたことだが豊臣秀吉がただひたすらに圧倒的な力を求めた理由のひとつに、一人の女性がいた。詳しいことは珍しく酒に酔っ払った慶次でも話してくれなかった。ただ、そのことを話す慶次の目が懐かしく甘い夢を見るようだったので、どちらにとっても大事な女性だったのだとは思った。もし、秀吉がその女性ために新しい世を作りたかったのだとしたら。平和な今世に生まれ変わることもないのかもしれない。
会いたい人には会えないものだな、とぽつり家康は言った。三成は、返事をしなかった。
「ワシは、お前も生まれ変わっていないのだとずっと思っていたよ。いや、思い込んでいたという方が正しいな」
と言って少し笑い、それから家康は惜春の幽霊の話をした。
自分が徳川家康の生まれ変わりだと知った後、三成の幽霊を見るようになったこと。それは桜の下に花咲いた頃やってきて、散る頃には姿を見せなくなること。どうして化けて出るのか聞きたくて、話しかけたり触れようとすると音もなく消えてしまうこと。夜這いされかけたことなどはざっくり省いて、幽霊は死人の魂がなるものだと思っていたから、自分の元に幽霊となって現れる三成は死んだままだと思っていたことを話した。
三成は大人しく、少しばかり目を見開きいささか面食らったような表情で耳を傾けていた。生まれ変わりに幽霊の話なんて普通の人が聞けば随分ぶっ飛んでいる。三成が多少驚くのも無理はない。
「だからお前と再会したとき、本当にびっくりした。一瞬幽霊が舞い戻ってきたのかと思った。でも名を呼ばれたから、違うと分かった」
お前の幽霊は声を聞かせてくれなかったから、と言って家康は三成を見た。三成は少し唇噛んで、苦い顔をした。切れ長の目がじっとテーブルに視線を落としている。
「知っているだろう、ワシは」
よみがえる感覚を押しやって、家康は震えそうになった手をテーブルの下へ隠す。頭の片隅が血で汚れた残像を見るのを一度目を閉じてやり過ごす。
「ワシは、お前を殺した」
ゆっくりと、三成の双眸が家康を見据える。ひやりと家康を確かに射抜く雨色のような光。ああ知っている。やはり三成は全部覚えているのだ。あの日のこともすべて。すうっと何かが心臓の傍を通り抜けて、家康はその苦しさに息を吸い込んだ。
「ワシはお前を手にかけた。だから、お前の幽霊はきっとワシを呪い殺しに来たのだと思った。そしてそれを仕方がないと思っていた。それだけのことを、いや、償いきれないことをワシはお前にした」
だからもし、今度はお前がワシを殺しにきたのなら。
「……殺してほしい、とでも言いたいのか」
ひどく冷めた声音だった。少しの怒りの色が含まれている。家康が返答に口ごもると三成はそっぽを向き、息を吐いて自らその色を散らして消した。
「下らん」
「なに?」
「下らないと言った。私はその幽霊ではない。貴様の元に現れる幽霊の思惑など知るか」
そもそもだ、と三成は家康を睨みつけ少し語気を強めた。胸倉を掴まれたわけでもないのに、その迫力にそんな心持になって家康は動けなくなる。
「知っているか? 敵討ちは再び明治時代に禁止された。この平和な世でお前を殺せば私はただの殺人者だ」
「ああ……そうか、そうだな」
「それに私は貴様をもう恨んではいない」
早口に三成の口からこぼれ出た言葉に家康は驚き目を見張った。前世では主君の仇と裏切り者と罵りただひたすらに家康との果し合いを望んだ三成が、こうもあっさりと自分の罪を解くとは思ってもみなかった。ただ惜春の幽霊と同じように、最初に会ったときから三成にも復讐の念を感じられなかったことは事実だ。もし持っていたならば家康はきっと気づく。向けられる張本人であり、多少の覚悟は決めていたのだから。呆ける自分に、三成は静かに続けた。
