自分が石田三成の生まれ変わりなのだと自覚したのは物心ついて間もないころだ。
いや、本当は生まれたときから石田三成の前世を知っていたけれど、情緒や人格、言葉の発達が追いつかず、ただそれを表現できなかっただけだと三成は思う。誰に名前を与えられずとも、自分は生まれたときから“石田三成”だった。
前世の記憶とともに、世の中のおおまかな仕組みは分かっていたから幼いときから可愛げのない子どもで通っていた。大人びた言動、大人びた考え、大人びた表情。子どもらしくないと言われるのは常だったが、どこかの漫画のように中身は大人、身体は子ども、というのとはやはり違った。前世があるなどと言っても信じてもらえないことは、石田三成の持つ常識で幼い頃からなんとなく理解していた。ただ、三成自身が積み上げていく経験はすべて三成のものであって、それは普通の人の成長過程となんら変わらない。石田三成の知っていることには別段、三成の心にわざわざ響かない。けれどはじめて見るものには他人と同じく心が動く。石田三成の前世が、年月を経て形成されていく三成自身に不可分に近く隣り合っているというのがいちばん近い表現かもしれなかった。
随分呑気な時代に生まれたものだと、あるとき三成は思った。たとえば自分の祖父母を知ったとき、人間五十年の時代は終わったのだと知った。朝起きて、戦に出かけるものだってもうこの国にはいない。いるのは平和に慣れた人々で、群雄割拠の時代は城跡を残すのみ。兵どもが夢の跡だ。
今世が誰の世の続きなのか三成にはおおよそ検討がついていた。これはあの男が形作ろうした手触りにとてもよく似ている。
徳川家康。
前世の記憶の中で何度も蘇るその姿。思い出すたびに自分の心をざわつかせる時折、眩しさにかすむそのすべて。数百年前に石田三成を手にかけた、主君である豊臣秀吉の仇。
すべてを三成は覚えていた。徳川家康が豊臣の元を離れ裏切ったことも、絆の力でこの世を統べらんとしたことも、関ヶ原で互いの信念をぶつけ合い対峙したことも、徳川家康が許せず恨みを募らせた三成自身の想いも、すべて最初から持っていた。だから当然のことのように三成は徳川家康のことを恨んでいた。もちろん石田三成ほどの憎悪はなかったが自分を殺した相手を恨むのに理由はいらないというほどの自然さで、徳川家康の願った平和な世に生まれてきたこと自体が呪わしかった。とんだ神の嫌がらせだ、と幼稚園にも通わないころから三成は思っていた。
気づいたときには、徳川家康の亡霊を見るようになっていた。
ぼんやりとした白い影が桜の木陰に立っているのを見てすぐにあれは徳川家康だと分かった。俯いた顔は遠くて確認することも出来なかったが、あの太陽に似た山吹色の着物姿を忘れることはない。家康だ。そう思った瞬間、幼い三成は走り出していた。恐怖はまったくと言っていいほど感じなかった。何をしに来たと大声で怒鳴りつけたような記憶がある。掴みかかってどうしようなどその先は考えていなかった。ただ、この前世の想いをぶつけたかったように思う。しかしその幽霊は触れようとしたそのとき、跡形もなく消えた。それから毎年、春は桜の咲くころから散りゆくまで毎年徳川家康の幽霊は現れるようになった。
いつも伏し目がちに俯いた、ただ佇んでいるだけの陰気な惜春の幽霊。
姿かたちは前世の記憶そのものなのに、漂わせている雰囲気は覚えているものと随分違った。腹立たしいことこの上ないが、三成の記憶にある徳川家康は堂々として淀みなく真っ直ぐだった。その眩しさに、顔をしかめたくなるほどに。けれどその幽霊はいつも寂しげで、悲しみの色をたたえた口元をしていた。それが三成を余計に苛立たせた。
私を再び殺しに来たのか、そう問うてやったこともある。何度も呼びかけ掴み掛かってやろうとしたが、何の返事も寄越さずそれは三成の手をすり抜けるように消えていく。何がしたいと何度も問うた。私を困らせて満足かと何度も何度も言ってやった。自分の作った平和な世で、海の底にいるような陰気臭い顔をしている亡霊を三成は嘲笑い見下し哀れに思い、少し、遣る瀬なかった。
