頭の奥でずっと、鳴り続けている。それは眠らせたばかりのものをうずかせ心をひっかいていく。家康は、カウンターに頭だけを預けただらしない格好で腰掛けていた。薄目を開け横に置かれたスマートフォンを見やる。頭の奥と思っていたそれは現実のものだったらしい。バイブの振動がカウンターに響いて着信を知らせている。見なくても相手は分かっている。当分、切れはしない。家康はため息混じりに目を閉じて、もそもそと首を巡らせ自分を追い続けるそれからそっぽを向いた。
週末ののんびりした午後、家康は小田原骨董店で店番をしていた。今までにも何回かしたことがある。たいてい二、三時間ほどこうやってカウンターの前に座っているだけなのに店主である氏政はきちんと報酬をくれる。この間に氏政は近所の茶飲み友だちのところへ出かけている。
家康に骨董の価値は分からないから店主がいない間の買取はもちろんしない。氏政には、入ってすぐ右側の値段のもう決まっている棚の品のみを扱うように言われている。そこは他の棚より少し雑然としていて、そもそも高そうなものがないのがなんとなく分かる。しかし残念ながら家康が客に物を売った経験はまだない。常連客に言伝を頼まれたり、近所の氏政の知り合いが散歩がてら顔を出しに来たのを相手したりと、手伝い程度のことばかりだ。そもそも人がほとんど来ない。家康は客がなくても読書でもしていれば暇が潰せるから構わないが、これでお金をもらっていいものかと余計なお世話だが心配になったことがある。だが店にたびたび足を運ぶうちに、通りすがりの客ではなく常連客との売買がこの店の売り上げのほとんどを占めるのに気がついた。頼まれて仕入れたもの、たまたま仕入れたものを欲しがりそうな常連にすすめたりするやりとりを、家康が店番をしているあいだに裏の座敷で行うこともある。
もちろん、店番のあいだ一人きりというわけではない。必要なとき以外は姿を見せないがいつも奥に風魔が居る。ドアベルが鳴るのとほぼ同時といっていいタイミングに、すっと座敷から現れるのが常だ。
そういえば鶴姫にこの二人のことを話すのをすっかり忘れていた。風魔のことは“宵闇の羽の人”と慕っていたから会ったら喜ぶだろう。今世の風魔はたぶん忍ではないから手品のように消えることもないし、鶴姫が突撃していったら今度こそ捕まえられるかもしれない。ああでも、巫殿の気配を察知して風魔はその前に姿を消すかもしれないなあと、そのことを想像して家康は少し笑った。
のそりと起き上がって、カウンター代わりの和箪笥の上でいつのまにか黙り込んでいたスマートフォンを手に取る。着信履歴を確かめると、やはり先ほどの着信は三成だった。履歴一覧には三成の名前が並んでいる。もう会わないと言った次の日からこれだ。メールは寄越さない。嘘を嫌う三成らしいと思う。メールは取り繕うのが得意だ。でも、電話だって目を見て話すのよりは随分一方通行だと、家康は思う。少し迷ってから、着信のバイブ音を切った。
本当は、三成のメールアドレスも電話番号も消去してしまおうかと思った。けれど三成が家康のを知っている以上、そうしてもあまり意味はない。知らない番号からの着信に変わるだけの話だ。着信拒否にすればとか機種変更してしまえばとか思いつくのに結局どれひとつ実行に移せていないのは、蓋をしたばかりの想いから離れられないからだ。女々しいなあと家康はまぶたをこする。
春のうららかな午後が過ぎていく。家康は今度はカウンターに顎をひっかけるようにのせ、ショーウィンドーから見える外を眺めた。太陽の眩しさに路面のコンクリートが白っぽく反射して、空気の粒さえ光るようにみえる。通り過ぎるに人々の輪郭がその中で少しぼんやりとした。半袖を着て行き過ぎる人に衣替えのことを考える。黒の日傘がくるくると回る。今日は、夜になると雨はないが嵐になるらしい。店の短い影を踏んで歩く女の子のスカートがふわりと小さな風にそよぐ。ふと視線を落とし目に留まった小さなごみを、ふうっと家康は気だるげに吹き飛ばす。