「私も貴様も、あのとき選んだ己の道の結果があれであっただけのことだ。譲れぬものが互いにあったことくらい、あのときの私でさえ知っている。勝った貴様が強かった。ただそれだけの話だ。恨む恨まないもないだろう」
「でも、ワシが殺したんだぞ、お前を、この手で」
「その相手を目の前にして憎くないか、ということか?」
三成の嘘を嫌う瞳が家康をの心を探り当てるように澄み渡る。そしてため息まじりに、思っていたら貴様とこうして会うことなどない、と言った。それはたぶん本当のことだ。偽ることが嫌いな三成がよりによって家康のために安っぽい嘘をつくとは思えなかった。
言葉に詰まる。殺されることも責めたてられることも、そんなことを三成がしないだろうことは再会したときから自分は薄々感じていたのだ。でなければ、連絡先を交換するなどというまどろっこしいことも、喫茶店で茶を飲むなどという呑気なことにものこのこと応じたりはしない。この世にただ一人、自分のこの手の罪を理解してくれる相手に告白したかっただけなのだということに思い当たって、家康は額に手を押し当てた。これではまるで、三成にすべて促して任せているようなものだ。
「す、」
縋るような自分の声を牽制するように三成が家康の目を射抜く。
「いいか謝罪などするなよ。もし言えば」
その先の物騒な言葉を、三成は後悔するように飲み込んだ。その瞳に浮んだ色を家康は読み取ることが出来なかった。家康の返事を待つ前に三成が腕時計をちらりと覗き込み、立ち上がる。ひったくるように竹刀を拾った。
「悪いがこれから剣道なんでな。先に出る」
そうして家康を一瞥すると、複雑な表情を覗かせた後で一度も振り返らず風のように去っていた。からんころん、といささか大きく鳴ったドアベルの音を聞きながら、家康は己への嫌悪感で淀んだ胸の重たさに苦虫を噛み潰したような顔で長く息を吐いた。何て図々しい。覚悟は出来ていると償うと言っておきながら、結局自分が楽になる方法を考えている。それをきっと三成は見透かしたに違いない。
でも。
どうしたらこの罪は償えるだろう。恨んでないと言われたからといって、手放しで喜んで簡単にこの手の罪の形を忘れることは出来ない。自分に出来るせいいっぱいで、三成の重荷にならない形で、自分はどうやって三成に。
まだ一口も飲んでいなかったアイスコーヒーのグラスをゆっくり掻き混ぜた。氷の溶けて少し薄まったコーヒーの中で、残った氷が小さく音を立てて崩れていく。観がえれば考えるほど泥沼にはまっていく心持になる。どれもこれも、自分が楽になるものばかりだ。
あれから気まずさを感じる日々の中で数日が過ぎ、気づけば五月に入っていた。三成から一本の電話が入っていた。わざと取らなかったわけではなかったが、折り返しも出来ずに結局また一日が過ぎている。
今日は久々によく身体を動かし、程よい疲労感に三成への後ろめたい気持ちも少し遠ざかっていた。家康は、三成と再会した日に行けなくなってしまった柔道教室に改めて訪れていた。助っ人要請だったのでもう行く必要はなかったのだが、家康が来ることを楽しみにしていた子どもたちがおり、良かったら顔を見せてくれないかという誘いに喜んで出向いたというわけだった。先生の友人にも直接謝りたいと思っていたし、子どもたちと会って少しの元気をもらって家康自身、とてもありがたかった。
機嫌よくもうすっかり日の沈んだ道を歩く。道場は住宅街の中にあるのであまり人の姿はない。早い夕飯を取っている家もあるだろう。時折見かけるのはどれも家路を急ぐ人だ。点々と並ぶあたたかそうな家の明かりに空腹を覚えて、歩く足を早めた。
駅前は人通りも車も多い。駅舎も駅ビルも、白色が飛ぶほどの明かりが眩しすぎるくらいだ。駅の前の桜の木の近くで待ち合わせする恋人がふと目に入る。再会したのはここだったなと、少し遠くの日のように感じた。時間を確かめる。まだ七時にはなっていない。確認するだけ、と念じて家康は目指す方へ走り出した。