いつのころだったか、その惜春の幽霊が何か話していることに三成は気がついた。頼りない口元がか弱く何かを呟いている。もっと大きな声で吼えて見せろと言ってやったがまた消えた。こちらに届かなければ何の意味もない。本当なら黙れと胸倉を掴んでやりたいところだったがどうせ消えてしまう。何度言っても聞かないからそのうちこちらが折れた。
三成は、聞くことにした。何か言いたくなるのをぐっとこらえて、今にも死にそうな顔の幽霊に向き合って耳を傾けた。すると風の音や木々のざわめき、遠くの喧騒の中にまじって途切れ途切れのか細い、よく聞き慣れた声が三成の耳に届いた。それは不思議な感覚だった。惜春の幽霊が遠くにいても近くにいても、声の大きさはいつでも変わらない。まるで耳の傍で話すような声がする。なのに憂いをにじませた口元からこぼれる芯の通った耳を溶かす声は、いつも壊れたラジオのように切れ切れで全部を拾うことができない。それから三成は何年もずっと口をつぐんで、耳を澄まし続けた。何年も何年も、十年の月日が流れるほどにずっと。
十七度目の春が来た。
***
その出会いは偶然だった。いや、前世という縁があるから必然に近いかもしれない。でもよりによってこいつでなくてもいいだろうと三成は通り過ぎてしまおうかと思ったが、うひゃー偶然だね!と笑顔で近づいて来た奴の肩を掴む力が無駄に強くて逃げるタイミングを逃してしまった。
「すっげー顔!」
と指差して能天気に笑うのとは裏腹に、たやすく警戒を解かない目の奥の光に前世の面影を見る。貴様何をしているとすべて言い切る前に、俺ここでバイトしてんのよとするっと三成の肩に手を回し、有無を言わさない力加減で三成を引きずっていく。
「何なんだ貴様は!」
「遠慮しなくっていーって。一杯くらい奢るよ?俺様がさ」
一名様ごあんなーい、と高らかに言うそのお節介さがちっとも前世と変わっていないのにため息をつくしかない。あのときからこいつは少し苦手だった。若き虎の大将の身を案じ、世話を焼くその姿が少し誰かを思いさせる。ただ、これほど強引で面倒臭くはなかったかと三成はげんなりした顔で喫茶店のドアをされるがままにくぐった。
猿飛佐助との出会いはかれこれ二年前になる。三成が剣道の帰り道、古い喫茶店を通りすがったのをバイト中だった佐助が見つけて声をかけた。佐助は大学生だか専門学校生だか、とにかく時間に融通のきく身であり、三成に会う一年ほど前から喫茶店でバイトをしているらしかった。それ以上のことは佐助も問われない限りあまり自分のことは話さないし、三成も興味がなく尋ねることもないのでよく知らない。
それからときどき佐助と顔を合わせるようになった。とは言っても三成が声をかけたこともわざわざバイト先を訪ねたことも一度もない。三成が剣道へ通うのに喫茶店の前を通るのをいちいち佐助が見つけるといったふうで、休憩中の裏口で会話ともいえない会話をしたり、ときには中に連れ込まれカウンターを挟んで会話らしい会話もした。毎回ほろ酔い気分のサラリーマンのように一杯奢っちゃうよと佐助が軽口を叩き、最初は借りを作るのが嫌で払っていた三成も途中から面倒になって好きにさせている。数百円の積み重ねを後々恩に着せるみみっちい男かどうか、前世では必要最低限の会話しかした記憶のない三成には正直まだ分かりかねるが、ただ前世の縁があるというだけの自分に構うのは随分と暇を持て余しているのだなとは思った。
あれは一年前の秋も終わった冬のはじめのことだ。気づけば佐助は煙草を吸うようになっていた。夜の暗い路地裏に、ぷか、と佐助が銜えていた煙草を外して煙を吐き出している。休憩中だと、建物と建物の間の狭くて薄暗い隙間にいわゆる不良座りをして、冬の凍えた吐息でなく濁った煙を夜気に吹き付ける佐助に三成は顔をしかめる。薄っすらとあたりを漂う生ごみのすえた匂いと、うるさい換気扇から漏れる料理の匂いと熱気、そして鼻腔の奥を刺激する乾いた煙草の匂い。夜の街の喧騒に取り残された深淵にぽつりと座り込む忍の姿がどうにも見ていられなくて、手招きされるまま近寄ってきたが何ともいえない居心地の悪さに肩をすくめる。細い路地を抜けていく風に、巻いていたマフラーに口元まで引き上げた。