家康は、三成の返事を聞かなかった。これきりにしようと言ったすぐ後に発車寸前の電車に飛び乗ってしまったからだ。どんな顔をしているか見るのも怖くてドアの向こうを振り返ることも出来なかった。あの三成がわざわざ話しがあると切り出した用件が今さら気に掛かりもしたが、もう会わないのだから聞く機会もない。
微かな鈍い金属の音がしたような気がして家康は身体を起こした。ドアの方を見やるが誰もいない。風に押されてドアベルが動いたかな、と一応様子を見に行こう立ち上がる。
「わっ」
いつのまにか暖簾の前の板の間に風魔が居た。微動だにせず外の方へ視線を投げかけている。びっくりした、と胸に手を当てて息を吐き出す家康にもお構いなしだ。何かが動いた気配を察知してやってきたのか、それとも、何かが動いた気配は風魔のだったのだろうか。その躊躇しない横顔を家康は見つめた。
風魔の体格は鍛え抜かれたアスリートのようだ。無駄な筋肉のついていない引き締まった両腕に両脚、上半身は逆三角形と言われるような理想的な筋肉のつき方をだ。家康は傭兵や軍人だったのではないかと勝手に思っていたりする。風魔は相変わらずだし、氏政も風魔のことに関しては口数が途端に減るから尋ねたことはほとんどない。
前世と同じく現れるときにまったく気配がしないし、けして背後も取らせない。反射神経も良い。でも、風魔がいるのに気づいたとき、前世では感じた静かな威圧感と殺しきった殺気に似たものを今世では感じなくなった。今は、大きくてひんやりした水がめに溜められた水の、波打たず底は見えないけれど静かに澄んだ水面を見つめている気分になる。丸くなった、というのが正しいのかちょっと分かりかねるところだ。
細身のデザインの度のない色付眼鏡を常にかけていて、ときどき、横顔の隙間から前世では見えなかった瞳が覗くこともある。たいてい一瞬だ。目が不自由だとかそういうことではないらしい。氏政の身の回りの世話もこなし仕事にもついていく。基本はこの店舗の二階へ住んでいて、それ以外のときは何をしているのかちっとも分からない。今世の風魔も秘密ばかりなのは変わっていなかった。
家康は、ずっと風魔に聞きたいと思っていることがある。何も喋らず、いまだ忍の風体と芯を残したままのこの男ぐらいにしか聞けないと思っていた。前世の自分が、三成をこの手にかけたことを知ったときからずっと聞いてみたいと思っていた。それは人でなしの問いだ。
「風魔殿」
という家康の呼びかけにもやはり気配は揺らがない。言いかけて結局、やっぱり家康は頭を振ってその問いを自分の心から打ち消した。すまない何でもないと手を上げて謝る。言葉のない風魔にこの問いをするのはやはり自分が楽になるための懺悔でしかない。甘ったれだなと伏し目がちにため息をついた。
そのとき、先ほど聞こえた鈍い金属の音が再び小さくしたような気がして、家康ははっと顔を上げた。風魔がこちらを見ていた。色ガラスの向こうの本当に薄っすらと透けて、深い夜の闇をたたえた双眸が家康を静かに射抜いている。家康は目を瞬かせて風魔を見つめ返した。根の底を覚えているような魂の垣間見えるその光。
「……あなたも、覚えているのか?」
確信に近いもものを覚えた声に、無論返事はない。一呼吸分の沈黙を残した後で、風魔は何事もなかったように暖簾の向こうへ消えた。はらりと忍装束の端のようにその暖簾が待って凪ぐ。
もし風魔に前世の記憶があるのなら。それでも風魔は前世の記憶を持たない氏政の傍に居ることを選んだ。共有するものがないのに、それでも選んだ。どちらがよかったかなんて、自分の物差しでもいつかにならなければきっと分からない。