運良く出会う、ということはそうそうないらしい。ゆるゆると足を止めて家康はあの古い喫茶店を外から覗いた。中から見えづらい位置をとって窺った店内は五、六人が控えめにお喋りを楽しんでいるか軽食を取っているかという様子だ。一瞬、ひょろりとした背格好にどきりとしたが、よく見れば髪の色が違った。三成の姿はない。カウンターの中には以前来たときに居た女性とその夫と思われる男性が並んでいる。その男性が三成の知り合いとは思えなかったので、今日もその人はいないようだった。
もしここに三成がいたら、結局自分はどうしただろう。電話をもらったのにすまないと言って声をかけるだろうか。それとも、最初に決めたとおり、その姿を見ただけで引き返しただろうか。何がしたいんだろうなあワシは、と心の中で呟いてがしがしと髪をかき回した。
「家康、さん?」
「えっ」
聞き覚えのある声のした方を見やると、そこには顎くらいまで伸びた髪をふんわりと切り揃えてセーラー服を着、おしとやかにに鞄を両手で持った少女がいた。思わず声が上擦るほどに家康はびっくりして、目を見開いた。立て続けにこんな縁ってあるだろうか。
「か、巫殿!」
「うわあ家康さん!本当にお久しぶりです。ばびゅーんと四百年ぶりですね!」
何かいいことあるかもって思ってたら本当にありました、とふわりとその髪の端を揺らして鶴姫が笑った。その姿は前世の記憶とまったく変わっていない。鈴の音が転がるような声に、独特のテンポの話し方、少し大げさで人の目をひきつける可愛らしい仕草。袴に代わったその制服はお嬢様学校のもので家康の通う学校の駅の三つ四つ先にあるはずだ。きらきらした瞳で家康の鼻先にくっつかんばかりに駆け寄ってきた。わわ、とその勢いによろめいた家康に、鶴姫は悪びれた様子はちっともない。
「まさかこんなところでお会いできるなんて!」
「巫殿はこの辺に住んでいるのか?」
「いいえ、お友だちと遊びに来たんです。それでこの奥にあるおいしいパフェを食べていたら遅くなってしまって」
「はは、そうか」
そのパフェの味を思い出したように、鶴姫はうっとりとその頬に手を添える。くるくると表情が変わって鶴姫を見ていると本当に飽きない。それは昔東軍で一緒だったときから変わっていなかった。鶴姫が気づいたように声を上げる。
「家康さんは? この近くにお住まいなのですか?」
「いいや。ワシは用があって学校帰りに寄っただけなんだ」
「わたし、その制服見たことがあります」
にこっと笑って、少しお話して行きませんか、と鶴姫は言った。
「ワシは平気だが……巫殿は大丈夫か?」
「ええ! 懐かしいお友だちに会ったって言ったらきっと平気です」
じゃあ今電話しちゃいますね、と早速鶴姫が鞄から携帯電話を取り出している。鶴姫が携帯電話を耳に押し当てながらこちらを見て笑いかけたのに気づいて家康は、いやはや拾う女神ありだ、と笑い返した。
駅前に戻り、駅ビルのフードコートに入る。様々な料理の美味しそうな匂いが漂いほどよく席も埋まって混みあう中、二人は小さなカウンター席に空きを見つけた。
鶴姫は、自分の通う学校の近くにある神社の娘なのだという。地元の人しか知らないようなちっちゃな神社です、と鶴姫は微笑んだ。
「ああそれにしても、今日のすてきなご縁に感謝です」
「縁といえば、巫殿はワシの他に誰かと会ったことがあるか」
「ええ。会いましたよ。三成さんに」
「えっ、ああ」
あまりにあっさりと言うのでうっかり聞き逃してしまいそうになった。でも、違う学校とはいえこの界隈に前世の縁がある人間が三人いて、出会う確立はとても低いが自分と三成が再会出来たのだから、鶴姫が会っていてもそれほどおかしくはないかと家康は思った。