「おい、いい加減その物真似みたいなことはやめろ」
「……」
「聞いていないふりもだ」
「違います無視してるだけでーす」
「その話し方も、やめろ」
「もー注文多いな相変わらず」
頼むのは店のメニューだけにしてよねと悪態つきながらもその顔は笑っていて、結局佐助はまだ1センチも短くなっていない煙草を地面に押し付けて消してしまった。その動作に未練がましさのかけらもなく、店から持ってきていた煙草にぽいと投げ入れるのはいっそ潔いくらいだ。その薄っぺらな横顔を見下ろして、三成が佐助に言える慰めなどひとつもない。
佐助の煙草の箱は、いつもしわくちゃだ。中身が少なくなればなるほど、使い古したみたいにべこべこにへこんで中の煙草自体も曲がったりしている。長い間同じものをずっと持ったままだからそうなるのだ。けれど佐助がそれに気に留めることはない。箱を丁寧に扱うことも、しけもくのような見てくれの煙草を伸ばす素振りだってない。
「……猿真似とはこういうことだな」
と哀れみ混じりに三成はため息をついてやった。佐助は、手持ち無沙汰なのよーとからからと笑ってごみになった吸殻をぴんと指で弾いていた。佐助が自分を構う理由はそんなものだ。コーヒー代を持つのはたぶんそのことに関連していて、十数年この平和な世で暮らし前世とは多少変わったと自覚のある三成がそれでも言っていいものか分からないが、前世を持つ少し屈折した忍の相手はいささか面倒でたかがコーヒー一杯じゃ割に合わないんじゃないかと思うこともある。
そんな相手に家康の幽霊の話をしたのはいつだったか何がきっかけだったか三成はよく覚えていない。敏くお節介な忍に面倒なことをこぼしてしまったと苦い気持ちになったのは覚えている。仔細を話す義理はないからざっくりと話したその幽霊の話を、佐助はカウンターの中でグラスを拭く手を止めずにふうんと何を考えているか読めない顔で聞いていた。
「なんつうか変な話だな。ふつうに考えたらアンタが出る側でしょ。徳川の方にさ」
「そうだな」
「手に掛けられたのはアンタの方だもの。何の理由があるんだか」
理由、と三成はその言葉を自分の中で反芻する。何年も幽霊の言葉に耳を澄まし続けて、三成には分かったことがある。それは前世の家康が自分に伝えたい届けたいと思っていたことが数多くあったということだ。惜春の幽霊を思い出すたびに、自然と三成は前世の家康のことにも思いをめぐらせた。声を拾おうと三成の傾け続けていた耳はいつしか前世の方にも向いていた。主君の死と、友の裏切りにこの心が憎しみで満ち満ちているときには聞こえなかった家康の声が今さらながら三成の耳に届く。それは絆という不確かなものを愚直に信じ、かつての友を最後までひたすら真っ直ぐに想った家康の声だ。
実のところあまり器用でなかった家康の、少しの迷いに揺れる声が今ならあの関ヶ原の対決に感じることができる。自分に拳を向けたあの咆哮に悲痛の色を見て取ることができる。そして、自分に手をかけたときの家康の顔を、三成は今しつこいほどに思い出す。
「おい」
「ん?なに?」
「貴様、自分が死んだときのこと覚えているか」
「そりゃあ、ね。無様すぎて忘れられないっつうの」
教えてあげないよと茶化す佐助に、いらん、と三成は一蹴する。目を閉じなくても、今でもありありとその様を思い出すことが出来る。
静まり返った戦場にさざめく雨音と、もう力の入らない身体にまとわりつく泥土の感触。頬に落ちる雨の冷たさにひたりと心地よささえ感じて、三成は血を流し去る雨に少しの感謝をした。この面では一足早く先に逝った主君たちに合わせる顔がない。自分を見下ろす影に三成は、殺せと言った。本当は、そんな顔をするなと蹴り飛ばしてやりたかった。