こんこん、と小さく小突く音が聞こえて家康はショーウィンドーの方を見やった。腰の曲がった老人が端っこで中を覗き込んでいる。氏政だ。手を振ると、ご機嫌な様子で手を振り返してきた。目のなくなる笑い方は昔から変わらない。
ひとさじの懐かしさに、家康は風魔と氏政のあいだに前世の記憶があるかないかはたいしたことじゃないのを知る。それは記憶を持つ家康が氏政を慕うのと一緒で、記憶のない氏政が家康を可愛がってくれるのと同じだ。笑いかけたら、笑い返すのと同じ。それがなくてもたしかに繋がっている絆が氏政と風魔にはあるのだ。自分と三成は、どうだったろう。思い浮かべたそれはまた、緩慢に家康の心をひっかく。
ショーウィンドーの前をひょこひょこと小さな影が横切っていく。やがて、からんころんとドアベルの鳴る音がした。
氏政が普段より早く将棋友だちと勝負を終えて帰ってきたので少しお茶に付き合ってから、予定より早めに骨董店を後にした。夕暮れに染まる帰り道を家康はのんびりと歩く。少し風が強くなってきたのに髪を払い上げながら家康はスマートフォンを確認した。鶴姫から着信が入っている。今より三十分ほど前だ。いつもはメールなのに珍しいなと、折り返そうかどうしようか考えている間に家に着く。
今日は母が一人でいるはずだ。父は久しぶりに古い友人との食事会という名の飲み会に出てもうすでにいないだろう。明日は日曜日だから帰りは終電になると家康は察している。ジーンズの尻ポケットに仕舞いこんだ財布から鍵を出し、玄関の引き戸を開けた。
「ただいまー」
鍵を掛け直しながら靴を脱ぎに掛かる。夕餉の良い香りがここまで漂ってきていた。それを胸いっぱいに吸い込み、ふと視線をたたきに落とすとそこに見慣れない靴が揃えてあった。客か?珍しいなとあまり自分の大きさの変わらない靴を横目に見ながら玄関へ上がり、少し離れたところに自分のを揃えて置いた。足音が後ろに聞こえ、家康は振り返った。
「母さん誰か来て……、おま、ちょっ、一体どうやって!」
客用のスリッパを履いた三成がそこへふんぞり返るように腕を組んで立っていた。細身のチノパンにシンプルな形のTシャツを着たその姿に制服よりも違和感を感じて、家康は混乱する頭を抱えた。
「どうもこうもきちんと玄関から上がらせてもらった。お前の母に挨拶してな」
古くからの知己だと言ったら上げてくれたぞ、と三成がしれっと言いのける。
「……嘘は嫌いなんじゃなかったか」
「ふん。嘘も方便という言葉は今でも好かん」
四百年前から知ってるんだ何も間違ってないだろう、と言い捨てて三成はすたすたと廊下を歩いていってしまった。まあ、それはたしかに間違ってないな、と残された家康は一人呟きのろのろとその後を追った。
ちょうど居間の前で三成に追いつき問いただそうとしたところで台所から母が顔を見せ、帰れとは言えなくなってしまった。三成は少し前にやってきたらしく、なぜかもう夕飯を食べていく流れになっている。近くに来たからってわざわざ寄ってくれたのよ、と笑う母に、家康はへえと表情を取り繕いながら三成の顔を盗み見る。あいかわらずどこ吹く風だ。
手を洗い財布を置いて、居間へ戻る。戸を開けると三成が出された茶を飲んで大人しく座っていた。その真向かいに家康は気が進まないまま腰を下ろす。廊下を挟んですぐ台所なので、どうしても声は控えめになる。
「どうして家が分かった? つけてきたのか?」
「お前の学校も知らないのにか? 持つべきものは巫女だ」
「ああ、それで」
三成が家康の家の場所を知ったのはこれで分かった。鶴姫の両親は趣味で野菜を作っているのだそうだ。それをおすそ分けしたいからと言われ先日メールのやりとりでこちらの住所を教えた。今日三成から入った電話がこれから行くぞという予告だったとしたら、鶴姫のは会ったかどうかの確認だったのかもしれない。こちらの事情を知らない鶴姫を責める気にはなれないが、後で一応経緯を確認しておかなくてはと家康は思った。それからじとり、とそ知らぬ顔であたりに目をやる三成を見る。