鶴姫はホームで電車待ちをする三成を偶然見かけて、乗っていた電車を飛び降り突撃したらしい。巫殿のことだから文字通りの行動だったろうなとその出会いを想像して、少し三成に同情した。この天真爛漫な性格だから邪険に扱うわけにもいかず、鶴姫のペースに押されっぱなしで終始苦い顔していたんだろうと思う。連絡先、教えてもらいちゃいました、と首を傾けて笑う鶴姫に家康は心の底から感心した。
「でも三成さん、メールしてもぜんぜん返してくれないんですよう」
「ははは」
不満げに頬を膨らませて、鶴姫は買ってきた飲み物のストローに口をつけた。ああでも、と鶴姫がぱっと顔を上げる。じいっと大きくてくりっとした瞳に家康を映した。
「家康さんも、三成さんと会ったことがあるんですね」
「……巫殿は何でもお見通しだな」
「ふふっ。お顔を見たらすぐに分かりますよ」
困ったなと苦笑いして家康も飲み物に口をつける。すると、紙コップを持つ家康の手に鶴姫が手を伸ばしてきて何の躊躇いもなく触れた。びっくりしてストローから唇を外すと、鶴姫が家康の顔を覗き込むようにし神妙な雰囲気を漂わせて言った。
「今世は、この手をどうやって使うおつもりですか、家康さん」
すべてを瞬時に見透かされたようで、家康は何も言葉が返せなかった。前世ではあれほど絆の力を信じ共に結ぶことを三成に説いていたのに、今世の自分は三成の気持ちにぶらさがるばかりだ。対等でも何でもない。石像のように固まってしまった家康に、鶴姫は雨に降られたような顔をして慌てて手をばたばたさせた。
「あの、ごめんなさい! わたし家康さんをいじめるつもりはぜんぜんなくって」
「いやいや、いいんだ。そのとおり、三成に対してどうしたらいいのかワシはまったく分かってないのだから」
「家康さん」
しょんぼりしてしまった鶴姫を見て、家康は鶴姫が前世で自分と三成の仲を心配してくれていたのを思い出した。友人なのに争うなんてそんなこといけませんと、目に涙をいっぱい溜めて最後まで反対し家康と三成のことを案じてくれたのは他でもない鶴姫だ。昔から心配をかけて申し訳ない、と家康が笑いかけると、鶴姫はぶんぶんと首を真横に振り、身体を乗り出すようにした。
「わたし思うんです。家康さんも三成さんもみんな、この平和な世の中に生まれ変わった意味があるって」
前世で家康さんが槍を捨てたのに理由があるように、と鶴姫は言い、硬く閉じた家康の手に再び触れた。
「だって家康さんは、この手で、平和な世を創りたかったのでしょ? そしてこの手で、ちゃんと創ったじゃないですか」
「……それは違う」
己の声の低さと重さに家康はどきりとする。雨雲のような淀んだ感情が心に垂れ込める。すぐ傍にいる鶴姫の顔を家康は見ることが出来なかった。
「結局ワシは本当に守りたかったものを、救いたかったものをこの手でどうすることも出来なかったのだ巫殿。三成のいる世を、創ることができなかった。それどころかワシは、三成を、」
嗚咽に似たものが喉をせり上がり、その先は言葉にならない。俯き黙り込んだ家康に、鶴姫のもう片方の手が伸び家康の手を包み込んだ。不思議ですよね、とぽつり呟いた。
「傷つけたくない相手を、人ってどうしてこの手で傷つけてしまうのでしょう」
でもね、家康さん、とひたすらに優しい声で鶴姫が言う。
「慈しむのだって、この手でしか出来ないんですよ」
ゆっくりと顔を上げると、鶴姫が微笑んでいた。
「突き飛ばした相手を抱きとめるのだって、同じ手です。……後悔を、創ってしまった手だとお思いになるのだったら、それはまたこの手で取り戻さなければ」
いつのまにか少し泣きそうな顔をした鶴姫に広大で深い海のような優しさを見る。家康は、じんわりと眩しさのうつった瞳で見つめ返しせいいっぱいの感謝の気持ちを込めて笑いかけ、そろそろ帰ろうかと静かに告げた。