家康が震える手を自分の首に添えたことは覚えているが、その先はあやふやだ。痛みもなくすっと意識が遠くなってぷつりと、糸のように事切れたのが石田三成の最期だ。たぶん、家康が手をかけようとしたときにはもうほとんど息絶えているようなものだったのだろう。こんなことを思っても、今さら惜春の幽霊には何の慰めにもならないだろうが、と三成は冷めたコーヒーに目を落とす。濃い茶色の表面は揺れることなく三成の顔を映している。それはまるであの日、死にゆく自分を見送った家康の姿を映す自分の瞳のようだ。
「……死んだ後のことはどうだ」
「後? 今、ってこと?」
拭き終えたグラスを置いて、首を傾げた佐助が下を指差す。
「いや、何でもない」
小さく息を吐き、三成は温くなったコーヒーに口をつける。家康の声に耳を傾けてから三成は自分の前世の記憶の中にに見つけたものがある。それは元々自分の中にあったものかどうか今となっては分からない。傾ける前は前世からの家康への憎しみを引きずったままだったから、その強い念が見えなくしていたのかもしれないし、見ようとしなかったのかもしれない。それは自分が息絶えた直後のとても短い記憶だ。
雨に打たれたまま、亡骸を前にして俯く家康の顔。それは最期に自分の目で見た、首をゆるやかに絞め上げる家康の顔と繋がっていて違和感がなく、幻想に作り上げられた記憶でないと確信している。酷い顔だ、と三成はその顔を思い出すたび顔が変なふうに歪みそうになった。心臓を掻きむしりたくなるような苦しさが胸に去来してどうしようもなくなる。自分の骸をその瞳に見るなんて悪趣味な記憶だと、それだけで片付けられならどんなにいいだろう。知りたくなかった、とはもう言えない。ただ今さら自分に出来ることはないと思い知るだけだ。
つうかさーあ、と間延びした声が三成の意識をこちら側に引き戻す。顔を上げると、いつのまにか自分用に淹れた熱いコーヒーに佐助はふうっと息を吹きかけていた。ふわりと白い湯気が散って、良い香りが三成の元まで微かに漂う。
「石田の旦那のところに幽霊が出るってことはさ、徳川はこの世にいないってわけだ」
そのことを三成が考えたことはとうにある。三成が今世にいるからこそ、その姿がないのかもしれないとも思った。けれど、その先の考えは三成の個人的な希望でしかない。ふん、と三成は鼻を鳴らす。
「知るか。あいつのことだ。とぼけた顔でその辺をうろついているかもしれないし、どこぞで捕まって祀られているかもな」
「じゃあアンタのところに出てくるのは神様ってこと? そりゃあ縁起がいいね」
俺も見たら拝んでおこうっと、と心にもないことを夜の闇がそっと潜む声でお気楽そうに呟いたかと思うと佐助の関心はすぐにコーヒーの方へ移っていて、自分の腕前を手放しで自画自賛している。それきり家康の幽霊の話は佐助にはしていない。
互いの主君の話をしたのはわりと最近のことだ。出会ったときからその傍らにいないから尋ねる必要なんてなかった。特に前世でよく知った仲でもなかったから、そういう分かりやすい話が二人の間に出ないということはそういうことなんだろうと互いに知っていたのだと三成は思う。
桜が満開を迎えた頃だった。三成が習い事に通う駅前の桜もそれは見事で、道行く人が足を止め咲き誇るその姿に魅入り、見上げては写真に収めていた。三成も気づいてその人々に紛れるように足を止めた。視線の先には、桜の木の下で俯き佇む惜春の幽霊の姿があった。
数日前から今年も現れるようになったその幽霊に三成が改めて驚くことはない。駅前を行く忙しない人々の流れの中にその姿は頼りなく埋もれてしまいそうなのに、三成にだけはそこだけぽっかり残された離れ小島のようにさえ見える。そのすぐ傍で、誰かを待つ見ず知らずの男性がいる。ヒールの小高い音をさせて女性がその前を駆けていく。誰も、気づくことはない。見えているのはやはり自分だけだ。
短い髪を上げ開けた額、それは瞳と同じようにただひたすらに前を向きすべてを受け止めようとする意志の表れだ。けれど今あの双眸は桜の木の色濃い影の下でいつも俯き沈んでいて見ることはない。自分よりも随分とたくましいその身体つき。肩を並べ背中を預けたこともあったあの短い蜜月、よく三成はその食の細さを心配されたものだった。もう少し肉をつけても良いのじゃないかと言われたが、貴様と一緒にするなと三成はその手を跳ね除けていた。あのときは分からなかったことが、今になって懐かしさに似た何かとなって三成の心をかすめる。