「……古い知己だけで入れてもらえるとは到底思えないんだが」
家康がそう言うと。ああまあな、このご時世だ、と視線を家康に引き戻した。
「柔道はまだ続けているんですか、とは言った」
「お前、それは卑怯じゃないか」
「何を。私が習っているなどと一言も言ってない」
「それがだな」
と、家康はため息をつく。額を押さえる家康を尻目に三成が斜め前を指差して口を開く。
「そこに飾り棚があるだろう」
「ん、ああ。……お前」
「○○区柔道大会、男子小学三年、二位。トロフィーのを読み上げただけだ。それで私もその大会に出場していたと勘違いしたようだな」
「ああ、なんとまあ、昔と違って融通がきくようになったというか、少しは、変わったのだな」
嘘の混じったものさえあれだけ突っぱねていた昔の三成を思い出しながら座卓に肘をつき手のひらへ顎をのっけて、呆れ半分、感心半分で三成を見る。すると、何を言うかと小馬鹿にした顔をして姿勢の良い三成が家康を見下ろした。
「私にも今世で過ごした十七年間がある。今は、あの時代とは違う」
そう言って一瞬歯がゆそうに唇を噛んだのを家康は見逃してしまった。その代わり、お前の母はお前に似ている、気をつけろ、と静かに言ったのを聞いた。
ほどなくして母の呼ぶ声が聞こえ、夕食の時間になった。物静かで行儀の良い三成を母はいたく気に入り、久々の客人にも喜んでいるようだった。互いの十七年間を知らなくても前世の記憶があるから作り話ばかりする必要はない。友人だというのを母はすっかり信用しているようだった。ご飯のお代わりをよそいに母が立った合間に、
「食えない狐になったな」
と恨みがましく言ってやると、
「そういうお前は詰めの甘い狸だ」
と三成が漬物をつまんで噛んだ。こんなふうに口喧嘩などしている場合じゃないのに、戻ってきた母と今度はいつのまにか家へ泊まっていく話が進んでいる。それは、なあ、と母に言って三成に空気を読めと目配せしたが三成はこちらを見もしない。おいおいそんなの見たことないぞと思わず家康が心の中でぼやきたくなるよそゆきの顔で微笑した。
「では、お言葉に甘えて」
つられて破顔した母の顔を見て家康はもう曖昧な何かをそっとこぼすしかなかった。
夕食を終えて、そのまま食後のお茶を飲みながら過ごした後、遅くまで起きていられない朝の早い母が先に湯をもらいに席を立った。まだ九時を回ったところなので父が帰ってくるのにも早い。二人で居間にいるのが落ち着かなくなってきて、家康は自分の部屋に案内した。
「桜か」
入るなり、三成は開け放してある障子の向こうに見える木を見て言った。昼間と違って随分と風が強くなっている。逆巻くような風に枝がうねり、葉のざわめきが絶え間なく部屋へ届く。近くにあるとこういう日は耳にうるさい。
元は祖父の部屋なんだと言うと、花咲くわけでもないのに魅入っているふうだった三成がゆっくりと振り向き、写真はあるかと家康に言った。机の引き出しにあった一枚を差し出すとそれをよく目に含んで、お前もきっとこんなふうになると少し目を細めた。
その表情をはかりかねて家康は首を傾げ、ちらりとその写真を覗き込み、その腹は似たくないなと呟いた。
「……なあ」
「何だ」
「どうしてここに来た? このあいだワシの言ったこと、聞こえなかった筈はないだろう」
「ああ、あれか」
些細な忘れ物を思い出したような素っ気なさで言う三成から写真を受け取って、家康はその顔を見る。
「お前は納得がいかないかもしれない。でも、……こんなことを自分で言うのもおかしいが、一方的に何もかもを終わらせるような酷い奴にもう構うな」