連絡先を交換して駅へ行き、ホームへ向かう。つい先ほど電車は行ってしまったらしい。次の発車を待つ電車に乗り込み、鶴姫と並んで座った。七時半を過ぎたころだが、駅始発の電車だから乗客が全員座っても少し余裕がる程度の混み具合だ。
三成さんとはいつ再会されたんですか、と隣に座る鶴姫が尋ねる。
「ええと、先月の下旬だったかな」
「わたしも先月です。たしか11日だったから、家康さんより前になりますね」
「そういうのあいつはまったく話さないんだからなあ」
「ふふ。やっぱり春は出会い季節ですね。それと、恋の季節」
「恋?」
これまた唐突だなあ巫殿は、と笑うと鶴姫はあれれおかしいですねと首を傾げた。
「学校のお友だちとおんなじ顔だったんですよ」
「うん? 何がだ?」
「家康さん見てたでしょう。古い喫茶店」
そこでにっこりと鶴姫は笑った。どきりとした。何か気づいてはいけないことがこの先にある、と直感的に思ったがもう遅かった。すぐそばで発車ベルが鳴り響く。
「誰かを探してたのですよね。その横顔がそっくりだったんです。恋してるお友だちのと」
ため息のような音をもらして電車のドアが閉まる。がた、ん、と電車が終着駅を目指して動き出す。
……ああ、なんてことだろう。それは、随分と身勝手になるに決まっていると、惜春の幽霊に掴み損ねた感情の名を家康は知る。微かな花の香りが頭の片隅でふわりとよみがえった。
***
話があると電話口で三成は言っていた。それに家康は返事をしなかったように思う。折り返し連絡を入れたのは自分だったので、家康が待ち合わせを決めた。場所は再会したあの駅。ゴールデンウィーク明け最初の平日はどこか皆くたびれた顔で、どこもいつもより人通りが少ないように感じた。
駅前でと約束したのだけれど、何の偶然か降り立ったホームに三成の姿を見つけ家康は呼び止める。改札口に向かう人々の流れの中で足を止めた白いシャツの背中が振り返った。細い面差しの瞬きの少ない瞳が家康を見つけて、相対する。人の波が三成を残し掻き分けてゆるやかに引いていき、やがて、誰も居なくなった。
ぽつりと、二人きりになる。静かで、まるで世界に自分と三成の二人きりしかいない気分になって、感傷的な自分に少し呆れた。それこそ三成の言うとおり下らない感情だ。
このあいだ巫殿に会った、と言うと、三成は出会ったときのことを思い出したようで眉間に皺を寄せ薄い唇をへの字に少し曲げてげんなりした。
「なんだ貴様もか」
「メールの返事が来ないと嘆いていたぞ」
「あの巫女の文面は解読不能だ。象形文字を読んでいるような気分になる」
「どういうメールだそれは」
ははは、と笑い飛ばしてから、家康はよくよく三成の姿を目に含んだ。前世からよく知るそのかたち、声、心、家康の記憶の中に咲き続ける色のすべて。一片たりとも忘れないように、これから何度思い出しても擦り切れないように。いつでも、鮮やかによみがえるように。
「話がある」
決して紡いだ言葉は、震えずに済んだ。私もだと言った三成に家康はゆっくりと首を横に振る。三成がわずかに首を傾ける。
済まない巫殿と心の中で謝る。慈しむこともできると鶴姫は言ってくれたのに、三成殺めた手で三成に償おうとすること自体、土台無理な話なのだとこの心は思い知った。この浅ましい想いがあるから、なおさら。
恋慕だと知った瞬間に、それは終わる。
「……もう、これきり会うのはやめよう」
すべてが叶わぬ話なら、三成の生きる世界に居てはならない。それが、この手で償うことすら出来ない自分への罰であり、今世に自分が生まれた意味なのだ。
三成のぴくりともしない難しげな顔は今まで見たことのないもので、家康には読み取れない。まぶたを閉じ遮断した向こうに、もう花の香りはなかった。
continued...