佇むその亡霊の姿をよく目に含んでから、小さく深呼吸をして三成は視線を落とし、目を伏せがちにした。耳を、そばだてる。捉えどころのない喧騒が改めて自分を取り囲んでいるのが分かる。やがてそれが引き波のように少し遠ざかって、あの聞き慣れた声が三成の耳元にひたひたと近づいてくる。このとき、三成はまるで世界に取り残された気分になった。自分と家康、この世でただ二人だけが無音に近い、この静まり返った小さな世界に生きている。形にならない声が、ほろほろと耳元でこぼれて崩れてゆく。記憶の中に在る声はたやすく鮮やかに思い出すことが出来るのに、どうしても切れ切れのそれに重ね合わせることは出来ない。頭の片隅に、勇ましく張りのある声のかけらが響いて余韻を残す。昔はそれを特別なことと思いもしなかった。名を呼ばれるというのが、どれだけの意味を持っていたのか三成はその声の端々に想いを馳せる。ゆっくりと、寄せ波が現実を引き連れて戻ってくる。
ざわめきに意識を引き戻されて、三成はひとつため息をついてから顔を上げた。もう家康の姿はそこにはない。また聞こえなかったということに、いちいち気の滅入る月日は過ぎた。空しさや後悔に似たものを感じなくなるはずはなくて、それはいつも胸をいっぱいにするけれどもう当たり前すぎてひとつひとつを拾うことはしない。心が麻痺していくのとは違う。様々な色の感情が降り積もってひとつになって、その重みだけが確かにこの心に圧し掛かる。これからもずっと、歳を重ねるごとにそれは嵩を増して自分の中に座り続けるだろう。四百年前に受け止められなかった想いの分だけ。
甘い香りを漂わせた女性が長い髪をたなびかせて三成の鼻先をすり抜けていく。意識していなかった感覚と無関心に不意打ちを受けて三成はたじろぎ身体を引いた。立ち止まる人も多い桜の下の近くと言っても人通りの多い駅前だ。長居は邪魔だなと三成が踵を返したときだった。
「や」
「……」
「ちょっとちょっと!無視しないでよ」
同じ釜の飯を食った仲でしょ、と軽薄に笑う忍がそこに立っていて、三成はあからさまに嫌な顔を作った。こいつはいつから自分を見ていたのだろうか、とふと気になったがいちいち尋ねるのもまた面倒臭い。ため息をついて雑念を追い払った。
「いつの話をしている。私はこれから剣道だ。退け」
「嫌だなこっわい顔」
手を上げて降参のポーズまでわざわざ作ってみせるのに、佐助をどこまでも胡散臭いと思ってしまうのはその目のせいだ。笑っているだけならただのお調子者で三成も片付ける。含みだけなら警戒するだけで済む。潜ませるだけなら嘘は止せと切って捨ててやる。けれど佐助の目の奥に名のつく感情を何も感じないときがある。それは危うくてお節介とは程遠いところで生きている三成でさえ、居心地の悪くなるときがあった。させているのはどいつだという恨みを込めて三成が視線を横に滑らせ睨むと、佐助の手が伸びてきて三成の二の腕を掴んだ。自然な力の使い方でそのまま軽く引き寄せられ、影の名残を含んだ声が耳の傍でした。
「見たの?」
返事はしない。問われた内容を聞き返す必要はない。答えも、これで十分だろう。大人しく掴まれてやった時間で理解しろと口では言わないが、一呼吸置いてから三成はその手を振り払う。もう佐助の手にも大した力は入っていなかった。あ、そ、といつもの捉えどころのなさがだいぶ戻った声で佐助が手を引く。それを見てから三成は捨て台詞を残して佐助を置いていこうとしたが、今日の忍も相変わらず構いたがりだ。軽やかなステップで三成の行き先を塞いで笑う。
「おにーさんバイトまでまだ時間あるんだよね。ちょっと付き合ってよ」