自分を見返す三成の顔はとても静かだった。出会ってからときどきこういう顔を見るようになったと家康は思う。前世でも同じようなふうで人の話を聞いていた記憶もあるが、それとはまた少し違う。注意深さがほんの少し見て取れるようになったといえばいいだろうか。
何も言わない三成の瞳がゆっくりと瞬きする。家康は、胸にある閉じたばかりの箱のふたをぎゅっと押さえつける心持で小さく息を吐く。
「もう会うのは、」
「その話はしない」
「は?」
「私は、その話をしにきたわけじゃない。それは家康、貴様の話だ。だから私はその話はしない」
語気を強めた口調に真正面から家康を射抜くその双眸。その真っ直ぐさが昔から家康は眩しかった。逃げ切れない、偽ることを許さないその光。だからこそ前世の自分はそれにたじろがない自分でありたいと、三成と対等であるために恥じない自分になりたいと願った。その気持ちが少しだけ、懐かしい。
母の呼ぶ声が何かを言いかけたような三成の仕草を邪魔する。しかし三成が再び切り出す素振りもなかったので、家康が促すこともできず話は仕舞いになる。その直後、母が先に床へ入るために声をかけに来て、三成を客間と風呂場へ案内するために連れて行った。そのままその日はもう顔を合わせることがなかった。
客間は家康の部屋の廊下を挟んた隣にある。風呂から上がって顔も見せずに三成が引っ込んでしまったその戸を見つめ、声をかけようか迷ったが結局そのまま家康も風呂に入り部屋へ戻った。明日起きたら考えようと、深いため息をついて布団をかぶる。障子を閉め切っているのに、嵐にざわつく木々の揺らめきが耳につく。風の唸る声が部屋を取り囲んでいるような気分になる。さあ明日はどうしたものかと少し重たくなったまぶたを、そっと暗闇の中で閉じた。
すっ、と隙間風に頬を撫でられたような気がして家康は目を覚ます。外は相変わらず風が強く、ざわめく木の影がぼんやりとほの白い障子に踊っている。流れる雲にときどき月が隠れてふっとあたりが暗くなる。そして少しずつまた薄闇に明けていく。薄目のままで枕元の時計を見やる。惜春の幽霊が現れていた時期はときどきこの時間に目が覚めていたことを思い出す。あれから三時間くらいは眠ったのか、とぼんやり考えながら布団を掛け直し身体を窓の方へ横に倒した。すると、かた、と小さな音がして家康は目線を下げた。一筋の光が閉め切ったはずの障子の隙間からもれている。あれ、と思う間もなく、影が横切り月が隠れた。
障子の陰からぬっと、白い手が伸びてきた。よくよく見慣れたそれに家康が今さら声を上げることはない。ああ幽霊だ、と覚醒し切れない頭の片隅で思う。ゆっくりと一度やわらかに瞬きする。これは夢だ。
ひたりと幽霊の右手が畳につく。そろりと、片方の手が障子にかけられて、すーっと淀みなくそれを押し開ける。薄暗い部屋へ少しずつ侵入する光り輝く闇に家康が眉をしかめるのは一瞬で、ぬっと差した影に今度は目を凝らす。
四這いで入ってきたその幽霊は俯いていた。長い前髪と影に隠れて相変わらずその瞳は見えない。薄い唇は色なく結ばれていて、手と同様に頬も、着物の袷から覗く喉も、色を失ったかのように白い。もうすでに身体の半分以上を滑り込ませた幽霊が、迷いなくこちらへ手を伸ばしてきた。家康の左肩へ触れたかと思うと、指先でそっと押すようにして家康の半身を布団へ倒した。骨っぽい長く神経質そうな指が肩を掴んで、縫いとめる。その力の確かさに少し躊躇しながら、着物から伸びた足が器用にそしていささか大雑把に障子の戸を閉めたのをちらりと見た。
押し付けられて見上げた天井の笹縁と板の境目が作るます目の数を悠長に数えている間もなく、布団の上を這う衣擦れの音がし、それは自分の太ももの上を通り過ぎ身体を跨いだ。幽霊の左手が家康の右腕に触れる。それは秋の夜長の冷たさだ。するすると何の余韻も残さずにあっという間に腕を伝い肩を撫で鎖骨を辿り、喉元で一瞬止まって、それから顎の形を確かめて頬を包んだ。吸い付くようにそれはひやりとする。
俯いたままの青白い面差しを家康は薄闇に滲む視界の中で見つめる。いったいどんな光をたたえて、この惜春の幽霊は自分を見つめているのだろう。憎しみか哀れみか、それとも虚無だろうか。ふと、寸分違わぬもうひとつの面差しを思い出して目を閉じる。今世を生きる三成の顔。よくよく知っているのに、ときどき知らない表情を覗かせるその顔。なのにそれでも三成だと自分の心のすべてが言う。覚えているということ、分かるということが今は、苦しい。
強く、風が吹いて、心を波立たせるように洞が鳴るのに似た音が外から届く。家康が小さく名前を呟いたのはほとんど無意識に近かった。その瞬間、自分に触れる手がびくりと反応する。
家康。
澄んだ声がして、家康は静かな驚きに目を見開く。
滑り落ちる前髪の向こうから、真っ直ぐな眼差しが自分を捉えていた。透けた障子の明るさを受けて、横顔が月の白を映す。すっとその顔が動いて前かがみになり、家康の顔を覗き込むようにした。肩を掴んでいた右手が離れて肩口をなぞったかと思えば家康のパジャマの袷を探っている。
「…………いやいやいやちょっと待て! お前幽霊じゃないな!?」
「うるさい黙れ騒がしい好きにさせろ」
「できるか! こんな格好して人の部屋に忍び込んで、何のつもりだ?!」
「は、さっきまで大人しくされるがままだった男の言葉とは思えんな。さては貴様、私の幽霊になら夜這われたことがあるな」
「ばっ、」
その通りだとは言えないのでぐぬ、と一旦家康は言葉を飲み込んだ。服のボタンを外そうと両手でかかる三成をなんとか阻止しながら、先ほどより声の大きさに気遣い、これはなんだと三成の出で立ちを問いただす。ああこれか、と関心のない顔で三成が鼻を鳴らした。
「風呂上りに借りた浴衣だ。客用のな。文句あるか」
心底馬鹿にしたように言うので、よくよく見てみると寝ぼけ眼にさっきまで白装束に見えていたそれは薄い水色の生地にかすれ模様が入っていた。
「……騙された」
「知るか」
三成が顎を小さく引いて息をこぼす。押さえ込んでいた両手にいつのまにか力がなくなっていて油断した。さっと家康の手の下から抜け出て袷の下に手を差し込もうとする。慌ててその右手を掴んだ。
「お前な!そんなにワシを困らせたいか」
この瞳を前にすると、どうしても睨みきれない。それを見破られているのか分からないが、困らせる?と家康の言を拾った三成が目を細めてみせる。
「幽霊だと思えばいい。そしたら貴様に何をしたって構わないんだろう。さっきまで大人しくしていたじゃないか」
「そうじゃない!」
「うるさいぐだぐだ言うな」
「だからそうじゃない、お前は幽霊ではないだろう!」
前世では自分の方が明らかに力が強かったのに、今世ではほんの少し上という程度で押さえ込むのが難しい。自分の手を振りほどいて逃げた右手の、家康はやっとその手首を捕まえた。三成がちっと舌打つより早く、意識から逸れた左手を服を剥ぎ取りにかかる。それはまずいだろ!と掴み合ってやり合ってようやくこちらの戦いにも家康は勝利した。ふう、と大きく息を吐いて息を整える。
そうして両の手を捕まえてしまうと、観念したのか急に三成はすとんと力を抜いて、家康の上に馬乗りになった。俯いた顔が隠れて面差しが見えなくなる。
「なあ」
拗ねた子どもを窺うように、家康はなるたけ優しく言って雲隠れした月に話しかける。くたりとした自分よりかは細いその手首を握り直して、自分の胸元へ置き直す。
「お前は、幽霊じゃない。こうして触れることが出来る。声を、聴くことができる。ここにいるじゃないか。こんなまねをしなくたって、」
「じゃあなぜ触れない」
通った声に全部が見破られているのを家康は知る。ああ、最初から気づいていたのだなと俯いた三成の漂わせる冬の落日のような空気に少し、胸が痛んだ。
「……触れてる」