揚げ足取りをする気は、すぐに殺がれてしまった。自分がついてくるか確認もしないで背を向ける佐助に、三成は小さく頭を振ってから腕時計を覗き込む。用事で遅れていくことはときどきあることだ。普段真面目に通っている三成がさぼりだと疑われることはまずない。付き合う義理も寄せ合う情もないのに佐助の背中が気に掛かるのはその目に自分にも分かる感情が滲んでいたような気がするからだ。勝手に世界に取り残されたような気分になるのは随分自惚れだ。忍がそんなものを気取られてどうすると、三成は苦い気持ちで舌打ち、人混みに消えていなかった背中を急ぐことなく追った。
佐助が飄々と三成を誘ったのは駅ビルの屋上だった。緑の庭園がテーマのその場所は、どうしても取り除くことが出来ない無機質さを取り繕うように色にぎやかな花々が植えられた花壇や植え込みが綺麗に整備されている。大きなパラソルの目立つカフェスペースもあり、人工芝が敷かれたイベント用にも使われそうなスペースもある。平日の夕方も近い午後にはあまり人の姿はなく、若い母親が二人、自分たちの子ども遊ばせているのが目に入った。十数組あるカフェスペースのテーブル席には年配の女性が一休みしている姿があるだけだ。結局ここには飲み物の自動販売機しかないからほとんどの人は下のフードコートを利用するのだろう。きっと多くの人は、この都心で切り取られていない少し濁った青空と、思った以上に心地よい風が抜けていく景色を知らない。パラソルの落とす影の下で、ふわりと春のやさしさを含んだ風が三成の頬を撫でていく。
隅の目立たない席に座った三成の元に佐助が缶コーヒーを二つ買ってやってきた。お店のには敵いませんけど、とテーブルの上にそれを置く。肘掛のある素っ気ないプラスチックの椅子に身体をだらしなく預けて座り、缶を開けて口をつける。ぷはっとまるでビールを一口呑むようにする様を見てから、三成は缶を手に取る。
「でも俺はこの甘ったるい泥水みたいな味も好きだけどねー」
「……人が飲もうとする傍からそういうことを言うな、猿」
「でも当たってない? ちゃんと丁寧に淹れたやつ飲んじゃうとさ。マックのコーヒーとか金払って飲む気なくなるよね」
でも飲むけど、と笑ってもう一口すする。三成は小さくため息をついて缶を置き直した。その後だ。主君や同胞の行方を世間話の気軽さで佐助が尋ねてきた。首を横に振る味気のない返事に、佐助も期待の欠片も見せずに曖昧な相槌を漏らす。分かっていたことを改めて聞くことの馬鹿らしさはないなと三成は口元に手をやった。
「そういう貴様の主君はどうした」
「あー」
頭の回る猿のこと、予測していたに違いないのに随分と歯切れが悪そうに三成には見えた。頭をかいて、伸びをするように上を向いた。パラソルの影から半分顔を出す形になって、強くはない日差しのぼんやりとした眩しさに佐助が一瞬顔をしかめる。お館様も真田の旦那にもどっちにも会ったことはないねえ、と呟いた。その横顔は遠いものに想いを馳せるものではない。
「会いたいとは、思わないのか」
それは愚問だ。うーんと髪をいじりながら、佐助はずり落ちはじめていた身体を引っ張り上げて座り直した。
「まあねえ、でもなんつかどっちもさ、ああいう生き方してるから心残りはなさそうっちゃなさそうなんだわ。転生なんてものに興味がなさそうだし」
持っていた缶コーヒーを佐助は深く傾ける。そして残り少なくなったらしいそれをちゃぷちゃぷと揺らし、でも特に旦那はさとやけに気の乗らない口ぶりで言って、ふーっと長いため息をつく。
「徳川の作ったこの世が続く限り出てこないんじゃないかなーって思うんだよね」
影の落ちた横顔を三成は訝しげに見る。何故そこに家康の名が出てくるのか三成には分からなかった。真田幸村は三成と同じ西軍ではあったが自分と同様に家康と因縁があったわけではないはずだ。むしろ家康は幸村の主である武田信玄を尊敬していて、同じ人物を師として仰ぐ縁ならある。何の話だと顔で問うたのに気づいたのか、佐助がちらりとこちらを見て影の中で密やかに口角を上げた。
「ウチの旦那ってアレでしょ、熱血!とか言って走り出すくせに素直な分優しいからいろんなこと見過ごせなくって足止めちゃってさ、迷うわけよ。それはもーぐるぐると」