「違う。とんちでごまかすな」
「そっちも、禅問答のようなことを言ってるじゃないか」
少し意地悪く返すと、顎が持ち上がって切れ長の目が小さく睨み返してきた。息をこぼして目を閉じ、その顔を見つめ直す。白い首筋に細い顎の影がほんのりと落ちている。
「覚えているだろ。ワシがこの手でお前に何をしたのか」
「ああ」
「それが答えだ」
それでもこの手でずっと触れたかったとはやはり言えるはずもなかった。幽霊とはまったく違うけれど、三成の肌は相変わらず熱っぽさを感じない。じわりと少し汗ばむような温度を持つのはやはり自分の方で、触れ合った部分が温くなっていくのがなんとなく躊躇われた。もう無茶をしないだろう三成の手首からもそっと手を離しかけたとき、小さく、三成が小指の先を家康の手の甲に引っ掛けてきたような気がして、それは本当に偶然かもしれなかったがそれだけのことで家康は手をはがせなくなってしまった。
私の話をしてやる、と三成が静かに言った。
「なに?」
「私の元に現れる、桜の幽霊の話だ」
そう言うと三成は顔を上げ、驚きに目を見張る家康を見下ろした。風に弄ばれる木々の影が薄闇に浮かび上がる三成の横顔を横切っては隠しを繰り返している。後悔を滲ませる頼りない唇が、何かにせっつかれるように開くのを家康は見る。
その話は、家康が三成にした話ととてもよく似ていた。三成の前に現れる惜春の幽霊。まさか自分と似たような目に遭っていたとは思いも寄らなかった。
再び俯いた三成の声は最後、消え入るようだった。ひっかかったままだった指先が小さく絡められ、小指の爪がほんのりと家康をひっかく。闇に慣れた家康目にも隠れた三成の顔は窺えない。今さらながらいくつかの思い当たる節を頭によみがえらせて、ああどうしてこうも上手くいかないのだろうと家康は小さく唇を噛んだ。
ひとつのことが気に掛かって、家康は三成の手を連れたままその手を、嵐の中たった独りでいるような自分とよく似たもう一人に手を伸ばした。
「……そいつは、お前に触れたことがあったか?」
「ただの一度たりとも、ない」
潔く言い切って、そのまま三成は家康の手の中ではなく横をすり抜けて畳の上に倒れこみ、浴衣の背中を丸めて何も言わなくなった。
泣いていると気づくのに時間はかからない。音もなく、微かに震えて丸められた薄い背中が酷く、酷く、遣る瀬なくて、家康は解かれた手を虚空に彷徨わせていたが息ひとつ分躊躇してからやがてこわごわとその背中に触れた。少し緊張が走ったように感じたけれど、そのままひと撫でして、無言の背中をさすり続ける。
どうしてこうも、傷つけてしまうのだろう。こんなに近くにいるのに三成の泣き声さえ聞こえない。涙をぬぐう術をひとつも知らないくせに、再びこうして傍にいる。
通じ合う言葉を持たない今、二人がたったひとつ分け合うことの出来るのは沈黙だけなのに、嵐の逆巻く夜にはすべてが吹き飛ばされて何も聞こえなかった。びゅうびゅうと啼く風が窓ガラスを伝って震わせて、その音が地鳴りのように耳の奥で渦巻いている。
家康は三成のいる方に身体を倒すと、自分の布団を引っ張って半分を三成にかけてやった。
同じ部屋にいるの二人なのに、自分たちは、独りと独りだ。互いに風の強い明けない夜を抜けるすべを知らなくて、途方に暮れて立ち尽くしている。四百年という白夜のあいだ、行く先も分からずに、風を遮るものさえ持たずに、旅する友を傍らに失って。
せめて、助く杖が見つけられたらよかったのにと思う。そうしたら、足元の小石を枝をそっと払って、ときには手となり足となる。この白夜をゆく独りの旅人のためにワシは、どんなこともするだろう。……ああ、やっぱりこの想いは捨て切れない。
冷たい背中を、するりとこの手が滑り落ち何度も辿る。どうか、それが三成を欺く嘘ではないようにとまぶたの裏に願った。
continued...