人差し指を回し、はは、とまるで昨日のことを話すように佐助は笑った。それはただの思い出話だ。そう思ったが三成は何も言わなかった。遠くに、幼い子どもの笑い声がする。春の日没はまだ先だ。ほんの少しだけ、淡く空の縁が滲み始める気配がある。アンタはどう思う?、そう尋ねた声だけが今世の響きを持っている。
「真っ直ぐでさあ、己の腕を磨くのにそりゃあ熱心でそれしか取り得がないって分かってる兵がこの平和な世に必要だと思う?」
そこで佐助はゆっくりと一度目を閉じた。答えは、明白だ。今の世を見れば一目瞭然で、刀も武士も合戦も、戦国の世を思わせる欠片さえ何一つこの世の中には残っていない。でしょ、と三成を見つめる佐助が言葉を待たずに答えを得る。
「自分は乱世でしか生きられないって思ってた超不器用でどんだけ真っ直ぐなのよって人だからさ、生まれ変わってるってことは、ないんじゃないかなー」
恨んじゃいないけど少しは嫌ってるかもね徳川のこと、と言って佐助は缶を覗き込み一口分もなかったそれを舐めた。三成は煮え切らない思いを胸に覚えて、手付かずだった缶コーヒーを佐助に押しやる。ただ飲む気が失せただけの話で、元はといえば佐助の買ったものだったのに、佐助はラッキーと能天気な声でそれを手に取った。ころころと手の中で転がして暇を弄ぶその姿は誰にも分からない寂しさがきっと潜んでいる。
「どうして、」
「んー」
「貴様は、どうして今世にいる?」
「俺?」
ぴたりと手を止めて瞬きする。ああ、またあの目をしている。逸らしてしまいたいのになぜか躊躇われて三成は眉目を寄せることしか出来ない。くたびれた小さな声が忍びからこぼれた。
「そんなの決まってる。旦那の盾になれなかったってそれだけよ」
自分を心の底からあざ笑って佐助は三成を見つめた。その瞳の色は哀れみか同情か、追憶か。さまざまなものが複雑にない交ぜになって、三成はその氾濫にいささか酔った気分になって小さくため息をついた。
「……難儀だな、随分と」
何に対してかなど境目もあやふやで三成にも分からない。佐助が一度不思議そうな顔を作って、まあお互いにね、とあくびをしてみせ退屈をかみ殺すふりをする。そしてがさごそと尻ポケットを探っていつものぼろぼろになった煙草を取り出した。
「もう、やめろ」
「そうは言っても口寂しいのよ」
「ここは禁煙だ」
「ああ、そういう」
残念とこぼして佐助はがくりと頭を倒して仰向けになると、器用にその煙草の箱を眉間の上に乗せ肩の力を抜き黙ってしまった。不毛だ、と三成は思う。分かち合う気も分かち合えるわけもなく性格の一片すら似つかないのに、鏡を見る気分になってこうして一緒にいることほど、面倒で無様で不憫で、哀れなこともない。微動だにしなくなった佐助を横目に時間を確認して、三成は立ち上がった。
「泣くなよ」
「泣かないけどさ、なんで」
思ったよりも平気そうな声をしていて存外に打たれ強いと思う。それもそのはず、四百年分の孤独をこいつはのらりくらりと生きてきたのだ。慰めることはしない。互いにそんなものは持ち合わせていないのは知っているし、期待だって爪の垢ほどもしていない。取り戻せない忘れものをしてきたような心に届くものは、そうありはしない。だからやっぱりこの関係はどうにも不毛だ。いまだ立ち上がる気配のない佐助をもう一度見下ろして、三成は横を通り過ぎる。
「……私は泣き顔が嫌いだ」
そう呟いて、思いがけず胸に過ぎった記憶を目を閉じることで押しやりその場を後にした。
***
その出会いが必然であるならば、自分には何かすべきことがあるのだろう。
振り向いたのは偶然にすぎない。桜の下で足を止めたのも着信のあった携帯電話を確認するためで、このときまで自分にとってこの日は何ら特別な一日ではなかった。あれから四百年続いたこの国のたった一日。他愛もなく穏やかに過ぎていく、特に誰が気に留めるわけでもない、かけがえがないことさえ知らない一日。
首筋を撫でていくひそやかな風を感じて三成は何気なく振り返った。その視線の先に留まったのは、この世に生を受けてからも一度たりとも忘れたことのない顔だ。一瞬、先日もう今年は去ってしまったかと思っていた惜春の幽霊かと思ったが、自分と同じような制服姿なのを見てすぐに思い直す。生きていた。もしかしたらという思いはあったが確信はなかった。しかし別段驚く気持ちはない。この自分が今世に生まれ変わるくらいなのだからと、常にどこかで思っていたのかもしれない。
自分を見る見慣れたその顔は、まるで幽霊を見るように呆けていた。久しぶりにこの目でみる真っ直ぐな瞳は驚きに見開かれていて、幽霊となって囁き続けたその唇は言葉を紡ぐことを忘れてしまったかのようにぽかりと開いたままだ。
「家康」
それは無意識に近かったと思う。十数年ずっと口をつぐみ耳を澄まし続けた想いが一片、耐え切れずにそこでこぼれた。呼びかけて今度こそ、本当の声に耳を傾けたいと願った。自分に出来ることがそれしかないのならせめて。
家康は何かに戸惑い、困惑しているように見えた。目の奥が落ち着きなく揺れている。よた、と足元がふらついたのに三成は手を伸ばした。具合でも悪いのだろうか。そう思って大丈夫かと声をかけようと思った瞬間、その手は家康に届かずに空を掴む。不恰好に走り出した家康の背中を一瞬呆気に取られて見送りかけたが考え込む必要はない。もう会えないかもしれない。そう心が思ったかは分からないが、足は動き出していた。
昔は自分の方が走るのは得意としていたが体力は家康の方があった。追いつけるかどうか心配が胸を過ぎったがそれは杞憂に終わった。やはりどこか具合が悪いらしい。走り方にも無駄な動きが多いし、見たところ身体は鍛えていないわけでもなさそうなのに、大した距離を走らないうちに肩で息をするのが見て取れ、思った以上にあっけなく三成は家康に追いついた。
「おい」
追いかけられていることに気づいていなかったらしい家康に声をかけるとたいそうびっくりしていた。切れ切れの息で身構えるのでまた走り出すかと思いきや、こちらの様子を察するとその色も消えた。
呼びかけたものの、三成は何をどう言ったものか考えていたわけではない。むしろあの幽霊のせいで自分は聞く方だと思っていた。何か自分に言いたいことはないのかと尋ねても、家康が幽霊のことを知らなければ意味がない。沿う考えてじっと家康を見定める。乱れた息と驚きの残る顔にそれを知る気配は察せられなかった。
家康が額に手をやり、ぐらりとその身体が揺れた。いつのまにか血の気の引いた顔で眉根を寄せ苦痛に耐えるように身体を丸めている。おい、と呼びかけて三成は家康に近づいた。一瞬躊躇して、か細い息の零れる家康の二の腕に触れる。家康は、消えなかった。ほっとしたのも束の間、固まって動かなくなった身体を三成は揺さぶった。
「おい!」
少し大きな声を出すと俯いた顔が上がって一度自分を見たが、どこか焦点が合わないように彷徨っている。酷い乗り物酔いをしたようにますます悪くなっていく顔色と力の入らなくなっていく身体に、三成はそれを支えようと腕を持つ手に力を込めた。びくり、とその腕が硬直する。家康はそれを見下ろしてからこちらをそろそろと見上げてきた。かけている声は少しも耳に入っていないようで、視線も自分ではないものを見ているようだったが、案外それはすぐのことで、ひゅうと小さく喉を鳴らして一呼吸した後、少し落ち着いたのか瞳の色も身体の力もわずかだが戻ってきたように感じた。それにほんの少し安堵して三成は手の力を緩める。
今度は小さく唇を噛むようにしてこちらを見上げるので、何か言いたいことでもあるのかと思ったときだった。
「どうした?」
その問いに家康の答えはない。喉奥からせり上がるものに顔をしかめ、肩をすくめるようにしたのに、ぎょっとして少し身を引くことが出来ただけ良かったかもしれない。思わず昔のように叫んでしまったのは予想外の事態すぎて不覚だ。
嘔吐した家康を見下ろして、この状況をいったいどうしたものだろうと逃げる自分がいる一方で、すべてを悟る自分もいる。ああ、こいつも全部覚えている。
私を殺したすべてを、家康はその手に覚えている。
苦しそうに咳き込むその背中に三成は手を伸ばすことが出来なかった。ただぽつりと、これは随分と難儀だと、誰ともなく思った。
continued...